Episode__1
生き物の気配のなくなった廃墟。自分たちの話し声くらいしか響いていなかったその中で、突然、ザ…ザザ……という、穏やかな空気をかき乱すようなノイズが耳に触れた。
最初はごく微かな、しかし秒毎に音量を増してゆき、それはすぐに砂嵐めいた激しいものへと変わった。
「うわ……!」
「ぐっ、何だ!?」
驚き飛び上がった俺とクロノだったが、音源たる上空にはさらに目を見張る光景があった。
現実に準拠して作られた夏空、夕焼けに染まったその赤色が大きく罅割れていたのだ。比喩でも何でもない。高精彩のグラフィックがモザイク状に輪郭を崩し、あちこちでポリゴンを欠け落ちさせている。
異変は一部だけでないらしく、徐々にだがその範囲を拡大させているようだった。空が、雲が、太陽が、俺たちが呆けている間にも浸食を受け、次々と黒く塗りつぶされてゆく。光源がないにもかかわらず日の暖かみを感じるちぐはぐさが、現状のイレギュラーさを際立てていた。
歪み壊れた風景は見る者にどうしようもない不快感を与えた。響き渡るノイズとあいまって、脳を揺らすがごとくだ。
俺は自分でも気がつかない間に膝をつき、目を閉じて耳を塞いでいた。
どれくらい経っただろう――視覚、聴覚共に正常に戻ったとき、そこはもう石組みの神殿跡ではなくなっていた。
ふらつきながら立ち上がり、唖然として〈それ〉を見る。
生い茂る木々があった。日差しをもとめ四方へ枝葉を伸ばしている。腐葉土なのだろう、地面は軽く身が沈むほど柔らかい。草むらからは虫たちの合唱が聞こえる、重ねるようにして鳥もさえずっている。うっすらと霧が出ていて、やや肌寒く感じる。
眼前には、鬱蒼たる密林が広がっていた。
慌ててマップを出すもダンジョン名は表示されず、俯瞰図の方もほとんどは――というよりも、俺のいる周辺意外は全てが空白になっている。地図は自分でその場所を歩くか、あるいは冒険したプレイヤーからマップデータを購入するかしなければ手に入らない。つまりここは俺が来たことのない座標ということだ。
見た目からしても明らかだが、ここは先ほどまで居た神殿エリアではないらしい。
信じられないことだが、俺たちは一瞬にしてダンジョン間を移動してしまったのである。たとえ瞬間移動アイテムを使ってもそんなことはできないというのに。
「ユトっ、無事かい?」
いったい何が……呆然としていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこには見慣れた白ローブ姿があった。
無事、とは先程のあれを指してのことだろう。VR技術はまだ開発からの歴史が浅い。販売元からは安全の保障がなされているとはいえ、やはり不安はぬぐえない。俺はざっと体の動きを見て、特に不調がないことを確かめる。
大丈夫だ、そう答えようとクロノの顔を見る。
……そこで俺は、なんともいえない奇妙な違和感に襲われた。
何がどうと聞かれても、はっきりとした答えは出せない。ただ、全体的な雰囲気とでも言うべきものが違うと、そう感じた。頭からつま先まで、顔も装備も何もかもが数分前とまったく同じにもかかわらず、漠然とした不一致感がある。
俺は頭をふった。たぶん、さっきの妙な現象の影響だろう。解像度の下がったぼやけた姿を見ていたから、元に戻った今、逆におかしく思えてしまったのだ。怪訝そうな表情を浮かべるクロノに笑みを返し、問題ないことを示す。
「大丈夫だよ。俺はな」
周囲の変わり果てた景色を示し、言う。
するとクロノは難しい顔をして腕を組み、片手を顎に添えた。友人の考え込むときの癖を見ながら、俺もまた事態に対する思案を巡らせる。
「なんかのイベント……って感じじゃあ、なかったよな。バグか?」
「ここの運営元は世界観を崩す行為にうるさいからね。あんな、ここがデジタルな仮想空間だと思い出させるようなエフェクトは使わない。それにもしこれがクエストとかなら……」
クロノは自分の目先の空間を指し示し、
「この辺りにスタートログが流れるはずだ。一応聞くけど、ユトのほうには?」
「ない」
「じゃあ、やっぱりバグだ。プレイヤー重視の姿勢でやってるSCOにしては珍しいけど……」
言いながらも、クロノはやや釈然としなさそうだった。気持ちは大いにわかる。普段SCOは動きが重くなることすらめったにないのだ。あのようなあからさまなバグが放置されていたことには首を傾げたい気持ちだ。
しかしまあ、起こってしまったことは仕方がない、というのもまた事実である。しばらくして、俺はそれらしい推論を組み立て口にした。
「……VRは必要とされるデータ量が半端ないからな。いくら気をつけていたって、少しくらいはチェック漏れもあるだろ」
クロノは納得したのかしてないのか、微妙な表情で頷いた。苦笑しながら言葉を続ける。
「まあなんだ、起きたのが戦闘中でなくてよかったと思おう。GMに報告してから落ちるか……」
俺は左手を中指と薬指を折り曲げた形で軽くふった。瞬間、胸の前あたりに淡く光る半透明のボード――〈メインメニュー・ウインドウ〉が効果音を鳴らして出現する。
浮遊するそれに触れて、ずらりと並ぶメニュータブの中から【Message】――通信機能を選択し画面を呼び出す。
ゲーム開始当初から強制登録されているGMの連絡先を探し出しコールボタンを押すと、ルルル、と捻りのない呼び出し音が鳴り始めた。
これであとは窓口の男性だか女性だかに事情を話すだけだ。俺たちはすぐにでも元いた神殿エリアに戻され、バグ自体も翌日には担当者がきれいさっぱり修復していてくれることだろう。
――そう思っていた。
「…………繋がらないな」
眉をひそめ、小さく呟く。
いつまでたっても応答の気配がない。延々と電子音が続くばかりである。
「どういうことさ?」
「俺に聞かれても……」
しばらく二人で呻ってみるが、システム側の事情が一プレイヤーにすぎない俺たちにわかるはずもない。
「……もしかしたらだけど、さっきのは局所的なバグじゃなかったのかもな。サーバそのものに何か問題が起きたとか。俺たちのところだけじゃなく全体であんな感じになってて、それで問い合わせが殺到して対応しきれなくなってるとか」
正直まったく根拠のない言葉だったが、クロノは一応の納得を見せた。
「なるほど、あり得るかもね」
「一応メールを送っておこう。まあ、もし推測が正しければそっちも見てもらえる可能性は低いだろうけど」
俺は、今度はメールボタンを押して白紙の画面とホロキーボードを表示させた。件名に『バグ報告』と入力する。
「やっとくから、先に戻ってていいぞ」
安全エリア外では即時ログアウトができないという危険はあるものの、いつまでもここに居続けるわけにもいかないだろう。
「そうかい? じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ」
手を振って、クロノがウインドウを出現させる。
情報の盗み見を防ぐ不可視モードになっているため、俺からは何も書かれていないまっさらなボードにしか見えない。とはいえデザインは全プレイヤー共通のものだ、何をしているのか大体の想像はつく。左側に人型の装備フィギア、右側に各ページに飛ぶためのメニュータブ。クロノは迷いなく右下に指を運び、そこにあるであろう〈ログアウトボタン〉を叩いた。
そして――何も起こらない。
エフェクトの一つも発生しなければ、魔術師のアバターも、その中の人間の意識も、依然としてそこにあるままだ。
てっきりすぐに退出すると思っていたのだが、押したのはログアウトボタンではなかったのだろうか。不思議に思ってキーボードを叩く手を止め見ていると、ふいに、クロノが顔を上げた。
その表情に浮かんでいるのは、困惑。
口にされたのは、致命的な事実。
「…………ログアウトが、できない」
人間は自分の見たいものしか見ないとはよく言ったもので、その言葉を聞いたとき、まず俺が感じたのは驚きでも恐怖でもなく〈呆れ〉だった。何を馬鹿なことを、そんなことあるはずがない、すでに異常事態の只中にいるにも関わらずそんなことを思った。
「できないって、なに言ってんだよ」
「いや、ほんとだって。ボタンを押しても反応ないんだ。ちょっとユトもやってみてよ」
そう言うクロノの顔にふざけている様子はなかった。あまりに真剣な表情で、俺はようやく一抹の不安を感じた。
メールを一時保存し、閉じる。トップメニューに戻って【Log Out】のボタンを叩く。ログアウトします、よろしいですか? 確認画面が出る。もちろんYESを選ぶ。同時に俺は現実世界の自室、ベッドに横たわる己の肉体に意識を戻す……。
「え……」
目の前には変わらぬ景色。どこまでも広がる、森。
当たり前だが俺の部屋ではない。SCOの、ゲームの中である。信じられずもう一度操作を繰り返すが、結果は同じ。
「嘘だろおい……。これもさっきのアレの影響か?」
「としか、考えられないんじゃないの」
まったく、運営は何をやってるんだか。苛立ちを含んだクロノの呟き。
同意の声を返しながら、俺は他にログアウトする方法がないか記憶を探っていた。そして愕然とする。ない。SCOにおいてログアウトボタンは、仮想と現実、二つの世界をつなげる唯一の道だ。
VR内で扱うアバターは脳が発する命令を汲み取り、デジタル信号に変換することで動いている。それにより生身の方は壁やら床やらにぶつかって怪我をせずに済んでいるのだが……言い換えれば、こちら側にいる間プレイヤーが現実世界に干渉することはどう足掻いてもできないということでもある。この状況で俺たちにできることはバグが直るか、外部で誰かが接続危機を剥がしてくれるのを待つことだけだ。
ふと、昔読んだ小説のことを思い出した。それはもう数十年も前に書かれた、当時にはまだ存在しなかったVRゲーム内の世界を舞台にした物語だ。主人公はとあるイベントで行われる世界初のVRゲーム、そのプレイヤーに幸運にも選ばれる。冒険を楽しむ彼であったが、しかし、ゲームは途中からただの遊びではなくなる。ある狂人が施した仕掛けによりゲーム内での死はそのまま現実世界での死に直結し、つまり――
「――デスゲーム」
そう言ったのは俺ではなく、クロノだった。
「みたいだと、思わないかい?」
にやりと意地悪く笑う彼を見て、そういえばあの本はこいつに借りたものだったと遅まきながら思い出す。本に限らずゲームなどでも、レトロ作品を収集するのが趣味なのだ。
薦められた理由は、VRがある一人の天才の力によって生み出され、またその人物がゲームソフトの開発にまでも関わっているという〈現実と似通った〉部分があったからだった。
テレビや雑誌で見た〈彼〉の顔が狂気的な笑みを張り付かせ、俺をこの世界に閉じ込める光景を想像し身震いする。どこか浮世離れした雰囲気を持つあの人ならやりかねないと、そう思ってしまった。
「……やめてくれ。洒落にならないぞ、それは」
自分も全く同じことを考えていた、ということは脇に置いといて嗜める。
クロノは悪かったよと、まるで反省の色が見えない謝罪をして、そのあとにけど、とつなげた。
「そんなことあり得ないだろう?」
……別に、我が相棒がとんでもなく楽天的で、危機管理能力が欠如しているとかそういう訳ではない。
これまで幾人もの作家によって創造されてきたその惨劇は、それだけに厳重なセキュリティが組まれ対策がなされているのである。
ファイアウォールなどの電子的な防御は勿論そうだが、そもそも俺たちが被っているギアには人を殺傷するようなことは絶対にできない。
あれにできるのは人体に影響しないレベルの、ごく穏やかな電気信号を発信するだけだ。仮に運営側の人間だろうと、あるいは凄腕のクラッカー――ハッカーの悪質なもの――だかがシステムの全制御をのっとったとしても、せいぜい今のように一時的にログアウトをできないようにするだけで物語のような事件は起こせないのである。
危機を前にした理解放棄ではなく、彼の発言にはちゃんとした根拠があるのだった。
「まあ、確かにな。けど、そうなると何らかの対処がされるまで、俺たちずっとこのままか?」
肩をすくめる。
「あー……そうなるね。デスゲームは始まらないにしても仮想空間への意識の隔離なんて、VRでは考えられる限り最悪の事態だ。普通はサーバを停めるなり、ネットワークを切断するなりしてさっさとプレイヤーを戻すのが当たり前の判断だと思うんだけど……」
言わんとすることを察し、俺は表示されているデジタル時計を見た。
現在時刻は午後六時三十五分。〈あの現象〉が起きてからすでに十分以上が経過していた。設定された四時間のVR接続限界も、すでに過ぎている。
それなのに、未だシステムアナウンスの一つもないというのは明らかにおかしい。
「もしかしたら、前提が間違ってたのかもね」
「……どういうことだ?」
「一度納得した手前こういう言い方もなんだけど……サーバ自体に問題が起きたってのは、あくまでも君の推測でしかないわけだろ? もしそれが違ったら。あれは局所的な、僕らの居たところでしか起きなかったとすれば」
「GMと連絡が取れないのも、コールが集中してるからじゃなくバグだってことか? 運営は対処できないんじゃなく、気づいてないだけ……?」
なるほど、筋は通っているように思える。俺の推論はクロノが言ったように根拠のないものだし、異変に気づいていないならそもそも対処するしない以前の問題だ。
「仮にそれが正しいとすると、このまま救出を待ってても意味はないな。まあ、晩飯の時間になれば親が強制終了するとは思うけど、それまでここでじっとしてるってのも……」
「うーん、確か、街の中央会館にはPCのスタッフが常駐してるはずだよ。そこまで行ってみよう。事情を話せばシステム側で落としてくれる」
「ああ、そういえばそんなのもあったな。普段利用しないからすっかり忘れてた」
「じゃあさっそくだけど転移魔法使うから、もう少し近づいて」
俺は言葉に従い、クロノとの距離をやや詰めた。
テレポートは術者を中心に二メートル程度の範囲のプレイヤーを、一度そこに行ったことがあるという条件で、近隣の街まで瞬間移動させる魔法だ。もし置いていかれたら――まあ同効果を持つマジックアイテムがあるので別段困りはしないのだが、消耗品であるうえ意外に値が張るためあまり使いたくはない。
二人の位置関係が問題ないことを確かめると、クロノは呪文を唱え始めた。英単語の羅列のような複雑かつ長いワードを狂いなく、そして滑らかに口に出す様子にいつものことながら圧倒される。前衛職とはいえ俺も全く魔法が使えないわけではないのだが、覚えている数も一つ一つの呪文の長さも段違いである。
感心している間に詠唱は終わり、同時に地面に魔法陣が現れる。青白く光るそれから文字が浮かび出て、俺たちの手足に巻きついてくる。これまたいつものことだが、無駄なまでに力の入ったエフェクトである。
文字群はアバター全体に巻きつき終わると一際強く瞬き、俺たちは転移時特有の音や風景といった、五感から得られる情報がだんだんと遠ざかってゆく感覚を味わいながら姿をかき消す――はずだった。
バリンッ、という音を立てて文字でできた鎖が弾け飛んだ。周囲に光の粒を撒き散らし、溶けるようにして消滅する。
……ここまで来ると、もう笑うしかない。
「…………これもバグ、なのか……?」
俺たちは力ない笑みを交わし、どちらからともなく溜息をついた。
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「ったく、まさかこの歳になって木登りなんてするとは思わなかったぞ」
「まったくだよ。けど、上から見渡せる範囲に街があってよかったね。でなけりゃ、この薄気味悪い森の中を闇雲に走り回らなきゃならなかった」
そんなことを話しながら、俺たちは緑濃い木々の間を歩いていた。
転移はできないわマップは役に立たないわな俺たちが取った手段は、高いところに登って街を探す、であった。全体的に背の高い木々が並ぶこの森の中でもさらに巨大な、樹齢何百年とも知れぬ巨木を見つけ出し、高レベル戦士の筋力パラメーターにものを言わせてよじ登ったのである。
森は存外に深く、頂点近くまで行かなければ全体を見ることはできなかった。東側に街の光を見つけたときはほっと息をついたものだ。
「しかしどこなんだろうな、ここは。俺たちがマップデータを持ってないダンジョンで、こんな森なんてあったか?」
「僕の知る限りではないね。けど、それも当然だろ。SCOってことあるごとに新エリアが追加されるから」
「ああ、確かに。最前線だけじゃなくて、思わぬところが拡張されるときとかあるよな。昔、しばらく立ち寄ってなかった街に行ったら、周辺のダンジョン数が倍に増えてて驚いた」
「あるね、そういう経験。そういや実際に測ってみようって連中もいたなあ。まあ、結局おおまかな数値しか出せなかったらしいけど……確か、三千平方キロメートルくらいだったかな。東京都の約一・五倍だ」
「そりゃまた、凄いな。SCOに限らずRPGって、どうしてもレベル帯によって行動範囲が絞られるから全然知らなかった」
ざくざくと草むらをかき分けて進む。そこには、自分で言うのもなんだが、慎重のしの字もない。初心者プレイヤーでももう少し気を配る。
傍目には雑談しながらのんびり探索するお気楽パーティーに見えることだろう……が、もちろん実際は違う。
SCOのサービス開始が二年半前、ベータの頃から数えれば三年、それだけの時間プレイしているのだから索敵の重要性くらいは理解している。それでも首を振って周囲を確認したり、沈黙を保ち物音を聞き取り易くしたりしないのは、単にそれ以上に有効な手段を持っているからだ。
今日こそクロノという仲間を迎えてパーティー狩りをしていたわけだが、普段の俺はソロプレイ――単独での探索を主にしている。そして個人行動するプレイヤーにとって最も避けたい事態は〈不意打ち〉である。
もし仲間がいれば、たとえ不意打ちを受けHPを大きく減らしたとしてもしばらく盾になってもらいその間に回復する、というようなこともできるだろう。だが、ソロのときのそれは死に直結する。
ダメージだけならともかく予想外の衝撃を受ければ体勢は確実に崩れ、追撃を受けるだろう。麻痺付加などされていたらもう諦めるしかない。場合によっては後悔する間もなく一撃死するかもしれない。
よって俺は〈警戒〉というスキルの熟練度を徹底的に高めている。名前と話の流れからわかるだろうが、これはモンスターあるいは盗賊プレイヤーからの不意打ちを防ぐスキルだ。より具体的には一定範囲内に敵が近づいてきた場合に――
唐突に甲高い警報音が鳴り響き、視界中央に赤文字で【Warning】という表示がなされた。自動展開されたマップには、接近する敵影が赤い光点によって示されている。
――こうなる。
言っている、いや思っているそばからスキルが発動し、俺はそっと嘆息した。
「どうしたんだい?」
ウインドウ由来のSEは基本的に本人のみに聞こえ、周囲に漏れることはない。だが、いきなりボードが現れたのと、なにより俺の表情の変化を敏感に捉えたのだろう。クロノが険しい顔をして尋ねてくる。
「敵だ。索敵範囲外から補足されたらしい、こっちに向かってくる」
警戒は優秀なスキルだが、実のところその有効範囲はそれほど広くない。これは、遠くの敵を見つけることよりも透明化などの隠蔽スキルを破ることに重きを置いているからである。
そのため今のように先にモンス側から見つけられることもままあるのだ。
森というフィールドとこのスピードから考えるに、獣型モンスの鼻に引っかかってしまったか。同じく索敵カテゴリに分類される広域探査などを持っていればそれも防げるのだが、生憎それを修行するには圧倒的に時間が足りない。
捕らえられれば、覚悟を決めて戦闘に入るのみだ。
「初めて来る場所だと敵のレベルもわからないな……さすがに最前線で知らないエリアがあるとは思えないけど、念のため逃げる準備もしといてくれ」
ここは森だが、幸いにして剣を振り回せないほど狭くはない。早口に状況を説明すると俺は音高く剣を抜いた。クロノも魔法効果を増幅する長杖を構え、敵を待つ。
――数秒後、がさりと草木を掻き分けて姿を現したのは、一言でいえば巨大なゴリラだった。
ただし当然、その様相は動物園にいるものとはまるで違っている。
頭上に表示された名前は、〈クリムゾン・フィスト〉。
名のとおり体毛は保護色という言葉にけんかを売っているような、赤。筋骨隆々とした体躯は現実世界にいるそれと共通しているように思えるが、そもそも全体的な大きさが異なっている。こちらのほうが二回りはでかい。頭には小さいが角など生やし、山奥で出会ったらすぐさま死を覚悟するであろう化物だ。
現実なら、だが。
俺たちはその巨体を見て、むしろ安堵の息をついた。
「うわー、久々に見たなあコイツ。赤ゴリラ。ユト、覚えてるかい?」
「ああ、こいつにはさんざん苦労させられたからな」
クリムゾン・フィスト、紅き拳はSCOの初級ダンジョンに出没するボスの名前だった。攻撃力に特化した個体で、何度一撃死させられたことか。たぶん、これまでの二年半にわたるプレイで死亡した回数のうち半分はこいつのせいだ。
「まったく、序盤に出るモンスのステータスじゃなかったよな、こいつは。そのうえボス部屋なしの徘徊型に設定されてるから厄介極まりない」
「だね。あんまり強いもんだから、ゲームバランスの改善を求めたプレイヤーまでいたってね。受け入れられなかったらしいけど」
二人でうんうんと頷いて、苦労した昔を懐かしむ。もっとも、俺はベータテスト時に攻略法を完成させていたので、正式版では他プレイヤーとさらに差をつける要因になったのだが。そう考えれば逆にありがたがるべきなのかもしれない。
……と、いきなり目の前で思い出話に花を咲かせ始めた俺たちに苛立ったように、赤ゴリラが雄叫びを上げて突進してきた。その姿には初心者プレイヤーが立てなくなるというのも納得のいく、暴走トラックのごとき威圧感があった。
「おおー」
しかしクロノの顔に一切緊張の色はない。当然だ、今の俺たちはそれぞれレベル69と87、初級ダンジョンに出るボス程度ならただ突っ立っていても死ぬことはない。
「どうする? 狩る?」
「……まあ、そうだな。いいだろ」
モンスターは一度倒すと再湧きまでにやや時間がかかる。よって、高レベルのプレイヤーが低級のダンジョンを荒らしまわるというのは言うまでもなく非マナー行為なのだが、今回に限っては緊急事態ということで大目に見てもらいたい。
たいていのモンスターは相手が自分より強いと判断すれば逃げ出すのだが、それを分からせるためにはまず一撃を入れなければならない。そしてここまでのレベル差があると、システムのダメージ算出式の影響で、俺たちでは弱攻撃でもそのまま殺してしまうはずだ。
かといって、このまま放っておけば森を出るまで付きまとわれることだろう。
それはあまりにうざったい。
「んじゃ、あとよろしく」
そう言ってさっさと武器を下ろしてしまう相棒の様子に苦笑しながら、俺は迫り来る敵に向けて剣を体の正中線上に構えた。
唸る拳をステップで回避し懐に入り込む。動体視力はステータスに左右されないので、この辺りは純粋にゲームへの慣れだろう。ともかく、この位置なら簡単に一撃を入れられる。
レベル差からしてスキルを発動させる必要もない。俺はただ剣を横に振るった。そしてそれは、あまりにもあっさりと奴の胴体へと吸い込まれていった。
――その瞬間は知覚が加速されたかのようにゆっくりと、鮮明に、俺の網膜に焼きついた。
刃が獣毛に包まれた肉体に、食い込む。
筋繊維のぶちぶちとちぎれる感触。血が吹き出て赤い玉を飛ばす。
内側に見えた白色は骨だろうか。他と比べると少し硬い。しかし勢いに乗った剣はやはり呆気なく切断する。
内臓が零れ落ちた。腸だ。消化しかけの内容物があふれ出て、酷い臭いをさせる。剣が肉から出た。斬り終えたらしい。油と血に汚れ鈍色の輝きをくすませている……。
「え――――」
生温い液体が俺の顔を濡らす。
剣を振り切った姿勢のまま、固まった。
ギギギと、ブリキ人形のような緩慢な動きで首を動かし背後のそれを――〈死体〉を見る。
あり得ない。HPがゼロになったオブジェクトは爆散し、ポリゴンの欠片となって消えると、そうシステムに規定されている。殺しへの忌避感を薄れさせるからという理由で、SCOでは死に関する具体表現は排除されている。
「なん、で」
血溜りの中、ようやくひねり出した言葉がそれだった。
「なんなんだよ、これ」
答えなど返ってくるはずもない。
呟きは血臭を含んだ風に流され、消えた。