3 『ダンゴムシの可動域』
3 『ダンゴムシの可動域』
梅雨入り前の空気は、重たくて粘度が高い。
放課後の生物準備室も例外ではなかった。換気扇が古びた音を立てて回っているが、湿気は部屋の隅々にまで澱んでいる。
僕は作業台に向かい、RGガンダムの腰部フレームの仮組みを行なっていた。
一ミリにも満たない極小のパーツをピンセットで摘まみ、指定されたダボ穴に差し込む。カチリという微かな感触だけが、この世界の正しさを証明してくれる。
背後で、ページを捲る音がした。
月島レイナだ。
彼女はこの数日、毎日のようにここに来ている。生徒会が終わったであろう後に。
最初は警戒していた僕も、彼女が本当に何もしない――ただ椅子に座って本を読んだり、スマホをいじったりしているだけ――だと分かってからは、空気のような存在として受け入れ始めていた。
ただ、今日の彼女は少し違っていた。
いつものように参考書を開くのではなく、鞄をごそごそとまさぐり、何かを取り出したかと思うと、それを僕の作業スペースの端に、コロンと転がしたのだ。
「……なんだ、これ」
僕は作業用ルーペを跳ね上げ、転がってきた物体を見た。直径七センチほどの、黒い球体。プラスチック製だが、表面には光沢のある甲殻のような溝が刻まれている。
「お土産」
月島レイナは、頬杖をついたまま悪戯っぽく言った。
「駅前のスーパーの入り口で見つけたの。五〇〇円もしたんだから」
「……ガシャポンか」
僕はその球体を手に取った。ずっしりとした重み。そして、精巧な作り。
見覚えがある。いや、ネットの模型ニュースで見たことがあった。バンダイのガシャポン開発部が狂気じみた情熱で開発したという、『だんごむし』だ。カプセルレス(容器に入っておらず、この状態で排出される)仕様の、10/1スケールモデル。
「……バンダイか」
世界最高峰の射出成形技術を持ちながら、時折その情熱を不可解な方向へ全力で振り切る狂気のメーカー。かつて『ウンコスルデイズ』などという――その名の通り「うんこ」をテーマにした――玩具を大真面目に発売した前科もある。
技術力の無駄遣いここに極まれり。だが、このダンゴムシもまた、その系譜に連なる「偉大なる暴走」が生んだオーパーツと言えるだろう。
「なんでまた、こんなものを」
「目が合ったの」
彼女はふふ、と笑った。
「機械の中にぎっしり詰まっててさ。みんな丸まって、じっとしてるのが可愛くて。つい回しちゃった」
優等生の生徒会長が放課後のスーパーで一人、ガシャポンのハンドルを回している姿を想像する。それは校則違反ではないが、彼女のパブリックイメージからは程遠い光景だった。
「開けてみてよ」
促されて、僕は球体の隙間に指をかけた。 パカッ、という音と共にロックが外れる。僕の手の中で、球体だったものがジャラリと展開した。無数の脚。節のある背中。触角。一瞬にして、巨大なダンゴムシの姿が現れる。僕の開いた掌と同じくらいの大きさだ。
「うわ、キモッ」
自分で買ってきたくせに、月島レイナが顔をしかめた。
「開くとやっぱりグロテスクだね。裏側の脚とか、リアルすぎて鳥肌立つ」
「……いや」
僕は思わず、その裏側に見入っていた。
「これは……すごいな」
僕はルーペを下ろし、その構造を拡大して観察した。
「なんだ、この設計……。外殻のパーツがスライドして重なるようになってる。R(曲線)の計算が完璧だ。丸まった時に一切の隙間ができないように、クリアランス(部品同士の空間)が調整されてる」
僕はダンゴムシの背中を撫でた。滑らかなABS樹脂の感触。
「すごいぞ、月島。これはただのオモチャじゃない。工業デザインの傑作だ。この多重関節のギミックだけで、飯が三杯食える」
僕が熱っぽく語ると、月島レイナはポカンとして、それから吹き出した。
「あはは! 佐藤くん、そこ?」
「そこだろ、どう見ても」
「普通は『キモい』か『可愛い』かの二択だよ。……関節のギミックで感動してる人、初めて見た」
彼女は楽しそうに笑い、それから伸びてきた人差し指で、机の上のダンゴムシをツンとつついた。
「でもさ」
笑いが収まると、彼女の声のトーンが少し下がった。
「なんか、羨ましいよね」
「羨ましい?」
「うん。……こうやって、綺麗な球体になれるのが」
彼女はダンゴムシを手に取ると、器用な手つきで――最初は少し怖がりながら、すぐに慣れた様子で――再び丸い形に戻していった。
カチ、カチ、と節が収納され、脚が隠され、完全な球体に戻る。外敵を拒絶する鉄壁の防御形態。
「嫌なことがあったら、こうやってクルッて丸まってさ。硬い殻で外側を全部シャットアウトして。……中は安全で、誰も入って来れない」
彼女は丸くなったダンゴムシを、両手で包み込むように持った。
「私にもこういう機能がついてればいいのに」
その言葉には、冗談めかした響きの中に、無視できない切実さが混じっていた。
「家にいるとさ、閉じこもることを許してもらえないの」
彼女は独り言のように呟いた。
「ドアも、心も。ちょっとでも閉じようとすると、すぐにお母さんが来て、無理やりこじ開けようとするから」
生徒会、進学クラス、母親の期待。彼女を取り巻く世界は、常に彼女に「開いていること」を強要する。笑顔で、オープンで、社交的であること。だからこそ、この節足動物の「拒絶のフォルム」に彼女は惹かれたのかもしれない。
「……人間には、殻がないからな」
僕はルーペを置き、淡々と答えた。
「だから、服を着たり、化粧をしたりして、擬似的な殻を作るしかない」
「そうだね。……でも、私の殻は柔らかいから。すぐに凹んじゃう」
彼女は球体を転がし、また机の上に置いた。
コロン。黒い塊は何も語らず、ただそこに存在している。
「佐藤くん、これあげる」
「は?」
「準備室に置いておいて。持って帰ったら、お母さんに捨てられちゃうかもしれないし」
「おれにゴミを押し付けるな」
「ゴミじゃないよ。……守り神」
彼女は悪戯っぽく、けれど、どこか真剣な目で僕を見た。
「私がここにいない時、私の代わりに丸まっててくれる係」
「なんだ、その係。意味が分からん」
「いいの。意味なんてなくて」
彼女は満足そうに伸びをすると、また参考書を開いた。
僕は机の上に残された、巨大なダンゴムシを見つめた。
黒くて、硬くて、頑丈な球体。それは確かに、彼女が心のどこかで望んでいる「理想の姿」なのかもしれない。
僕はため息を一つ吐き、ダンゴムシをRGガンダムの箱の横に並べて置いた。
1/144の白い兵器と、10/1の黒い節足動物。
奇妙な組み合わせだが、不思議と収まりは悪くなかった。
「……可動域の参考資料としてなら、置いておいてやる」
「ふふ。素直じゃないね、佐藤くんは」
微かな雨の匂いがする静寂の中、僕たちはそれぞれの作業に戻った。
僕と彼女の間には、言葉にならない共感が――「社会という外敵から身を守りたい」という、ひっそりとした共犯意識が、ダンゴムシのように丸まって転がっていた。
この時の僕はまだ知らなかった。
彼女が欲しがっていた「硬い殻」が、逆に彼女自身を窒息させる檻になる日が、すぐそこまで迫っていることを。




