Episode__12
破綻の訪れは、早かった。
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木漏れ日の穏やかな、しかし見かけ上の雰囲気に反しモンスとの遭遇率が異常なまでに高い危険な森の小路。緊張から雑談の一つもなく、全員がただ黙々と足を動かし続けている中であったがため、その声は小さいながらもはっきりと耳に入った。
「撤退を提案するわ」
動きが止まる。
視線が声の主に――フィオナに集中した。
「……なんだと?」
戸惑いの空気が流れる中、先頭に立つウェスリーだけは実に分かりやすく怒りを顕にしていた。目元を吊り上げ、額には青筋を浮かべ、そのまま腰の剣でも抜きそうな勢いで彼女に詰め寄る。
「それはどういう意味だ、フィオナ・ネーピア」
なまじ整った顔をしているだけに、感情のままに歪められた形相には迫力がある。しかしそれは同時に、どこか手負いの、追い詰められた獣のような印象を見る者に与えていた。
フィオナは怯む様子もなく、むしろ冷めた目で奴を見返して言った。
「意味も何も、言葉通りよ。これ以上の戦闘行動は無理があるわ。一度街に戻って休息を取るべき。そうでしょう?」
同意を求める声に俺とクロノは頷き、他の者は渋い表情を浮かべた。否定の意味ではなく、ウェスリーの顔色を窺っているような雰囲気だ。普段はオウムのごとくリーダーの意見に迎合する彼らにしては、この反応は珍しい。
反対の声を上げない仲間に苛立ったようにして、奴はさらに眉を吊り上げた。荒い語調で、唾と共に言葉を吐き出す。
「まだ目標を、見つけてすらいないんだぞ。依頼を放棄する気かっ」
心中を探るまでもなく、はっきりと伝わってくる焦燥。その原因は何となくだが察することができた。何せ聞いた話では、これまでウェスリー・クレイグの戦歴に失敗の二文字が刻まれたことはないというのだから。
おそらくだが、彼にとってギルドから引き受けた依頼は、成功して当然のものとして認識されているのだろう。成功率百パーセントの数字はその有能さを証明しながら、一方で窮地に追いやられた際の対処法を知らないという意味でもある。
想定以上のモンスターの数に思わぬ消耗を強いられ、経歴に傷がつくかもしれないことに対し恐怖を抱き、心に余裕がなくなっているといったところか。
言うまでもない事だが、パーティーのトップに立つ人間がそのような心理状態に陥ってしまっているのは非常に悪い兆候だ。だからこそ、フィオナも反発を覚悟の上で意見を述べたのかもしれない。声を荒げる相手に引っ張られない冷静な口調で、彼女は率直に現実を口にする。
「そうなるわね。けど、仕方ないでしょう。今の状態でヴァイスの群れと戦うことになれば、例え勝てたとしても、私たちはかなりの被害を受けることになる」
冒険者にとっての最優先事項は自らの生存である――そのことを丁寧に諭そうとする。
依頼を達成し、金や名誉を得ることも確かに大事だが、欲に囚われたばかりに命を落としては何の意味もない。勇気と無謀を履き違えるな、生きてさえいれば何とかなる、新人がベテランの冒険者たちに心構えなどを聞くと大抵はこういったことを言われるものだ。
逃げは、決して恥じではない。一度引いて体勢を整えることも立派な策なのだと訴える。
プライドを逆撫でする、しかし真っ当な論にウェスリーは苦虫を噛み潰したかのような顔をした。それを口にしているのがフィオナという、非友好的な関係の相手であることも素直に正しさを認められない要因なのかもしれない。
不穏な空気、睨み合いはしばらくの間続いた。
加勢は出来なかった。ウェスリーの性格からしていつ感情が爆発し腰の剣に手が伸ばされるか分からないものの、フィオナ以上に相性の悪い俺が出ると、奴は余計に意固地になって依頼の続行を主張する可能性があった。
固唾を呑んで成り行きを見守る。幸い、さすがにこれ以上の騒ぎはまずいと判断したのか、ウェスリーの仲間の一人が顔を顰めながらも間に立った。
「少し落ち着いてください、ウェスリーさん。あんま大きな音出すとまたモンス共を呼び寄せかねないですって」
パーティーの副リーダー的立ち位置にいるらしいその男は、自分もフィオナの意見は気に食わないということを露骨に舌打ちするなどの態度で示したうえで、しかしその判断の妥当さを認めた。
「癪ですけど、あの女の言うことは最もっす。さっきの洞窟では結局大した時間は休めなかったんで……今の消耗具合でヴァイスとやり合ったら、一人二人は死者が出ますよ」
せめてもう一度休憩を――ダンジョン内で大声を出さない程度の理性は残っていたらしく、ウェスリーはその進言を歯噛みしながらも受け入れた。
「……周辺の安全確認と見張りを。ここで三十分の休憩を取る」
それが、奴の最大の譲歩だった。
さっそく腰を下ろし手近な木の幹を背もたれにすると、これ以上の議論はないとでも言わんばかりに目を瞑る。フィオナはその決定にも不満を持っているようだったが、不毛な言い争いを嫌ったのか一先ずは引き下がった。
離れた場所で、同じく木を背にして座り込む。フードを目深に被っているため表情は見えないが口元ははっきりと不機嫌そうに曲げられている。少しだけ迷ったものの、結局俺は彼女に話し掛けることにした。
「大変だったな」
こういうとき、自分の語彙の貧弱さが嫌になる。
もっと気の利いた言葉を掛けてやれればいいのだが、残念ながらこれが俺の限界だ。
「……まあね」
複雑な感情の滲んだ低い声に肩を竦めつつ、勝手に隣に腰かける。
「一応、向こうもこの状況がまずいってことは分かってるみたいだけどな」
「敵地の真ん中で取る休息なんて当てにならないわ。緊張を完全に解く訳にはいかないから、疲れは取れにくい」
無謀よ、とフィオナ。さらに続けて呟く。
「最悪、私たちだけで森から出ることになるかもね」
その言葉に俺は目を見開いた。クロノの時と同じく、自分と同年代の少女の口からそのような選択肢が出るとは信じられずに彼女の顔をまじまじと見つめた。
本気か? と聞こうとして、止めた。答えなど分かりきっている。普段の平和な生活では忘れがちになっているが、フィオナは俺などよりもずっと経験豊富な戦士なのだ。冗談でそのようなことを言うはずがない。
勝手な戦線離脱には当然ペナルティが課されるが、それでも奴の指揮下で無駄に命を散らすよりはいいという判断なのだろう。
「本当は、本部の方に直接指示を仰げればいいんだけどね。さすがにこの距離だと無理だから」
この世界でのウィンドウの通信可能範囲はせいぜい一キロメートルといった所だ。ゲームでは距離に関係なく、対象がダンジョン内にさえ居なければ連絡を取ることができたのだが。まあ、どちらにしろ出来ないという事実には変わりない。
フィオナは苦々しい表情を浮かべながら、今後の動きについて言及した。
「もし、逃走用のアイテムが尽きかけてもウェスリーが依頼達成にこだわるなら、私はグループからの離脱を宣言するわ。あなたたちはどうする? 仮とはいえ、仲間を見捨てるに等しい行為だから強要はしないけど」
その問いに俺はしばし瞑目した。
「……それは、俺一人じゃ決められないな」
クロノと話してくる――そう言って俺は立ち上がった。
それが自分の答えを出すまでの時間稼ぎでしかないことは俺自身がよく分かっていた。数時間前の会話からして、クロノは躊躇うことなく彼女の提案に乗るだろう。
ウェスリーのことは嫌いだ。嫌悪している。決闘にすらなりかけた。だが、死んで欲しいと思うほどではない。
助けられるならば助けたい。そんな下らない甘さを自覚し、自嘲しながら相方の白ローブ姿を探して視線を巡らせる。これまでの戦闘でローブは半ば赤に染まっていたが、それはそれで目立つ色彩であったためすぐに見つけることができた。
「クロノ――って……」
声を掛けようとして、言葉が途中で止まる。彼は地べたに座り込み、そしてなぜか森の奥の方を怪しむように目を細めて見つめていた。自主的な見張りの手伝い……にしてはやけに一点を凝視しているようだった。俺は頭に疑問符を浮かべながら尋ねた。
「何やってんだ?」
「……ん、ああユトか。いや大した事じゃないんだけどね」
ちょっと妙なものが、と指を差すクロノ。俺は素直にその先に目を向け、小さく疑問の声を上げた。日常的にテレビやPCの画面を見続けるゲーマーとしては珍しく俺の視力は両目とも二、〇だ。警戒スキルの範囲外、かなり遠い所だが、網膜には木々の合間に草の緑と土の黒色以外の何かがはっきりと映った。
色は黄土色。サイズは、ちょっとここからでは分からない。
「まさかまたモンスターか?」
頬を引きつらせるが、クロノは否定する。
「その割にはどうも動きがないんだよね」
どうしようか、とクロノが尋ねてくる。俺は少しだけ考え込み、不確定要素はなるべく排除しておくべきだろうという結論に達した。心配性だと言われるかもしれないが、あの色は獅子の皮のものによく似ていた。あれがモンスで、動いていないのはただ様子見をしていただけという可能性も僅かながらにある。
フィオナの提案については、今は置いておくことにする。話ならあれの正体を確認してからすればいい。優先順位はこちらの方が高いだろう。
それに、どうしてか胸騒ぎがした。根拠は何もなく、ただ第六感のようなものが頭の中で警鐘を鳴らしていた。俺は一番近くにいた男に簡単に事情を説明すると、偵察に出てくると言い残してクロノと共に奥へと進んだ。
焦燥、不安、恐怖、一歩進むごとにその思いは強くなり、半分ほどの距離で確信に変わり、俺は顔を顰めて駆け出した。補正をフルに使った全力疾走。風景が瞬く間に背後へと流れてゆき、十数秒の後その場所に辿り着く。
むせるような血の臭い。
視界に入ったのは黄金の瞳、他者を威圧する鬣、無駄な肉をそぎ落としたネコ科特有のしなやかな体。茜の森においては有数の危険度を誇る獅子型モンスター〈ヴァイス〉。
並の冒険者では太刀打ちできない故に、俺たちが当てられた討伐対象。
それが――肉片と体液をまき散らして、一つの群れを形成できる程の数が死んでいた。
「これは一体……」
理解できない光景だった。
それぞれ腹や背、頭を巨大な質量によって無理矢理押し潰されたような死体だった。ミンチのように、原型を留めない程痛めつけられている個体もある。おそらく使われたのは棍のような鈍器だが、この惨状からしてその大きさは人が使うようなものではない。
「まるで……巨人が小人を叩き潰したみたいだね……」
クロノの言う通りだった。
地面に残った戦いの痕跡を見る。本来、そこから流れの一挙一動を見極めるような特殊技能は俺にない。しかし今回に限っては実に分かりやすかった。ずんぐりとした巨大な窪みが中心にあり、その周りをヴァイスが土を蹴った際にできたと思われるネコ科の足跡が囲っている。
敵はおそらく少数。それにヴァイスが群れを成して襲い掛かり、返り討ちに合った。しかも血痕からして傷らしい傷すら与えられずに。
つまり、この相手はヴァイスを遥かに上回る脅威だということだ。
光の消えた目をした一匹に、そっと触れてみる。
まだ温かい。戦いの終わりから現在までそう時間は経っておらず、未確認の敵は近くに潜んでいる。
「まずいな……」
報告と撤退の再度提案を。そう思い、慌てて立ち上がる。
――ぞくり、と。
背筋を冷たい手が撫で、本能的にクロノを抱えてその場から飛び退いたのと、何か巨大な質量を持つ物が轟音を響かせて着弾したのはまさにその時だった。
「なっ!?」
土煙の中、地面に突き刺さったものの正体を知り驚愕の声を上げる。
それは〈木〉だった。そこらに生えている大木の内の一本がそのまま飛んできた、否、投げ込まれてきたのだ。警戒スキルの反応する方向に目を向けると、途中でなぎ倒されたらしき木々の無残な姿があった。
その直線上には、これを行ったと思われる、ゲームでもこの世界でも見たことのない黒色の肌のモンスターが見て取れた。ゴブリン種に無理やり筋力をつけさせ巨大化させたかのような奇妙な敵。数は三体。不意打ちが失敗したことを知り、耳障りな叫びを上げながら俺たちを囲むようにして迫ってくる。
「クロノ!」
「分かってる!」
俺の意を汲み、クロノが即座に魔法の詠唱を行う。〈解析〉、その名の通り敵の一部ステータスを明るみに出す効果を持っている。言葉として認識できるギリギリの速度で呪文を唱え終えた相方の杖が光り、同時に奴らの足元に魔方陣が展開された。
それが直接自分たちに害をなすものではないと知っているのだろう、巨人どもは動揺することなくじりじりと距離を詰めてくる。
解析を終えたクロノが、驚きに目を見開いて結果を口にした。
「なんだ、これ……名称不明はともかく……レベル47!? なんでこんな高レベルの敵が茜の森に……」
絶句する。レベル47。おそらくハイムズで対抗できるのはギリアム以外にいないと思われる力量の敵が、なぜここに。
「……常時発動型スキルに気配消しがあるね。隠蔽スキルとしてはそれほど上位ではないけど、こっちの世界の冒険者になら十分通用する」
「調査隊の報告になかったのはそのせいか、くそっ」
それを聞いて確信した。今回の件、原因はこいつらだ。仕方のない事だとはいえ調査を担当した人間に恨み言を言いたくなる。
もしかするとフィオナたちの方にも同種のモンスターが向かっているかもしれない。なぜ突然このような個体が発生したのかなど、他にも数点気にかかる所はあったが、俺はそれ以上の考察を取り止め剣を抜いた。
まずは目先の問題を片付けるべきだ。
「とっとと潰して戻るぞ。クロノ、援護頼む!」
長時間の探索による疲労がのしかかり若干体の反応が鈍いものの、泣き言を言っている場合ではない。いつもより重い腕に苛立ちながらも刃を敵に向ける。
「疲れてるんだけどなあ……まあ、しょうがないか」
クロノも、溜息を吐きながら杖を構える。
戦いが始まった。