2 『パーフェクト・インターフェイス』
2 『パーフェクト・インターフェイス』
生物準備室の静寂は何にも代えがたい資源だ。
昨日の放課後、月島レイナという「規格外の来訪者」によって一時的に変質されたこの空間。今日は無事に埃っぽくも神聖な静けさを取り戻していた。
僕はいつもの定位置である実験台の隅に陣取り、RGガンダムの脚部パーツに四〇〇番のペーパーを当てていた。
シュ、シュ、シュ。
微細なプラスチックの粉が舞う。
孵卵器のモーター音が低く唸っている。孵卵器に入れてまだ二日目の卵たち。彼らは今日も沈黙を守りながら、殻の中で着々と生命維持システムを構築しているはずだ。
月島レイナはいない。
昨日の「また来ていい?」という言葉は、社交辞令か、あるいは気まぐれなバグのようなものだったのだろう。
それでいい。彼女のような高輝度な存在が頻繁に出入りすれば、僕の日陰の生態系は崩壊してしまう。ここは選ばれし日陰者のための聖域なのだから。
僕は指先の感覚だけに意識を集中させる。パーツの表面にある成形時の凹みが消え、完全な平面が現れる瞬間。その素晴らしいカタルシスに浸ろうとした、その時だった。
「――ふざけるなッ!」
怒号が薄い壁を突き破って鼓膜を殴った。
手元が狂いそうになり、僕は慌ててデザインナイフを置く。
音源は壁一枚隔てた隣の部屋だ。大会議室。普段は使われないその広大な部屋は、行事の時期になると、生徒会執行部と各クラスの代表、そして教師たちが鎬を削る古戦場へと変貌する。
「予算が足りないだと? お前ら、去年の決算報告を見たのか!」
「ですから、資材の高騰で……」
「前例がない! 却下だ、却下!」
男の怒鳴り声に複数の生徒の不満げな声が混じる。低周波の振動が壁を伝い、実験台の上のビーカーを微かに震わせていた。
僕は溜息を吐く。まったく、ひどい雑音だ。
壁の向こう側は論理よりも感情が、精度よりも声の大きさが優先されているようだ。僕が最も忌み嫌う「政治」の世界。聞いているだけで、脳の処理速度が落ちそうになる。
僕は遮音性の高いイヤホンを取り出し、耳に押し込もうとした。
だが、その手が止まる。
「――先生。仰ることはわかりますが、その論拠は数字に基づいていますか?」
混沌とした雑音の海を、低く、抑揚のない男子生徒の声が切り裂いたからだ。
副会長の杉本だ。成績優秀だが神経質そうな眼鏡の男。教師相手でも容赦なく論破することで知られる、生徒会の懐刀だ。
「去年の決算における予備費の残額と、今年度の資材高騰率3・5パーセントを照らし合わせれば、この程度の増額は許容範囲内です。……それとも先生は、数学的な根拠よりも『気分』を優先されるのですか?」
「な、なんだと……ッ! おまえ、教師に向かって!」
教師が逆上する気配。まずい。これでは交渉決裂だ。
そこに空気を浄化するような、凛とした鈴のような声が割って入った。
「――杉本くん、言い過ぎよ」
月島レイナだ。
彼女の声が響いた瞬間、場の温度が数度下がったのが気配でわかる。
「先生、申し訳ありません。副会長は少し数字に拘りすぎるきらいがありまして。決して先生を軽んじているわけではないんです」
「む……いや、まあ、月島がそう言うなら……」
「先生のご懸念も、もっともです。『前例がない』という点、私たちも重々承知しています。ただ、このままでは生徒たちの士気にも関わりますし、何より行事の成功を願う先生のお顔に泥を塗ることになりかねません」
柔らかな声音だが、論理の組み立ては完璧だ。相手の怒りをなだめつつ、脅し文句をオブラートに包んで突きつけている。
「そこで、ご相談なのですが」
彼女の声が、少し甘えるようなトーンを帯びた。
「今回は『物価高騰に伴う緊急措置』として、先生の特別裁量で認めていただいたという形にはできませんでしょうか? あくまで先生のご判断という形であれば、前例にもなりませんし、生徒たちも先生の寛大さに感謝するはずです」
壁の向こうが一瞬、静まり返った。
なるほど、と僕は舌を巻く。 副会長に正論という「ムチ」で殴らせておいて、自分は「アメ」を差し出す。しかも、教師の面子を守るという名目で、実利(予算)はきっちりと確保する。役割が逆だったら、うまくはいかないだろう。月島レイナの性質が生きてくる。可愛いは正義というやつだ。
完璧なマッチポンプ。あるいは、高度なソーシャル・エンジニアリング。
「……緊急措置か。そういう名目なら、会議を通せるかもしれん」
「ありがとうございます! さすが先生、頼りになります」
拍手のような空気。教師の機嫌が直る音が聞こえるようだ。
僕はイヤホンを耳にねじ込み、ノイズキャンセリングのスイッチを入れた。 フッ、と世界から音が消える。壁の向こうの政治劇も、彼女の鮮やかな手腕も、すべて遠い彼方の出来事になる。
怖いなと思う。昨日は腹の虫を鳴らして赤面していた女子高生が、今日は大人を手玉に取っている。あれが、彼女の生存戦略なのだろう。教師というバグだらけのシステムに対し、最適な「インターフェース」を演じて見せることで、エラーを回避する。
「おれには……関係ないな」
僕は独りごちて、再びペーパー掛けの作業に戻る。壁の向こうがどうあろうと、こっちの世界は平和だ。僕はただの観客ですらない。壁のシミのように、誰にも認識されず、ここで静かにプラスチックを磨いていればいい。
そう、この時の僕は本気でそう思っていたのだ。
その「地獄」のど真ん中に、最前線の兵士として放り込まれることになるとは、露ほども知らずに。
嫌な予感ほど、高い精度で的中する。マーフィーの法則だか何だか知らないが、この世界のバグとしか思えない理不尽な法則性によって、僕の平穏は脆くも崩れ去った。
「佐藤くん、ちょっといいかしら」
帰りのHRが終わった直後、担任に呼び止められた時点で、僕の脳内アラートは最大音量で鳴り響いていた。こんな風に呼び止められる時は碌な未来が待っていない。
「クラス委員の田中くんが早退してしまったの。今日の実行委員会、記録係が足りないんだけど、田中くんの代わりに出席してくれないかしら」
「……先生。僕は部外者ですが……」
「ただ座ってメモ取るだけよ。簡単な仕事でしょ? みんな高体連前で都合がつかないのよ。佐藤くんの部活はいまは忙しくないでしょ? 協力してくれないかな」
先生の言葉は丁寧な依頼だったが、そこには有無を言わせない強制力があった。おまえ、暇だろという思いが言外に溢れている。
先生は僕にバインダーと安っぽいボールペンを渡してきた。
頼んだわよと言い残して、先生は去っていった。
僕は天井を仰いだ。よりによって今日かよ。
昨日、壁越しに聞いたあの怒号飛び交う地獄。あそこに、今度は防音壁なしで、生身で放り込まれることになるなんて。
なんて日なんだ。
重い足取りで向かったその先は、特別棟の大会議室。生物準備室のすぐ隣だ。そのまま大会議室をスルーして、生物準備室に籠ってやろうか。いや、そうもいくまい。責任を放棄するのは僕の性分じゃない。やらなくていいことはやらない。でもやるべきことをやるのは、やりたいことをやるための必要なプロセスだ。
ドアを開けた瞬間、熱気が吹き付けてきた。
物理的な室温の話ではない。クラスの代表者たち、部活動の長たち、そして教師陣。数十人の人間が放つ「自意識」と「欲求」が充満し、換気扇の処理能力を超えて淀んでいる。
僕は息を止め、存在感を限りなくゼロにする「ステルスモード」を発動させて、最後列のパイプ椅子に滑り込んだ。
ここなら目立たない。ただの背景オブジェクトとして機能できるはずだ。
前方を見る。長机には、生徒会役員たちが並んでいる。その中央に、月島レイナがいた。背筋をピンと伸ばし、資料に目を落とす顔。制服の着こなし一分の隙もなく、先日、メロンパンの砂糖を指先から舐め取っていた女子高生と同一人物とは到底思えない。まるで工場出荷状態に戻されたかのような完璧な仕上がり。
(……よくやるよ。あれだけの高負荷環境で、エラーひとつ吐かずに稼働し続けるなんてな)
僕は呆れ半分、感心半分でバインダーを開いた。
会議は予想通り難航した。
文化祭の出し物を決める企画会議。各クラスから持ち寄られた妄想に近い希望的観測が、教師という現実の壁に次々と跳ね返されていく。
「だから、食品衛生法上、生クリームはダメだと言ってるだろ!」
「お化け屋敷の暗幕は防炎素材じゃないと許可できん!」
次々と却下される案。停滞する空気。生徒たちの顔に疲労と諦めが滲み始めた頃、一年生の男子生徒が手を挙げた。
「あの……中庭で『スカイランタン』を飛ばしたいんですけど」
ランタン飛ばし。最近の映画やアニメで人気の、幻想的なイベントだ。女子生徒たちがわぁっと色めき立つ。
だが、生活指導の権藤という教師が、露骨に顔をしかめた。
「ランタン? 火を使うのか? 危ないだろ、そんなもん」
「い、いえ! 火じゃなくて、LEDと風船を使った安全なやつです! 紐もつけて回収できるようにしますし……」
「ダメだダメだ」
権藤は手を振って、虫でも払うように言った。
「火を使わなくても、空に物を浮かべるなんて近隣の迷惑になる。もし紐が切れて電線に引っかかったらどうするんだ。誰が責任取るんだ」
「それは……気をつけてやれば……」
「それに、そんな大規模なことをやるなら、町内会への根回しや教育委員会への申請も必要になる。いまからじゃ間に合わん。却下」
取り付く島もない。
典型的な事なかれ主義だ。「危険だから」ではなく、「自分が面倒な手続きをしたくないから」禁止する。大人の汚い論理だ。大体文化祭の開催は一〇月で、いまは六月。どこがいまからじゃ間に合わないんだ?
提案した一年生は唇を噛み、泣きそうな顔で俯いた。会場の空気が、ずんと重くなる。
(……終わったな)
僕はペンを回しながら冷めた目で見ていた。権藤という「壁」は厚い。理屈じゃなく、感情と怠惰でできている壁だからこそ、突破するのは不可能に近い。
諦めろ。それが、この学校というシステムの中で生き残るための最適解というわけだ。
「――先生」
その重苦しい静寂を凛とした声が打った。
月島レイナだ。
彼女はマイクを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
教師に反抗するような鋭さはない。むしろ、教えを請う優等生のような、柔和で従順な微笑みを浮かべている。
「権藤先生のご懸念、ごもっともです。万が一にも近隣の方々にご迷惑をおかけするわけにはいきません。本校と地域の信頼関係は、何よりも大切ですから」
まずは肯定。相手のプライドを撫でる。権藤の表情が少し緩む。そうだろ、わかればいいんだという顔だ。
だが、そこからが彼女の本領発揮だった。
「ですので、先生にご心配をおかけしないよう、事前に確認して参りました」
彼女は手元の資料を一枚、すっと掲げた。同時に正面のホワイトボードにプロジェクタ―表示される。おそらく彼女の手にある資料と同一のものだ。
「今回の提案にあるLEDランタンの使用、および紐付きでの係留は、法的な『飛翔体』には該当しません。さらに、『学校行事協定書』の第4条をご確認いただけますでしょうか」
協定書? 権藤が怪訝な顔で手元の冊子をめくる。
「『校地内における高さ二十メートル以下の装飾、かつ午後八時までに終了するものに関しては、近隣協議会への事前報告を要しない軽微な行事とする』……とあります」
月島レイナは、まるで天気の話でもするように涼しい顔で続けた。
「つまり、この企画を通すにあたって、先生が新たに申請書を作成する必要も、町内会長さんの元へ頭を下げに行っていただく必要も、一切ございません」
その言葉が落ちた瞬間、権藤の動きが止まった。
彼女は、生徒の「やりたい」という感情をぶつけたのではない。教師の「面倒くさい」という本音を先回りして、その障害を完璧に取り除いてみせたのだ。
彼女は小首をかしげ、決定打となる一言を、あくまで優しく投げかけた。
「生徒たちの安全管理さえ徹底すれば、先生のお手を煩わせることなく実行可能かと思われますが……いかがでしょうか?」
逃げ場はない。「面倒だから」という最大の理由を封じられたいま、権藤に残された選択肢は一つしかなかった。
「……まあ、申請がいらないなら許可しよう。ただし、安全管理は徹底しろよ」
「ありがとうございます。先生のご配慮に感謝します」
月島レイナが深々と頭を下げる。
わぁっ! と会議室全体から歓声が上がった。一年生たちが目を輝かせて彼女を見ている。救世主を見る目だ。
優しい生徒会長、生徒の味方。
違う。最後列で一部始終を見ていた僕は、背筋が薄ら寒くなるのを感じていた。あれは「優しさ」なんて曖昧なものじゃない。 彼女が行なったのは、高度な「翻訳」だ。
生徒たちの「情熱」という扱いにくい生のデータを、教師たちが受け入れやすい「リスクゼロ」という規格に変換して出力したに過ぎない。
相手のスペックを瞬時に解析し、最も通りやすいプロトコルを選択して接続する。その手際の良さは、人間というよりは、やはり高性能な直列変換機のそれだった。
(……すごいな)
僕は感嘆する。
だが同時に、昨日の彼女の言葉を思い出していた。
――削っても削っても、中から汚いのが出てくる気がするんだよね。
これほどの完璧な演算を行い、笑顔という視覚的な操作画面で覆い隠したその内側で、彼女の中央演算処理装置はどれほどの熱を発しているのだろうか。
歓声の中、笑顔で手を振る彼女の姿が、僕には精巧に作られたホログラムのように見えた。
会議が終わり、張り詰めていた空気が弛緩する。生徒たちは三々五々に散らばり、解放感に浸りながら教室へ戻っていく。
僕はため息を一つつき、強張った肩を回した。
やっと終わった。一秒でも早く、あの埃っぽくも心安らぐ生物準備室へ帰還したい。
「おい佐藤、こっち来てハンコもらえ」
そんな僕のささやかな願いを遮るように、権藤の声が響く。
僕は舌打ちを噛み殺し、無表情の仮面を貼り直して、教卓のある前方へと足を向けた。
生徒会たちの席の周りでは、月島レイナが一年生たちに囲まれていた。
「先輩、すごかったです!」
「まさか許可が下りるなんて思いませんでした!」
興奮冷めやらぬ後輩たちの称賛を、彼女は柔らかな微笑みで受け止めている。
「ううん、みんなの熱意が伝わったからだよ。私は少し手伝っただけ」
謙虚で、完璧な生徒会長。
光り輝くその姿は、日陰者の僕とは住む世界が違う。
僕は彼女の背後を通り抜け、権藤から出席確認のハンコをもらう。
「ご苦労。まあ、少しは役に立ったぞ」
恩着せがましい言葉を適当に聞き流し、僕はきびすを返した。
その時だ。すぐ傍らに立っていた月島レイナの背中が視界に入った。
彼女はまだ、生徒たちに向かって笑顔を振りまいている。正面からは、理想的な聖女に見えているはずだ。
だが、僕の位置からは見えてしまった。後ろ手に組まれた、彼女の両手が。その指先は白く鬱血するほど強く強く互いを握りしめていた。爪が皮膚に食い込んでいる。そして、小刻みに震えていた。
僕は一瞬、足を止めた。周囲の雑音が遠のく。生徒たちの歓声も、教師の満足げな笑い声も消え、その震える指先だけがクローズアップされる。
(……ああ、なるほど)
すべての辻褄が合った気がした。
昨日の、壁越しに聞こえたあのカオス。大人たちの理不尽な怒号。彼女はそれを一身に浴び、そのノイズを体内で濾過し、再構築して、今日の完璧な論理を作り上げたのだ。
涼しい顔をしているが、中身はギリギリの回転数で回していたわけだ。
あれは、恐怖による震えか。それとも、膨大な演算処理によって発生した熱暴走を抑え込むための、必死の制御か。
どちらにせよ、人間離れした出力には、相応の代償がかかるということか。
彼女が背後の気配に気づいたのか、組んでいた指をパッと解いた。
僕は見ていないふりをして、そのまま通り過ぎる。
彼女と視線を合わせることはない。言葉も交わさない。
いまの僕たちは、ただのクラスメイトですらない。偶然そこに居合わせただけの他人同士だ。
廊下に出ると、生暖かい風が頬を撫でた。
生物準備室へと廊下を歩きながら、僕はぼんやりと考える。
彼女はまた、来るだろうか。
昨日の今日だ。あの高負荷な処理を終えて、冷却期間を必要としているはずだ。あの静寂な空間を求めて、また迷い込んでくる可能性は高い。
(……腹も、減るだろうな)
あれだけ脳みそを使えば、糖分がいくらあっても足りないはずだ。
僕はポケットの中の小銭を探った。
明日の朝、コンビニに寄る手間をシミュレーションする。チョコがいいか。それとも、もっと直接的なブドウ糖の塊のようなラムネがいいか。
誤解しないでほしいが、これは優しさではない。
あんな風にガタガタと震える不安定な精密機械が、僕の聖域で故障して動かなくなられては迷惑なのだ。お菓子はうるさい腹の虫を黙らせ、円滑に稼働させるための、ただのメンテナンス用の「潤滑油」だ。
僕はそう自分に言い訳をして、少し早足に準備室へと戻った。
遠くで低い雷鳴が轟いている。梅雨入り前の、重たくて湿った季節が、すぐそこまで迫っていた。




