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泡沫の記憶の底に 【Mode B】


■泡沫の記憶の底に


 アサギは、転生者だ。


 先日の誕生日で二十代の半ばに差し掛かったアサギは、しかし、実に、四度目の人生を生きている。

 正確を期すのであれば、『過去の人生から意識と記憶を引き継いだ者』である。


 私は、私。

 私が死んだときのことも覚えているし、新しく生まれてからのことも覚えてる。

 そうして私は最初から成熟した人として、社会に参加している。

 周りの人も、みんなそう。

 みんなとても優しくて理性的で、世界はきっと、こんな理想を求めてた。


 ――彼女は、久しぶりにある街のカフェを訪れて、そんな思索にふけっていた。


 彼女がつけている『エクスニューロ』は、元はただ生身の脳よりはるかに高速な電気仕掛けの脳として知性を支えるものだったが――あるとき、その中に、意識がそっくり移行してしまっていることが、『意識の数学』で解明されてしまった。


 だから、ただの記憶ではなく、経験として、アサギは、最初の彼女からすべてを引き継いでいる。

 小さなミルクピッチャーからとぽりとクリームを落とすと、小さな泡が浮かんで消える、そんな光景。どんなに時間が経ってもアサギの脳裏からは消えていなかった。そのあとに来る、ちょっとビターなコーヒーの味も。


 こんな味が子供に分かるわけがないのに、大人ぶって苦みを嚙み殺していた過去の自分を、ふと、嘲笑う。

 きっかけなんてきっとどうしようもなくちっぽけなことで、あれはきっとただの熱病だったのだろう。浅い人生経験からくる一時の過ち。

 今もこうしてコーヒーを楽しんでいるのだからそれがすべて間違いだったとは思わないけれど、背伸びして大人ぶろうとしていた過去を少し恥ずかしく思う。


 そう考えれば、あの頃は、人類そのものが大人ぶろうともがいていた。

 誰もが手の届く範囲のことにとらわれ偽情報に右往左往し時に物事を単純化して無理やりに理解しようとする。知らないことを妄想で補おうとする。それは、単に経験が足りないからだ。

 多くのことを身をもって体験し経験として蓄積すれば、すべての物事に自分の及ばぬ深みがあることに気づき、あるいはその深みの一部にさえなれるのだ。


 たった一杯のコーヒーからそんな愚にもつかない事をぼんやりと考えていた彼女の視界に、思わぬものが目に入った。


 窓際の二人掛けのテーブルに向かい合って座る男女。


 よくある光景と言ってしまえばそれまでだったが。

 その男性を、アサギは知っている。知っている気がした。

 顔も声も全く違うけれど、グラスを引き寄せ、ストローに口をつけるしぐさに、言いようのない既視感が走った。


 それは遥か遥か古い、海の底にあるような記憶。


 アサギは立ち上がり、彼に声をかけた。


「エイト?」


 言われた男は少し戸惑いながら、それから何かを思い出すようなしぐさを見せ、ついにこう言った。


「……ミナモ、さん?」


***


 つまんないつまんないつまんない。

 頑張って受験して、やっと勉強から解放されると思ったのに。

 高校に入ったら、次は大学受験。


 なんで?


 私、知ってるんだ。

 大学受験の知識なんて、社会じゃ役立たずなんだ。

 大人はみんなそう言ってる。


 なんでわかんないの?

 無駄なことなんてしなくていいじゃない。

 ただ、頭の良し悪しを測りたいだけでしょ?

 じゃあ、簡単じゃない。


 ほら、この前ノーベル賞獲った。偉い、脳科学の先生。

 頭の中を数学にするのに成功したんでしょ?

 じゃあもう、人類みんなアレで測定して、順位つければいいじゃない。

 いいよ、私はどうせ、中の下。もうちょっと下かも。


 でもいいんだよ。

 心置けない友達がいて、好きなアイドルがいて。

 それで世界は十分なんだよ。


 ――っ!


 考えながら歩いてたら、ぶつかってしまった。

 見ると、私より頭一つ分背の高い男子。多分隣のクラスの。

 移動教室に向かっていた私の手から、ノートと筆記用具がこぼれて、床に当たり――スローモーションのように散っていく。

 それを慌てて受け止めようとする、その男子の手も。

 大きくて頼もしそうな手。


 カラカラン、とペンが散る音が響いて、彼が慌ててそれを拾い集めようとしている。


「ごっ、ごめん、よそ見してた」


 彼はそう言うけど、よそ見してたのは私。


「こっちこそ」


 私も慌てて拾い集めようとして、手を伸ばし――ペンを握り込もうとした彼の手が、偶然、私の手を握っていた。

 私はビクリとして――心臓がきゅっとして――思わず彼の顔を見上げた。

 整った顔立ちで、でもちょっと困惑の表情を浮かべて、私の目を見つめ返してくる、彼の――


「エ、エイト君。……だよね?」


 何度か見ていて、知っていた。

 イケメンと噂で、それほどかな? と思って、ちらっと隣のクラスの名簿を見たりしていたけど、今見ても、それほどかな? としか思えない。

 思えないんだけど。

 彼に触れられた手の甲が、やけどしそうなほどに熱くて。


「あ、ありがとう、私、ぼっとしてて」


「いや僕こそ。……移動教室、うちのクラスと合同の」


「あ、うん。……一緒に行く? 私、ミナモ」


 思わず名前を告げて。

 ……なんでとっさに名前を告げたのか、後から分かった。


 初恋だった。


***


 二人はお互いに相手の正体を確認しあい、少し他人行儀気味に一度目の人生を懐かしみあった。それから、エイトが今はハルキという男の人生を生きていて、彼とともにいるのは婚約者のリョウコであるとアサギに紹介した。

 その会話の時間は五分にも満たなかっただろう。

 邪魔をするのもよくないだろうと、アサギはすぐに店を出て、ゆえに、ハルキとリョウコがその後どんな会話をしたのかも知らない。


 だが、アサギは、思い出していた。

 彼女にとって、ハルキは――エイトは、特別な男性だった。

 過去の彼女、ミナモの、初恋の人だった。

 とはいえ、もう三度も人生を繰り返しているものだからその記憶もおぼろげだ。


 そういえばそういうこともあったな、とぼんやりと振り返る程度で、アサギの興味は翌日の仕事のことに移っていた。


 それからしばらく、彼女は平坦な日常を過ごしていた。

 彼女がそのニュースに触れたのは、偶然の産物に過ぎなかった。


「エクスニューロには”グリッチ”がある」


 それで起こることは、端的に言えば経験のマスクだ。

 エクスニューロの蓄えている過去の経験のうちの一部をマスクしてしまえる、という意図せぬ機能が隠されていた。


 他愛ないオンラインフォーラムでの話題。過去の経験も生かして技術職として働いていたアサギは、特に、情報処理システムのバグの追求にかけては一級で、網羅的に検査をする自動システムでさえ発見できない”ズル”を見つけ出す職人として有名だった。そんな彼女にとって、人類進化の礎たるエクスニューロの”グリッチ”は、職人魂をかけて挑みたいと思う高峰と言えた。


 エクスニューロとは、簡単に言えば拡張脳である。脳の神経回路を模した電子装置であり、脳血管に住まわせたナノマシンにより生体の脳とリンクしている。

 莫大な記憶と高速処理が可能な外付け脳細胞たるエクスニューロが与えるものは、単なる合理性ではない。まるで答えを知っていたかのように答えを導く直観力だ。それぞれ得意な分野のスペシャリストとして何度も繰り返す生の中であらゆる形の「不測の事態」に遭遇し、乗り越え、解決した経験。問題の本質はきっとここだと感じる本能。


 彼女の職人芸は、そこに住んでいた。


 そして、脳科学上の革命により唐突に発見され解決された”意識の数学”、それが、意識さえもエクスニューロに住むようになったと示したことから、『転生』という工学が生まれるのに時間はかからなかった。

 倫理的嫌悪感はしばらく残ったが、それも徐々に圧殺されていく。

 生まれながらに百年に近い人生経験を持つ子供たちは、総じて優秀であり、理性的であり、合理的であった。社会の最も良きメンバーでさえあった。社会が社会自身の安定のために転生者を肯定的に受け入れるよう変容するのに時間はかからなかった。

 こうして人類は進化した。


 ――ホログラフィックディスプレイの上に指を走らせる。

 無機質なゼロとイチが流れていく。

 全ての意味を理解しながら、一瞬の違和感に、意識のナイフを突き立て、流れを遮断する。


「……あった」


 アサギは、――彼女の中に住む『職人芸』の知識と直感と意識は、あっさりとバグの正体を突き止めた。


 おそらく開発初期のころ、まだエクスニューロが人間の意識さえ代替できるようなものになろうとは思われていなかったころ、特定の記憶がどのように記録されているのかを確かめ、場合によっては有用な知識を植え付けることさできるのではないかと試行錯誤したようだ。

 時間に従ってエクスニューロの発火領域がコントロールされるようになっており、特定の時間域を不活性化させる機能も含まれていた。

 やがてその機能自体は不要となり除かれていたが、それは『記憶』という根本機能に関わるものだったからだろう、アクセスルートを遮断しているだけだった。

 何兆分の一でしか起こりえないような特殊な順序で周辺機能を操作すると、偶発的にその制御ルートが開いてしまう。


 アサギは直感的に、このバグは直せないと思った。あまりにエクスニューロの根幹にかかわるバグだった。

 意図的にノイズを差し込むパッチを作った。これで、何兆分の一が、何京分の一になる。

 ランダムノイズだから意図的に再現することはほぼ不可能になるだろう。

 ここまで検討を進めたアサギは、アクセスする方法を伏せたまま、バグの対処案をフォーラムに投稿した。奇しくも、同じ結論に至った他の専門家も同様の対処案を提示していた。


 これでグリッチ騒動はひとまず終息を迎える。


***


 死ぬ。絶対に死ぬ。

 肺が焼けるみたいに熱くて、足の裏の皮が剥けて、砂の味がする。


 マネージャー志望って言ったじゃん!

 マネージャーも走るとか聞いてないよ!


 マネージャーもキソテキタイリョクがヒツヨウであるからして――。

 顧問の先生の呪文に心の中で唾を吐きかける。


 なんで私、陸上部なんて入っちゃったんだろう。


 中学の時だって、体育は中の下だった。走るのも、跳ぶのも、全部嫌いだった。

 なのに、今の私は放課後の真っ赤に焼けたグラウンドで、泥にまみれて息を切らしている。


 理由は、たった一つ。

 グラウンドの向こう側、ハードルを軽やかに跳び越えていく、エイト君の背中。

 それを見るため「だけ」に、私はこの地獄のような日々を自ら選んだ。


「大丈夫? ミナモ。……顔、真っ赤だよ」


 隣から、涼やかな声が降ってきた。

 カノコだ。

 私と同じ、新入部員のマネージャー志望。……のはずなのに、彼女は私と違って、ジャージ姿でも驚くほど綺麗だった。

 汗すらも真珠みたいに弾いて、誰にでも好かれる笑顔で、エイト君とも、顧問の先生とも、もうずっと前から知り合いみたいに自然に喋る。


「……だい、じょうぶ。ちょっと、慣れてないだけ」


 私は膝をつきそうになるのをこらえて、カノコから差し出されたスポーツドリンクのボトルを拒んだ。

 彼女の親切が、今の私には猛毒にしか思えなかった。


 カノコ。

 クラスで一番の美少女。

 エイト君と並んで歩く姿が、誰が見ても『お似合い』だと言われそうな女の子。


 でも。

 私は知っている。


 中学の頃、放課後の誰もいない教室で。

 彼女が泣きながら、付き合っていた大学生の彼氏と連絡が取れなくなったと、私に相談してきた。

 彼女がある事実を彼氏に伝えた途端、すべての連絡先がブロックされてしまって――。

 泣きじゃくる彼女を私は慰めることしかできなかった。

 そのあと、どんなふうに決着がついたのか分からないけれど、彼女も立ち直って、同じ高校にいる。


 彼女がどんなに清純そうに笑っても、私の中では、あの時の彼女の震える声が響き続けている。


 私は、彼女に勝てる。

 いつでも、あの子を奈落に突き落とせる。

 その『ナイフ』を胸に抱いているから――カノコに対する劣等感に耐えられた。


「ミナモ! ボトル、追加持ってきて!」


 遠くでエイト君が手を振る。

 私は、痛む足を引きずりながら、誰よりも早く彼の元へ駆け出した。

 この衝動が、自分を壊していくことにも気づかずに。


***


 件のグリッチ騒動が収まってから、アサギは改めてエクスニューロの記憶に思いを馳せていた。


 彼女の最も古い記憶――彼女がエクスニューロを装着した一度目の生の二十代。しかしその前にも確かに記憶があった。

 エクスニューロが蓄えている常に鮮やかな記憶に対して、あまりにおぼろげで弱々しく頼りない記憶。


 仮にグリッチでエクスニューロの記憶すべてをマスクしてもそれはきっと思い出せるだろう。なぜなら、発火領域コントロール以前に”同期された”記憶だから。

 彼女はそこに興味を持った。

 そこにはどんな記憶が残されているのかが気になった。


 そう、先日偶然出会ったエイトとの初恋の記憶がそこにある。それはひどくぼんやりとしていて、思い出そうとしても老獪な苦笑いしか出てこない。きっとあまりに若すぎるみっともない記憶。経験多き彼女の”今”はそれを思い出すことを拒否している。でも、確かにエイトに恋をしていたことははっきりと覚えている。だからこそ、気になった。


 グリッチを試そう――という誘惑は、すぐにはねのけた。そんな後先を考えないことをしてしまうほど子供ではない。間違いなく後悔するだろうと思った。

 一方、アサギはその記憶を探る安全で簡単な方法をすぐに思いついた。


 彼女の自宅、物置の奥深くに眠っている日記。

 一度目の生で、高校生の頃のアサギは日記を書いていた。


 たぶん、たしか、おそらくは。そんな前置きの副詞付きで、失恋したときに日記をやめてしまったのではなかっただろうか、と思い出す。


 そう、失恋したのだ。

 今となってはちょっと信じがたいことに。


 恋とは――。

 相手の行動や反応から慎重にお互いの好意や価値観を見定めて、きっと後悔しないと確信してから恋に落ちるものだ。少なくとも一つ前の人生、『三度目の生』では、そうして初めて気持ちを伝えあった人と一生添い遂げている。今生ではまだそうした相手に巡り合っていないだけだ。


 そうした行程を飛ばして恋に落ち、失恋する。”失恋した”ということはそういうことだ。一歩誤ればもてあそばれ心身ともに傷つくかもしれない、そんなリスクにさえ考えが及ばずに。


 考えれば考えるほどに興味が深まる。

 考えながら探しているうちに、アサギはついに荷物の奥から日記を発掘した。すっかり黄ばんだ紙はだいぶ劣化してページが崩れそうになっているが、それでも何とか読めた。


 そして読み進めるうちに、アサギは徐々に度を失っていく。

 そこに書かれていたのは、一途で鮮烈で刹那的で愚かな恋の記録だった。


 エイトに一目ぼれした。

 なんだそれは。

 一目ぼれ?

 そんな、私が?

 ありえない。


 否定の言葉が何度も脳裏に反響するのを覚えながら、読み進める。


 全く興味もないのに、エイトと同じ陸上部に入った。

 マネージャーとして興味のないことに一心に打ち込んだ。


 偶然を装ってタオルを見失って困っているエイトの汗を拭いた。エイトのタオルの置き場所を少し変えておいたのは、アサギ――当時のミナモ、だ。

 その体液の浸み込んだタオルを持ち帰って抱きしめ、それと同時に湧き上がった自身への嫌悪感がつづられていた。


 馬鹿なことを。

 男子のタオルを触っているところなんて、きっと誰かに見られている。そんなこともわからないの?

 妙な噂がたてばいずれ居場所さえなくなるというのに。


 愚かな少女としか思えなかった。

 しかしミナモの行動はエスカレートしていった。


***


 グラウンドの隅にある、古びた部室。

 西日に焼かれたプレハブ小屋の中は、部員たちの汗の匂いと、制汗スプレーの甘い香りが混ざり合って、息が詰まるほど濃密な空気が溜まっていた。

 放課後の居残り練習。エイト君はまだグラウンドで自主練をしている。


 私は一人、誰もいなくなった部室の片付けを任されていた。

 そしてふと、ベンチの上に、無造作に放り出された白いタオルがあるのに気付く。

 エイト君のタオル。

 心臓がドクン、と鳴った。


 手元に、自分の、浅葱色のタオルがある。

 白いタオルと、浅葱色のタオルの間を、なども視線を往復させ――。


 白いタオルを手に取り、ベンチの裏に、そっと落とした。


 やがて、エイト君が練習を終えて帰ってくる。

 私が想像した通り――彼は、何度か部室の中に視線をさまよわせ、困ったな、とつぶやく。

 顎から、ぽたりと、汗が落ちる。


「エイト君、早く拭かないと、体冷えちゃうよ」


「あ、ああ、僕のタオル見なかったか? 白いやつ、エディデスのロゴが入ってる」


「……えっと、分からないけど、その、これ使う? あっ、私今日使ってないからきれい、大丈夫!」


 差し出したタオルを前に、エイト君は何度か逡巡の表情を見せ、もう一度部室の中を見回してから、手に取った。

 湿った指先が私の手の甲を撫で、ぞくりとしたものが湧きあがる。


「ありがとう、洗って返す」


「気にしないで、洗濯もマネージャーの仕事!」


 うまく、あどけない笑顔を出せていただろうか。

 私の計画を、気取られていないだろうか。


 そんな心配をよそに、汗を拭いたタオルを、彼は、ありがとう、と言って、そっと私の手に乗せてくれた。


 更衣室に男子たちが引っ込んでいく。

 女子部員とマネージャーだけが残った部屋で、私は、もう、我慢が出来なかった。


 誰かに見られていないか、周囲を伺う。

 みんなおしゃべりか片づけに夢中。

 ヒグラシの鳴く声がうるさいほどに響き渡り、部室の片隅の私のことを、影に溶け込ませている。

 私は、浅葱色のタオルをゆっくり開き、撫でる。

 指先に触れた綿の生地は、まだエイト君の体温を吸い込んでいて、しっとりと湿っている。

 

 汚い。

 理性の端っこで、誰かがそう言っている。

 でも、その声は熱に浮かされた喉の奥でかき消された。

 

 私はタオルを両手で掴み、自分の顔を埋めた。

 鼻を突くのは、部室の埃と、洗剤の匂い。そして、その奥にある、彼という生き物の、野生に近い匂い。

 

 「……っ、」

 

 めまいがした。

 肺の奥まで彼の匂いで満たされていく。まるで彼の身体の一部が、私の内側に入り込んでくるような、いけない感覚。


 ――欲しい。


 とっさに思った。


 ――何が?


 その問いに答えては、いけない気がした。


***


 決行するまで二日の逡巡を要した、その日の部室は、蒸し風呂のようだった。


 私はあらかじめ、エイト君の自転車の鍵を盗んでおいた。彼が鍵を探して右往左往し、最後の一人になるのを待つためだけに。


 窓の外では、カラスがうるさく鳴いている。

 私は部室の鏡の前で、スカートのウエストを二回巻き上げ、ネクタイを緩めた。ブラウスの第一ボタンを外し、鎖骨が見えるように襟を広げる。

 鏡に映る自分は、ひどく卑屈で、それでいて毒々しく見えた。


 ――これでいい。エイト君は男の子なんだから、これくらいすれば、私を見るはずだ。

 そしてもしかすると、彼の中の野生は――。


「……あれ、ミナモ? まだいたの」


 ドアが開いた。エイト君だ。

 彼は髪をかき上げ、困ったように笑っていた。


「自転車の鍵、見つからなくてさ。この辺に落としたかもって……あ、ごめん、着替え中だった?」


 彼は私の乱れた格好を見て、一瞬だけ視線を逸らした。

 チャンスだと思った。私は彼に歩み寄り、至近距離でその瞳を覗き込む。


「エイト君。……探してるの、もしかしてこれ?」


 ポケットから、奪った鍵を取り出して見せる。

 彼はきょとんとして、それから私の手元と、私の顔を交互に見た。


「……あ、それ。見つけてくれたんだ、ありがとう」


 彼が笑顔でお礼を言った。

 ここだ。

 なんてサスペンスじみた思考を巡らせながら、慌てて落としたようなふりをして、鍵を足元に落とす。

 シューズに当たった鍵は、ベンチの下に滑り込む。

 何度も練習したんだ。

 ふふ、私、すごくない?


「あっ、ごめん、落としちゃった」


 そう言いながら、片膝をついてかがむ。

 短くしたスカートの下から、彼に太ももの内側が見えるように。

 大きく開けたシャツの隙間から、彼に胸元のふくらみが見えるように。


「見えなくなっちゃった」


「ああ、いいよ、僕が探すから」


 計算通り、エイト君は、遠慮した。優しい彼ならきっとそうする。


 そうして彼が私の目の前で、膝をついて頭を下げて、ベンチをのぞき込もうとするとき。

 私は、偶然を装ってバランスを崩し、彼のシャツの袖をつかんだ。

 はっと顔をあげるエイト君。

 それは、キスまでわずか五センチメートルの距離。

 ほんの僅かに低い位置から見上げる、私の目線と、彼の目線が絡み合う。


「あっ、ごめ……」


 言いながら、さらに偶然のように、彼の太ももに触れる。まだほんのりと残っていた熱が、指から私の脳天まで駆け上がってくる。

 彼の手が私の肩に触れるのを、強く抱き寄せられるのを、あるいはもっと激しい何かを期待して、目を閉じた。


 けれど。


「……や、やめなよ、ミナモ」


 降ってきたのは、氷のように冷たい、拒絶の声だった。


 エイト君の手が、私の腕を優しく、でも決定的な力で引き剥がす。

 目を開けると、そこには私が期待した劣情なんて欠片もなかった。あったのは、ひどく冷めた困惑だった。


「か、からかうのはよしてくれよ。その、なんというか、なんかあったら、困る」


 彼はそう言うと、素早く鍵をベンチの下から見つけ出し、一度も振り返らずに部室を出て行った。

 バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まる。


 静寂。


 夕闇が迫る部室で、私は半裸に近い無様な格好のまま、立ち尽くしていた。

 

 熱い。

 全身が、恥辱で燃えるように熱い。

 肺の奥に溜まった熱が、行き場を失って、どろどろとした塊になって喉を焼く。


 私は、自分が世界で一番のバカだと知った。

 初恋なんて、ただの呪いだ。

 あの日、移動教室の廊下で彼の手が触れたあの瞬間に、私は死んでしまえば良かったのだ。


 私は泣かなかった。ただ、ぐちゃぐちゃになったネクタイを、引きちぎるような勢いで締め直した。


***


 ミナモは、その日記を、鮮烈な衝撃とともに、読み解いていた。


 ある日、部室でエイトと二人きりになるように画策した。

 エイトだけが引き返してくるように工作した。詳しくは書かれていなかったが、たぶん自転車の鍵か何かを盗んでおいたのだろう。

 そしてスカートを短くしネクタイを緩めた格好で――なんということだ、エイトの劣情を誘おうとしている!

 そこで仮にエイトに何かされたとして、傷つくのは自分だというのに。

 それさえもわからないほどに熱を上げていた。あまりに刹那的だった。


 その策謀は当然失敗に終わった、らしい。日記には詳しいことは書かれていなかったが。


 日記には、それから少し経った頃から、カノコという同級生の存在が頻繁に書かれるようになった。

 おそらくカノコもエイトにアプローチしていたのだろう。

 エイトの視線がミナモとカノコのどちらに多く向いていたかが日々事細かに記されていた。


 ――気持ち悪い。


 アサギはそう思ったが、その一方で、そんな衝動を失って久しい自分に気づいた。


 一目惚れ、盗難、誘惑、拒絶、嫉妬。

 四度目の人生を生きるアサギにとって、それはあまりに稚拙で、効率の悪い、無意味な悲劇にしか見えない。

 今の自分なら、もっと上手くやれる。いや、そもそもそんなリスクは冒さない。相手の資産価値と将来性を天秤にかけ、及第点の相手と穏やかな愛を育む。それが「大人」の、転生者の正解だ。

 

 はずなのに。

 

 アサギの指先は、小刻みに震えていた。

 

 彼女が感じているのは、軽蔑ではなかった。

 それは、暴力的なまでの「羨望」だった。


 あんなに無様に、あんなに必死に、世界のすべてを敵に回してまで誰かを求めたことが、今の自分にあるだろうか。


 いつから?

 いつからだろう?

 誰かにこれほど恋焦がれる気持ちを失ったのは?


 エクスニューロがもたらした完璧な合理性。

 三度の人生で塗り重ねられた、分厚い「正解」の層。

 それはアサギを賢くしたが、同時に、彼女から「魂の震え」を奪い去った。

 今の彼女の心は、風ひとつ吹かない凪の海だ。泡立つことも、荒れることもない。ただ静かに、死に向かって停滞している。


「……戻りたい」


 一度こぼれた言葉は、止まらなかった。

 

 あの、肺が焼けるような熱。

 砂の味。

 恥辱で顔が火照る感覚。

 

 それらすべてが、今の空虚な平穏よりも、ずっと「生きている」気がした。


 そこまで考えて、アサギは、いつのまにかそれを「失っている」と表現していることに気づいた。


 刹那的な享楽や性的衝動から解放され、より価値ある生を生きている、と思っていたのに。

 失った。失ってしまった。

 それは、郷愁だった。

 失くしてしまったものに、二度と手が届かないと気づいて、手が震えていた。


 そして、アサギの心は泡立っていた。

 もう二度と感じることはないだろうと思っていた、衝動に。


 アサギは立ち上がり、端末に向かった。

 数日前、自らパッチを当てて封印したはずの、エクスニューロの深淵。

 

 ――何京分の一の確率。

 

 彼女の指が、熟練の職人の動きでキーを叩く。

 自分が作った鍵を、自分自身の技術で破壊していく。

 

 「経験」という名の重石を外せばいい。

 賢くなった自分を、一時期だけ「眠らせれば」いい。

 きっと私は、熱に浮かされたような恋ができる。

 

 暗い画面の中に、複雑なコードが奔流となって流れる。

 意識のナイフが、外部脳の防壁を次々と切り裂いていく。

 

 ――警告。システム領域への不正アクセスを検知。

 

 無視して、最後のエンターキーを叩いた。

 

 「……しばらく、おやすみなさい、私」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 意識が遠のく直前、脳の奥底で、何かがパチンと弾ける音がした。

 それは、静かな海に、無数の泡が生まれる音だった。


***


 アサギは、例の古い喫茶店の前の物陰で、寒さに震えながらある人物を待ち伏せしていた。


 彼女に”こんな気持ち”を思い出させた張本人、ハルキ=エイトを、である。


 当初は、彼に恋をしているなどとは思っていなかった。ただ、よみがえった記憶を携えて、過去のことを改めて懐かしみ合いたいと思っていただけだった。

 しかし、都合よくハルキが現れるはずもない。

 行くたびに、会えないたびに、アサギの心の深海から大きな泡が浮き上がり、水面を乱した。


 こんなに会いたいのに。

 こんなに求めているのに。


 経験浅き彼女の脳細胞は、決定的な勘違いをした。


 それを、恋だと。


 そんな現象が起こったころ、ようやく、ハルキは現れた。

 けれど、アサギはすでに声をかける勇気を持っていなかった。

 拒絶される恐怖にあらがう精神的包容力を持たなかった。


 とっさに身を隠し、彼が店を出るのを待って、後をつけた。その行動は完全に変質者のそれだ。

 そして彼女はハルキの自宅を突き止めた。その日、それ以上のことは起きなかった。


 その後、同じようにして、ハルキの自宅を起点として勤務先や行きつけの店を知るようになった。

 彼に話しかける勇気が出ない間、それでも、どこかで偶然を装って話しかけるために、少しでも機会を増やそうと思った。


 ある日、それは彼女にとっても意外な偶然で叶った。


 いつものように彼が昼食時によく行く軽食店の近くにたたずみ、彼が入った後で店に入り、驚きの演技をしようと思っていた。

 まだ彼がここに来る時間には早いだろうと油断していた、そんなアサギの背中に、ハルキが声をかけた。

 本気の驚きと戸惑いと、それから、今日はこの辺で昼食をとろうとしていた、というとっさの嘘。

 それらが化学反応を起こして、ハルキにアサギを誘わせたのだろう、二人はその軽食店に入っていた。


「この近くで?」


 ――働いてるの? 何気ない問いに、アサギは


「いいえ、この辺はめったに来ないんだけど、ちょっと用事があって」


 とっさにそんな風にごまかした。少し顔を赤らめて、うつむきながら。

 それから自分の失敗に気づいて慌てる。


「あ、その、でもたぶんこれからしばらくこの近くで」


 でなければ、今後も偶然を装って会うわけにもいかない。時には、ランチデートを共にすることも。


「へぇ、そうなんだ。すごい偶然もあるね。人生二つも挟んで再会するなんて。妙な運命みたいなものがあるのかもね」


 運命、という言葉に、アサギはドキリとする。

 彼も、そんな運命を感じている……。


「一度目の人生で知り合った人と会ったの、初めてなんだ。あの時はその……うん、はっきりとは覚えてないけど、ちょっと、だいぶ、僕がミナモさんに悪いことをしちゃったような、なんだかそれっきりだったから。せっかくなら、そういうの忘れてまた友達になってくれると嬉しい」


 そんなことをいうものだから、アサギは舞い上がった。


「こ、こちらこそ、私も全然気にしてないし、なんだかこれが縁であの頃の友達とかで集まれるといいね」


 そう言うと、ハルキもうなずき、それから、お互いの近況だとか、趣味だとか、前回よりもう少し踏み込んだ話をして、連絡先を交換してから別れた。


***


 そうして”逢瀬”を重ねるうちに、嫌なものも見えてくるようになった。

 最初に紹介された婚約者、リョウコの存在だ。


 三度目の生を生きるハルキにとって、女性と付き合うことは一生を添い遂げることと同義だ。お互いに過不足なく人生の伴侶として合格点を出した相手が、リョウコだった。


 それは、アサギから見れば実に奇妙なことだった。及第点だから結婚する、それは親に押し付けられた婚約者と何が違うのだろう。その二人の間に燃えるような恋はなく、ただ惰性で一生を添い遂げようとしているとしか見えない。


「そうだね、あの頃は、なんだかいろんな人とぶつかってた。疲れる生き方だったと、今になると思うよ。たぶん君もそう思ってると思うけど」


 ハルキは、リョウコのことを語るとき、まず、こんな言葉から始める。


「リョウコさんはね、過去の人生でもそれなりにつらいことがあったって言うけど、……なんというのかな、僕もそうだったから。そういうのも含めて、全部分かってくれる。似た者同士なのかもしれない」


 ハルキにはふさわしくない、と思った。


「リョウコさんは、湖面に映る静かな月。キザな言い方をするとね。僕に何も押し付けようとしないし、僕から何かをねだったりもしないし、でも、きちんとお互いを埋め合って、尊敬しあえる」


 これほどハルキのことを想い、すべてをささげようと覚悟した自分と、ただ及第点だからと隣にいるリョウコ。


 まるで相手にならない。

 そんなものにまとわりつかれているハルキが可哀そうとさえ思う。


 でも、ハルキがリョウコのことを語るときの笑顔は、春のひだまりにいるような優しさをたたえている。

 それは、リョウコが、ハルキの笑顔を通して、激しく燃え盛るアサギの恋を、冷酷に、冷静に、大人ぶって、嘲笑っているかのようで。

 アサギは嫉妬を募らせた。


 やがて、いっそすべてを終わらせようと考えるようになる。

 そう、すべてを終わらせれば、再び二人は新しい生を受ける。

 同じ年、同じ日に死んだ者は、きっと、この国のどこかで、同じ年、同じ日に生を受けるだろう。


 やがて二人は出会い、美しい恋に落ちるのだ。

 そうしてはぐくんだものこそが真実の愛に違いないのだ。


 そのように考えたとき、もはやそれ以外の答えが無いように思えた。


 いつにない時間、いつにない場所に、ハルキを誘った。

 ひっそりとしたバー。

 暗い店内には、静かに時間を楽しむ幾人かの男女がいるばかり。


 アサギはバッグの中に少し刃渡りの長い果物ナイフを忍ばせていた。


 大それたことをするつもりはない。

 ただそれをハルキの胸に突き立て、そして、自らの喉を貫く。

 二人は絶命し、生まれ変わる。


 ただそれだけの、人の輪廻転生の一シーンに過ぎない。


 カウンターでハルキの左隣に座ったアサギは、ハルキと他愛ない会話をしながら、その時をうかがった。

 バッグに右手を入れ、ナイフの把手をぎゅっとにぎる。


 ――衝動の嵐が吹き荒れる。


 アサギの言葉に相槌を打ちながら、ハルキはグラスを持ち上げた。

 無防備な左脇がちらりと見える。

 ナイフを引き抜きその左脇を一突きすれば終わりだ。

 そう思って握る手に力を込めたとき――


「……ミナモのことは、実は覚えてた。僕にとっても初恋だったから。あんな終わり方になって僕だって後悔してた。一度も忘れたことはない。……でも、僕もこうやって人並みの幸せをつかめる人間になれて、それは、君とのあんな経験もあったからだと、感謝してる」


 ふいに、ハルキがそんなことを言い、アサギの手が止まった。


 あんな終わり方?

 どんな終わり方をした?


 そう、あの日、私は、エイトとカノコと、三人だった。


 カノコは、私の親友だった。

 そのはずだった。


 そのカノコもエイトを狙っていると知って、そしてエイトもまんざらでもなさそうにカノコの相手をしているのを見て、私は嫉妬を募らせていた。

 親友という関係性に苛立ちを感じ始めていた。


 そしてあの日。


***


 蒸し暑い放課後だった。


 ――エイト君、なんだか最近、カノコのほう、見ること、多くない?


 なぜか、彼の笑顔はいつも、カノコに向いていた。

 彼が私を見る目に、優しさがないような気がした。

 どうして?

 あんなことをしたから?


 でも、普通におしゃべりはしてくれるし、私の冗談を笑ってくれたりもする。

 でもふと目が合うと、彼が目をそらすような気がする。


 嫌われたのかな。

 私が、汚らしいから?

 タオルをかいだりわざとパンツを見せたりするから?

 ……きっと、そう。


 そんなことを考えながら、忘れ物を取り行くために、誰もいないはずの部室の戸を、開いた。


 一瞬、思考が停止した。

 そこには、カノコとエイトの二人がいた。

 カノコは、エイトの腕をかき抱くようにして寄り添い、顔を寄せ、今にもキスをしそうだった。


 誰もいない、ほんのひとときの静寂。

 二人の間に流れる空気は、私があれほど欲して、どうしても手に入らなかった、甘くて静かな『熱』があるようで――

 ――なんで?

 

 頭が真っ白になった。

 私は、カノコの親友だったはずだ。彼女が泣いたとき、誰よりもそばにいたのは私だ。

 なのに、彼女は、私が何よりも欲しかったものを、あんなに軽やかに、当然のように奪っていく。

 

 嫉妬が、ドロドロとした黒い泥となって喉までせり上がってくる。

 私は悲鳴を上げた。自分が何を叫んでいるのか、もう分からなかった。


「なにしてるの、カノコ!」


 二人が驚いて離れる。エイトが何か弁明しようとするように私に手を伸ばす。

 でも、もう遅い。

 私の中の『ナイフ』は、すでに鞘から抜かれていた。


「エイト君、騙されないで! そんな清純そうな顔して、中学のとき大学生と付き合って、それで――っ!」


 カノコが目を見開く。その顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 

「やめて、ミナモ……!」


「なんでやめるのよ! 本当のことでしょ? 逃げられたから、なかったことにしたんでしょ?」


 秘密という名のナイフが、カノコの胸を深く、残酷にえぐり取った。

 カノコは声も出せず、ただ口をパクパクとさせている。

 私はエイトを見た。その視線のすべてを絡めとるように、熱を込めて。

 そして。


「エイト君、その子、殺人現場よ!」


 カノコが、小さな嗚咽を漏らして、その場に崩れ落ちた。


 エイトはカノコの本当の姿を知った。

 あんな汚い子、嫌いになるに決まってる。そうすれば、次は私の――。

 けれど、エイトが私に向けたのは、私が期待したような同調ではなかった。

 

 それは、部室で私を拒絶したときよりも、ずっとずっと深く、取り返しのつかない『嫌悪』だった。


「……最低だ」


 エイトは、掠れた声でそう言った。

 私を、ゴミを見るような目で一瞥し、震えるカノコの肩を抱こうとした。

 カノコはそれを拒否し、駆け去っていった。

 エイトはそれを追う。


 二人が部室を出ていって。

 私は、真っ赤に染まった夕闇の中で、一人きり取り残された。

 

 この後、二度と、カノコは学校に来なかった。

 二度と、エイトと目線が合うこともなかった。


 私にすべてをもたらすはずだったナイフの刃先は、私からすべてをえぐり取っていったのだ。

 エイトの心も。カノコとの絆も。そして、私自身の、誇りさえも。


***


 アサギは我に返ると同時に、泡沫の記憶の海に身を投げた。


 一途な恋も、鮮烈な愛も、刹那の衝動も、――愚かな少女も、泡となって海に溶けていった。


 視界が、一瞬で色を失う。

 燃えるような嫉妬も、胸を締め付けるような羨望も、ハルキを独占したいという狂おしい欲望も。

 すべては渦に飲み込まれ、薄まり、消え去っていく。

 あとに残ったのは、凪のように静かな、平穏。


 グリッチを解除されたエクスニューロは再び記憶と経験の大海となってアサギを優しく包む。


 二度と取り戻せないと思っていたものは、やはり二度と取り戻せない郷愁の彼方にしかない。

 何度人生を繰り返しても、ただの一度しか持ちえない、青春のスライス。


 カバンから空っぽの手を引き抜き、苦いだけのリキュールを啜る。

 もはや、彼のしぐさに既視感デジャヴを覚えることも、心拍数が上がることもない。

 彼は単なる、仕事のついでに再会した「知人」の一人に戻った。


「そうね、たった一度の経験。良い経験だったよ。私も若かったんだと思う」


 そして彼女の情熱は、永遠に海の底に眠り、二度と目覚めない。


               (完)




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