Prologue__1
すべての始まりはあの日から。
俺は世界の真実なんて何も知らず、ただ無邪気に、電子世界の中で孤高の剣士を気取っていた。
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褐色の巨人が雄叫びを上げた。
その手に握られた巨大な金属塊、柄の先に打撃部位がつけられた戦槌が振り上げられた瞬間、俺は動いていた。危機回避の本能に従い、全力で後ろへと跳ぶ。
鼻先を掠めたそれを躱せたことがどれだけ幸運だったのかは、その後の結果を見れば明らかだ。
標的を見失い空振った一撃はそのまま勢いを緩めず足元に叩きつけられた。石畳の床が抵抗感なく砕かれ、大小の石片へと姿を変える。現実と同じく、石材はそれなりの硬度、耐久値が設定されていたはずだがまるでお構いなしだ。
飛び散った礫のひとつが頬を掠め、ピリッとした痛みとともに、ごく僅かだが俺の生命残量を示す横線――HPバーがその長さを縮めた。
「ちっ…………」
思わず舌打ちが零れる。
桁外れの膂力に対し、素早さはそれほどでもないのが唯一の救いだろう。回避時の勢いに乗ってさらに距離をとり、追撃を防ぐ。
剣を構え直し、緊張感に乱れた息を整えながら、俺は改めて相対する敵の姿を見据えた。
そのシルエットは、二足二腕という行動体系だけ見れば人間とよく似ていた。
しかし実物を目の前にして奴を同族だという者はいないだろう。暗褐色の肌に筋骨隆々とした巨大な体躯、鼻先の伸びた頭部からは二本の太くねじれた角を生やし、縦に割れた瞳孔を持つ眼が怪しく輝かせるその生物はどう見ても人ではない。
欲のままに周囲に破壊をまき散らす、理不尽なまでの暴力の化身。その姿を一言で表現するならば鬼か、あるいは悪魔だ。
見た目通りこの周辺エリア内において最高の筋力ステータスを誇るモンスターで、もし連続技の一つでもまともに受ければ、軽戦士に分類される俺の薄い装甲など容易く破られてしまうことだろう。
「面倒だな……」
地面の破壊痕を見て思わず、自分があの槌に蠅のごとく叩き潰される光景を幻視してしまう。そんな未来は少々、いや多大に遠慮したいところだ。
プレイヤー泣かせと名高い、やたらと重い死亡罰則の内容を思い浮かべて顔を顰めつつ、俺はこの危機を乗り越えるべく腰のポーチへと手を伸ばした。
視線は敵に固定したまま手探りで止め具を外し、中にあるアイテムを取り出す。剣を持たない左手の内にすっぽりと収まったのは、黒い球状の物体だ。そして、形からわかる通りこれは強力な武器でも回復効果を持っているわけでもない。
使い方は簡単、ただ投げるだけ。
俺は奴に向けてそれを思いきり放った。悪魔を動かすAIプログラムに黒球のアイテム情報は入っていなかったのか、敵は無造作かつ無警戒にハンマーで打ち落とす。
――光が炸裂した。
「グォォォアアアアアアアア!?」
耳を、大気を劈く悲鳴が上がる。いかに人外といえどもモノを見る仕組みはそう変わらない。強烈な光は化物、デーモン系モンスター〈イビル・レジデント〉から視界を奪い取り、直接ダメージこそ与えられないものの足止めとしては十分以上の効果をあげた。
苦痛にもだえる姿は、あまりにも隙だらけだ。
当然、俺が見逃すはずもない。
剣を構え、地を蹴って敵の懐へと飛び込む。
狙うのは人型モンスターに共通する弱点、首だ。閃光弾の影響でレジデントの反応は鈍い。速度特化ステータスによる機動力を生かし、一息に距離を詰める。
「はっ……!」
呼気とともに、右手の愛剣を横薙ぎに振るう。
急所への直撃はレジデントの頭上に表示されているHPバーを目に見える勢いで削り取った。人間風情に遅れをとったことに対してか、奴は怒りの雄叫びを上げて反撃の態勢を取ったが、盲目状態でできることなどたかが知れている。不恰好に突き出された槌を拳の甲で受け流し、がら空きの腹に再び剣を叩き込む。
バーはさらに縮み、通常状態の緑から注意域を示す黄に色が変わった。
互いの武器の長さからして間合いを広く取るのはこちらに不利になるだけだろう。ここは、多少のダメージは覚悟の上で、一気に勝負を決める。俺はひりつく威圧感に顔をしかめながらも、さらに内へと踏み込んだ。
「…………せいっ!」
左肩から斜めに、脇の下へかけて斬り下げる。
勢いの乗った刃はしかし、悪魔の厚い胸板の表層を軽くなぞるだけにとどまった。
バッドステータスから回復したレジデントが、剣の振りに合わせて後ろに下がったからだ。そのまま体勢を立て直されてはたまらない。させるか、胸中でそう呟き、俺もまた前進して密着状態を維持する。
袈裟斬りから真横への切り払いに。敵のHPが危険域の赤となり、気のせいかその表情に焦りの色が浮かんだ。
グルアッ! と威嚇の咆哮と共にレジデントがハンマーを跳ね上げ、俺の肩を強く打ちつける。しかしそれも苦し紛れの攻撃だ。奴の使う巨槌は確かに恐るべき威力を秘めているが、その大きさゆえにこの位置取りでは上手く振り回せない。
速さのない鈍器など、脅威ではない。
走る痛みを食い縛って耐え、止めとなる最後の一撃を放つ。右に払った剣を斜めに斬り上げ、斬撃の始まりと終わりを繋げる。
意図したわけではないが、俺の攻撃はイビル・レジデントの体に見事な正三角形を刻み付けた。鮮血を思わせる赤いダメージエフェクトが散り、同時に頭上のバーを完全に消し去った。
短く、鈍い悲鳴が上がる。
一瞬の静寂、そして――
バリン! とガラスが砕けるような音を立て、褐色の巨体がポリゴンとなって割れ散った。
死体どころか血痕一つ残さない、あまりに簡潔な〈死〉の光景。唯一、漂う光の粒だけが存在を主張していたが、それもやがて消えた。
先程までの喧騒が嘘のように場が静まり返る。
その様子を無感動に眺めながら、俺は剣を引いた。念のため周囲に他のモンスターが隠れていないかを確認してから背中の鞘へと収める。
戦闘で高揚した気持ちを吐き出すように息をつき、指で眉間を揉む。
擬似的とはいえ命の奪い合いをしたことで、全身を軽い倦怠感が包んでいた。
「三割……か」
最後にやられた肩を押さえながら視界の端に映るゲージを見ると、今の戦闘でそれだけのダメージを負っていた。一応安全圏と呼ばれる域ではあるが、ここが高レベルモンスターの巣窟たる最前線フィールドということを考えると少々心もとない。
回復しとくか、そう思い再び腰のポーチに手を掛けたところで、横合いから緑色の小瓶が放られてきた。掴み、ラベルを見ると、それは普段よく見かける店売りのポーションだった。
「悪いな、助かる」
短く礼を言い、一気に中身をあおる。甘苦い独特の風味が口の中に広がるとともにラインが右端まで埋まり、生命力ステータスが全快状態に戻った。肩や、それ以前に受けていた傷の痛みがすっと抜けてゆく感覚に安堵する。
ゴミアイテムは時間経過で自動消滅するため、俺は空になった瓶を適当に投げ捨てるとポーションを渡してきた男――クロノの方に体を向けた。
「お疲れ。今ので七体目だったかい。そろそろレベル上がりそうなんじゃないの?」
「そうだな、あと少しだよ」
中空に浮かぶ加算経験値とドロップアイテムのリストを見ながら答える。数字の羅列は、あと二、三体ほど同じ敵を倒せばレベルが上がることを示していた。
「僕も似たような感じかな。じゃあ、もう少しだけ狩ったところで、今日は上がろうか」
MPも回復したことだしね、そう言って肩をすくめる。
灰がかった長髪を後ろで束ね、眼鏡型のアイテムと白ローブを装備した姿の通りクロノは〈魔法使い〉、生粋の後衛職である。彼のような術士は、その火力は敵になると恐ろしく味方だと頼もしいものだが、反面MP――マジックポイントと呼ばれる魔法行使に必要なステータス数値がゼロになると何もできなくなるという弱みもある。
二人で〈狩り〉をしているにもかかわらず、先程俺が一人で戦っていたのはそういう訳である。MP回復アイテムは非常に高価なので、時間経過で少しずつ魔力が溜まるのを待っていたのだ。
「考えなしに大規模魔法を連発するからだ、バカ」
「うわっ、ひどいな」
「事実だろ。魔法職の人はMPの残量に気を配りましょう、なんて初心者講座でやる内容だぞ。〈このゲーム〉、ベータテストの時からいるんだからいい加減覚えろ」
軽く頭をこづいてやる。グローブの金属部分が当たったようで意外といい音がした。
それに対しクロノは頭を抱えて痛がって見せるが、演技だ。デジタルデータで構成されたこの〈仮想の世界〉では一定以上の痛みは感じないようにされているため本当に痛いなどということはあり得ない。
理由は痛いと怖いからという単純な心理も勿論あるが、それ以上に精神が及ぼす肉体への影響とかが関係しているんだったよな……などと、昔読んでみたはいいが、結局半分も内容を理解できなかった論文を思い出す。
専門用語の飛び交う部分はまったくわからなかったが確か、現実と同レベルの痛みを脳が認識すると、実際には怪我をしていなくても腕が動かなくなったり失明したりする場合があると書いてあったはずだ。
そう――。
ここは、〈現実ではない〉。
踏みしめる大地の確かさも、頬をなでる風の柔らかさも、ここで感じるものはすべて脳に送り込まれたデジタル信号によりもたらされる〈偽物〉なのだ。
「っと、こんなことしてる場合じゃなかったな……」
俺は時計を見ながら、少しばかり焦りを含んだ声色で呟いた。あと一時間もすれば接続制限時間となり、俺たちは強制的にこの世界から退去させられてしまうのだ。別にそうなっても構わないと言えば構わないのだが、クロノが言っていたようにもう少しでレベルが上がりそうなのでそこまでやってから終わりたいところである。
俺はぐるりと周囲を見回すと、長年のプレイ歴によって培われたゲーム勘により敵のいそうな方向の当たりを付けた。脳内に送り込まれた電子信号が見せているとは思えない、美麗な夕焼けのグラフィックを背景にゆっくりと歩き始める。
いまだぶつくさ言っている相棒に声をかける。
「ほら置いてくぞ」
「あっ、ちょっと、待てよ――ユト!」