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泡沫の記憶の底に 【Mode A】


■泡沫の記憶の底に


 先日の誕生日で二十代の半ばに差し掛かったアサギは、久しぶりにある街のカフェを訪れていた。

 創業二百年に近い――というと非常に古めかしいカフェを想像してしまうが、そんな空気はみじんもなく、モダンで洒落た空気は時代々々に合わせて塗り替えられている。

 昔来た時とは一変したテーブルの並びを見渡し、出迎えてくれたバイト店員に促されて、かつて陣取っていたカウンターの奥の二人掛けの小さな丸テーブル――があったであろう場所の、一人掛けのソファを使った。


 常連としてここに来るのをやめてから、それでも何度かここは訪れている。

 来るたびに内装は一変していたが、時折見える店主は相変わらずのようだった。


 何がきっかけでここに来るのをやめたんだっけ、高校を卒業したからかしら?


 そんなことを考えながら、昔と変わらない自慢のブレンドコーヒーを頼んだ。

 小さなミルクピッチャーからとぽりとクリームを落とすと、小さな泡が浮かんで消える。その光景だけは、どんなに時間が経ってもアサギの脳裏からは消えていなかった。そのあとに来る、ちょっとビターなコーヒーの味も。


 こんな味が子供に分かるわけがないのに、大人ぶって苦みを嚙み殺していた過去の自分を、ふと、嘲笑う。

 きっかけなんてきっとどうしようもなくちっぽけなことで、あれはきっとただの熱病だったのだろう。浅い人生経験からくる一時の過ち。


 今もこうしてコーヒーを楽しんでいるのだからそれがすべて間違いだったとは思わないけれど、背伸びして大人ぶろうとしていた過去を少し恥ずかしく思う。

 そう考えれば、あの頃は、人類そのものが大人ぶろうともがいていた。

 誰もが手の届く範囲のことにとらわれ偽情報に右往左往し時に物事を単純化して無理やりに理解しようとする。知らないことを妄想で補おうとする。それは、単に経験が足りないからだ。

 多くのことを身をもって体験し経験として蓄積すれば、すべての物事に自分の及ばぬ深みがあることに気づき、あるいはその深みの一部にさえなれるのだ。


 たった一杯のコーヒーからそんな愚にもつかない事をぼんやりと考えていた彼女の視界に、思わぬものが目に入った。


 窓際の二人掛けのテーブルに向かい合って座る男女。

 よくある光景と言ってしまえばそれまでだったが。


 その男性を、アサギは知っている。知っている気がした。

 顔も声も全く違うけれど、グラスとストローを引き寄せるしぐさに、言いようのない既視感を覚えたのだ。


 それは遥か遥か古い記憶。

 アサギは立ち上がり、彼に声をかけた。


「エイト?」


 言われた男は少し戸惑いながら、それから何かを思い出すようなしぐさを見せ、ついにこう言った。


「……ミナモ、さん?」


***


 アサギは『転生者』だ。


 正確を期すのであれば、『過去の人生から意識と記憶を引き継いだ者』である。

 それを実現したのは、エクスニューロという機械である。

 エクスニューロとは、簡単に言えば拡張脳である。脳の神経回路を模した電子装置であり、脳血管に住まわせたナノマシンにより生体の脳とリンクしている。


 当初それは単に知性を拡大し人工知能を身近に置くだけのものになると思われていた。

 人間の五十倍に近い数の人工神経細胞は人間の脳のよき相棒として膨大な知識と計算能力を提供するはずであった。


 だがある時その様相は一変した。


 人間の脳細胞よりはるかに高速で動作するエクスニューロが、本来の生体の脳から機能を引き継ぎ始めたのだ。それは、より高速な回路の方がフィードバックも早く、結果としてそこにつながる生体側のシナプスが強化されるから。


 ――やがて、人間の意識はエクスニューロの中にあった。


 いつからそうなっていたのか誰もわからない。ただ、ある脳科学上の革命により唐突に発見され解決された”意識の数学”、それをエクスニューロを装着した人に適用し解を導くと、意識がエクスニューロの中にあることを示していた、それだけだった。

 生体の脳は単に真なる自我と身体をつなぐ過剰に複雑なインターフェースに成り下がった。


 次に起こったことは容易に想像がつくだろう。


 やがて生体としての死を迎えるときにも、意識と記憶はエクスニューロに残っている。これを新たに赤ん坊にリンクさせれば、あっさりと『転生』が成立してしまう。

 もともと赤ん坊が持っていた意識は統合され、意識数学は「最初から一つの意識だった」という解を示す。


 敷衍するのにさほど時間はかからなかった。エネルギーさえ都合が付けば、何度でも転生できるのだから。前世の経験を持ったまま。

 倫理的嫌悪感はしばらく残ったが、それも徐々に圧殺されていく。

 生まれながらに百年に近い人生経験を持つ子供たちは、総じて優秀であり、理性的であり、合理的であった。社会の最も良きメンバーでさえあった。社会が社会自身の安定のために転生者を肯定的に受け入れるよう変容するのに時間はかからなかった。


 こうして人類は進化した。


 だから、ただカフェでコーヒーをたしなむアサギでさえ、当然のように転生者なのである。

 彼女にとって『アサギ』とは四度目の人生であった。

 そして、アサギが見出した男は、三度目の人生を生きるものであり――

 お互いの一度目の人生でミナモとエイトとして知り合った仲であった。


***


 二人はお互いに相手の正体を確認しあい、少し他人行儀気味に一度目の人生を懐かしみあった。それから、エイトが今はハルキという男の人生を生きていて、彼とともにいるのは婚約者のリョウコであるとアサギに紹介した。

 その会話の時間は五分にも満たなかっただろう。

 邪魔をするのもよくないだろうと、アサギはすぐに店を出て、ゆえに、ハルキとリョウコがその後どんな会話をしたのかも知らない。


 だが、アサギは、思い出していた。

 彼女にとって、ハルキは――エイトは、特別な男性だった。

 過去の彼女、ミナモの、初恋の人だった。


 とはいえ、もう三度も人生を繰り返しているものだからその記憶もおぼろげだ。

 そういえばそういうこともあったな、とぼんやりと振り返る程度で、アサギの興味は翌日の仕事のことに移っていた。


 それからしばらく、彼女は平坦な日常を過ごしていた。

 彼女がそのニュースに触れたのは、偶然の産物に過ぎなかった。


「エクスニューロには”グリッチ”がある」


 他愛ないオンラインフォーラムでの話題。過去の経験も生かして技術職として働いていたアサギは、特に、情報処理システムのバグの追求にかけては一級で、網羅的に検査をする自動システムでさえ発見できない”ズル”を見つけ出す職人として有名だった。そんな彼女にとって、人類進化の礎たるエクスニューロの”グリッチ”は、職人魂をかけて挑みたいと思う高峰と言えた。


 莫大な記憶と高速処理が可能な外付け脳細胞たるエクスニューロが与えるものは、単なる合理性ではない。まるで答えを知っていたかのように答えを導く直観力だ。それぞれ得意な分野のスペシャリストとして何度も繰り返す生の中であらゆる形の「不測の事態」に遭遇し、乗り越え、解決した経験。問題の本質はきっとここだと感じる本能。

 アサギは、あっさりとバグの正体を突き止めた。


 それで起こることは、端的に言えば経験のマスクだ。


 エクスニューロの蓄えている過去の経験のうちの一部をマスクしてしまえる、という意図せぬ機能が隠されていた。

 おそらく開発初期のころ、まだエクスニューロが人間の意識さえ代替できるようなものになろうとは思われていなかったころ、特定の記憶がどのように記録されているのかを確かめ、場合によっては有用な知識を植え付けることさできるのではないかと試行錯誤したのだろう。時間に従ってエクスニューロの発火領域がコントロールされるようになっており、そのコントローラには、特定の時間域を不活性化させる機能も含まれていた。やがてその機能自体は不要となり、除かれるはずであったが、発火領域のコントロールという根本機能までリニューアルすることはシステムを不安定にする危険性があったのだろう、領域の不活性化や書き込み機能はそこに残されたまま、ドライバソフトによって切り離されるという形で機能が殺されていた。そして今回のグリッチ騒ぎは、そこにアクセスする方法が見つかった、というのが真相のようである。


 アサギは直感的に、このバグは直せないと思った。あまりにエクスニューロの根幹にかかわるバグであり、厳重にアクセスコントロールするしかない。

 それを突き止めたアサギは、アクセスする方法を伏せたまま、バグの対処案をフォーラムに投稿した。奇しくも、同じ結論に至った他の専門家も同様の対処案を提示していた。

 これでグリッチ騒動はひとまず終息を迎える。


***


 騒動が収まってから、アサギは改めてエクスニューロの記憶に思いを馳せていた。


 彼女の最も古い記憶――彼女がエクスニューロを装着した一度目の生の二十代。しかしその前にも確かに記憶があった。

 エクスニューロが蓄えている常に鮮やかな記憶に対して、あまりにおぼろげで弱々しく頼りない記憶。

 しかし、仮にグリッチでエクスニューロの記憶すべてをマスクしてもそれはきっと思い出せるだろう。なぜなら、発火領域コントロール以前に”同期された”記憶だから。


 彼女はそこに興味を持った。

 そこにはどんな記憶が残されているのかが気になった。


 そう、先日偶然出会ったエイトとの初恋の記憶がそこにある。それはひどくぼんやりとしていて、思い出そうとしても老獪な苦笑いしか出てこない。きっとあまりに若すぎるみっともない記憶。経験多き彼女の”今”はそれを思い出すことを拒否している。でも、確かにエイトに恋をしていたことははっきりと覚えている。だからこそ、気になった。


 グリッチを試そう――という誘惑は、すぐにはねのけた。そんな後先を考えないことをしてしまうほど子供ではない。間違いなく後悔するだろうと思った。

 一方、アサギはその記憶を探る安全で簡単な方法をすぐに思いついた。


 彼女の自宅、物置の奥深くに眠っている日記。

 一度目の生で、高校生の頃のアサギは日記を書いていた。

 たぶん、たしか、おそらくは。そんな前置きの副詞付きで、失恋したときに日記をやめてしまったのではなかっただろうか、と思い出す。

 そう、失恋したのだ。

 今となってはちょっと信じがたいことに。


 恋とは――。

 相手の行動や反応から慎重にお互いの好意や価値観を見定めて、きっと後悔しないと確信してから恋に落ちるものだ。少なくとも三度目の生では、そうして初めて気持ちを伝えあった人と一生添い遂げている。今生ではまだそうした相手に巡り合っていないだけだ。


 そうした行程を飛ばして恋に落ち、失恋する。”失恋した”ということはそういうことだ。一歩誤ればもてあそばれ心身ともに傷つくかもしれない、そんなリスクにさえ考えが及ばずに。

 考えれば考えるほどに興味が深まる。


 考えながら探しているうちに、アサギはついに荷物の奥から日記を発掘した。すっかり黄ばんだ紙はだいぶ劣化してページが崩れそうになっているが、それでも何とか読めた。

 そして読み進めるうちに、アサギは徐々に度を失っていく。


 そこに書かれていたのは、一途で鮮烈で刹那的で愚かな恋の記録だった。


 エイトに一目ぼれした。


 なんだそれは。

 一目ぼれ?

 そんな、私が?

 ありえない。


 否定の言葉が何度も脳裏に反響するのを覚えながら、読み進める。


 全く興味もないのに、エイトと同じ陸上部に入った。

 マネージャーとして興味のないことに一心に打ち込んだ。

 偶然を装ってタオルを見失って困っているエイトの汗を拭いた。エイトのタオルの置き場所を少し変えておいたのは、アサギ――当時のミナモ、だ。

 その体液の浸み込んだタオルを持ち帰って抱きしめ、それと同時に湧き上がった自身への嫌悪感がつづられていた。


 馬鹿なことを。

 男子のタオルを触っているところなんて、きっと誰かに見られている。そんなこともわからないの?

 妙な噂がたてばいずれ居場所さえなくなるというのに。


 愚かな少女としか思えなかった。

 しかしミナモの行動はエスカレートしていった。


 ある日、練習で遅くなった時に、部室でエイトと二人きりになるように画策したことさえあった。

 みんなを帰らせ、それでもエイトだけが引き返してくるように工作した。詳しくは書かれていなかったが、たぶん自転車の鍵か何かを盗んでおいたのだろう。

 そしてスカートを短くしネクタイを緩めた格好で――なんということだ、エイトの劣情を誘おうとしている!


 そこで仮にエイトに何かされたとして、傷つくのは自分だというのに。

 それさえもわからないほどに熱を上げていた。あまりに刹那的だった。


 その策謀は当然失敗に終わり、少し経った頃から、カノコという同級生の存在が頻繁に書かれるようになった。

 おそらくカノコもエイトにアプローチしていたのだろう。

 エイトの視線がミナモとカノコのどちらに多く向いていたかが日々事細かに記されていた。


 ――気持ち悪い。


 アサギはそう思ったが、その一方で、そんな衝動を失って久しい自分に気づいた。


 いつから?

 いつからだろう?

 誰かにこれほど恋焦がれる気持ちを失ったのは?


 そう、確かに三度目の生では、そんな気持ちを持つ余地はなかった。


 二度目はどうだっただろう?


 八十歳以上の一度目の生を終えて二度目の生を生きるとき、自分に思いを寄せる一度目を生きる彼がいた。刹那的に生きる彼をたしなめていた。彼とは結局別れた。でも、――そう、その時から、一度目の十代のころに感じた衝動はすでに失っていたではないか。


 そこまで考えて、アサギは、刹那的衝動を「失っている」と表現していることに気づいた。


 刹那的な享楽や性的衝動から解放され、より価値ある生を生きている、と思っていたのに。


 失った。失ってしまった。


 アサギの心は泡立っていた。

 もう二度と感じることはないだろうと思っていた、衝動に。


 それは、郷愁だった。


 失くしてしまったものに、二度と手が届かないと気づいて、手が震えていた。

 そして彼女は、衝動的にグリッチに手を出した。


***


 アサギは、例の古い喫茶店の前の物陰で、寒さに震えながらある人物を待ち伏せしていた。

 彼女に”こんな気持ち”を思い出させた張本人、ハルキ=エイトを、である。


 当初は、彼に恋をしているなどとは思っていなかった。ただ、よみがえった記憶を携えて、過去のことを改めて懐かしみ合いたいと思っていただけだった。

 しかし、都合よくハルキが現れるはずもない。

 行くたびに、会えないたびに、アサギの心の深海から大きな泡が浮き上がり、水面を乱した。


 こんなに会いたいのに。

 こんなに求めているのに。


 経験浅き彼女の脳細胞は、決定的な勘違いをした。

 それを、恋だと。


 そんな現象が起こったころ、ようやく、ハルキは現れた。

 けれど、アサギはすでに声をかける勇気を持っていなかった。

 拒絶される恐怖にあらがう精神的包容力を持たなかった。


 とっさに身を隠し、彼が店を出るのを待って、後をつけた。その行動は完全に変質者のそれだ。

 そして彼女はハルキの自宅を突き止めた。その日、それ以上のことは起きなかった。

 その後、同じようにして、ハルキの自宅を起点として勤務先や行きつけの店を知るようになった。

 彼に話しかける勇気が出ない間、それでも、どこかで偶然を装って話しかけるために、少しでも機会を増やそうと思った。


 ある日、それは彼女にとっても意外な偶然で叶った。

 いつものように彼が昼食時によく行く軽食店の近にたたずみ、彼が入った後で店に入り、驚きの演技をしようと思っていた。

 まだ彼がここに来る時間には早いだろうと油断していた、そんなアサギの背中に、ハルキが声をかけた。

 本気の驚きと戸惑いと、それから、今日はこの辺で昼食をとろうとしていた、というとっさの嘘。

 それらが化学反応を起こして、ハルキにアサギを誘わせたのだろう、二人はその軽食店に入っていた。


「この近くで?」


 ――働いてるの? 何気ない問いに、アサギは


「いいえ、この辺はめったに来ないんだけど、ちょっと用事があって」


 そんな風にごまかした。少し顔を赤らめて、うつむきながら。

 それから自分の失敗に気づいて慌てる。


「あ、その、でもたぶんこれからしばらくこの近くで」


 でなければ、今後も偶然を装って会うわけにもいかない。時には、ランチデートを共にすることも。


「へぇ、そうなんだ。すごい偶然もあるね。人生二つも挟んで再会するなんて。妙な運命みたいなものがあるのかもね」


 運命、という言葉に、アサギはドキリとする。

 彼も、そんな運命を感じている……。


「一度目の人生で知り合った人と会ったの、初めてなんだ。あの時はその……うん、はっきりとは覚えてないけど、ちょっと、だいぶ、僕がミナモさんに悪いことをしちゃったような、なんだかそれっきりだったから。せっかくなら、そういうの忘れてまた友達になってくれると嬉しい」


 そんなことをいうものだから、アサギは舞い上がった。


「こ、こちらこそ、私も全然気にしてないし、なんだかこれが縁であの頃の友達とかで集まれるといいね」


 そう言うと、ハルキもうなずき、それから、お互いの近況だとか、趣味だとか、前回よりもう少し踏み込んだ話をして、連絡先を交換してから別れた。


***


 そうして”逢瀬”を重ねるうちに、嫌なものも見えてくるようになった。


 最初に紹介された婚約者、リョウコの存在だ。

 三度目の生を生きるハルキにとって、女性と付き合うことは一生を添い遂げることと同義だ。お互いに過不足なく人生の伴侶として合格点を出した相手が、リョウコだった。

 それは、アサギから見れば実に奇妙なことだった。及第点だから結婚する、それは親に押し付けられた婚約者と何が違うのだろう。その二人の間に燃えるような愛はなく、ただ惰性で一生を添い遂げようとしているとしか見えない。


 ハルキにはふさわしくない、と思った。

 これほどハルキのことを想い、すべてをささげようと覚悟した自分と、ただ及第点だからと隣にいるリョウコと。

 まるで相手にならない。

 そんなものにまとわりつかれているハルキが可哀そうとさえ思う。


 でも、ハルキがリョウコのことを語るときの笑顔は、一番にまぶしくて。

 アサギは嫉妬を募らせた。


 やがて、いっそすべてを終わらせようと考えるようになる。

 そう、すべてを終わらせれば、再び二人は新しい生を受ける。

 同じ年、同じ日に死んだ者は、きっと、この国のどこかで、同じ年、同じ日に生を受けるだろう。

 やがて二人は出会い、美しい恋に落ちるのだ。

 そうしてはぐくんだものこそが真実の愛に違いないのだ。


 そのように考えたとき、もはやそれ以外の答えが無いように思えた。

 いつにない時間、いつにない場所に、ハルキを誘った。


 ひっそりとしたバー。

 暗い店内には、静かに時間を楽しむ幾人かの男女がいるばかり。

 アサギはバッグの中に少し刃渡りの長い果物ナイフを忍ばせていた。


 ()()()()()()をするつもりはない。

 ただそれをハルキの胸に突き立て、そして、自らの喉を貫く。

 二人は絶命し、生まれ変わる。

 ただそれだけの、人の輪廻転生の一シーンに過ぎない。


 カウンターでハルキの左隣に座ったアサギは、ハルキと他愛ない会話をしながら、その時をうかがった。

 バッグに右手を入れ、ナイフの把手をぎゅっとにぎる。


 ――衝動の嵐が吹き荒れる。

 アサギの言葉に相槌を打ちながら、ハルキはグラスを持ち上げた。

 ナイフを引き抜き左脇を一突きすれば終わりだ。

 そう思って握る手に力を込めたとき――


「……ミナモのことは、実は覚えてた。僕にとっても初恋だったから。あんな終わり方になって僕だって後悔してた。一度も忘れたことはない。……でも、僕もこうやって人並みの幸せをつかめる人間になれて、それは、君とのあんな経験もあったからだと、感謝してる」


 ふいに、ハルキがそんなことを言い、アサギの手が止まった。


***


 あんな終わり方?

 どんな終わり方をした?


 そう、あの日、私は、エイトとカノコと、三人だった。

 カノコは、私の親友だった。

 そのはずだった。

 そのカノコもエイトを狙っていると知って、そしてエイトもまんざらでもなさそうにカノコの相手をしているのを見て、私は嫉妬を募らせていた。

 親友という関係性に苛立ちを感じ始めていた。


 そしてあの日だ。


 私は後から部室に入った。

 カノコとエイトの二人がいた。

 彼女はエイトの腕をかき抱き、顔を寄せ、今にもキスをしそうだった。


 私は頭が真っ白になり、悲鳴を上げた。

 その時、私が何を叫んでいたのか、もう覚えていない。


 でも、私はカノコの秘密を知っていた。

 決して人には言えない秘密を知っていた。

 それをぶちまけた。

 そんな女はエイトにふさわしくないと叫んだ。

 知られればまともに学校の中で生きていけないかもしれない、そんな秘密をエイトに向けて叫んだ。


 秘密というナイフでカノコを殺そうとしたのだ。

 事実、殺してしまったのだと思う。


 そのあと、その部室で何が起こっていたのか、記憶が真っ赤に染まっていて何も覚えていない。

 エイトとカノコがその後どうなったのかも、おぼろげにしか覚えていない。


 次に思い出した記憶の中では、カノコは学校からいなくなっていたし、エイトの視線を感じたこともない。


 私はすべてを失っていた。

 カノコとエイトは、その時の私にとってのすべてだったのだ。

 私にすべてをもたらすはずだったナイフの刃先は、私からすべてをえぐり取っていったのだ――


***


 アサギは我に返ると同時に、泡沫の記憶の海に身を投げた。


 一途な恋も、鮮烈な愛も、刹那の衝動も、――愚かな少女も、泡となって海に溶けていった。


 グリッチを解除されたエクスニューロは再び記憶と経験の大海となってアサギを優しく包む。

 二度と取り戻せないと思っていたものは、やはり二度と取り戻せない郷愁の彼方にしかない。

 何度人生を繰り返しても、ただの一度しか持ちえない、青春のスライス。

 カバンから空っぽの手を引き抜き、アサギはハルキに微笑みを返した。


「そうね、たった一度の経験。良い経験だったよ。私も若かったんだと思う」


 そして彼女の情熱は、永遠に海の底に眠り、二度と目覚めない。


            (完)

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