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恋せよ、少年少女(8)

恋せよ、少年少女 (8)



 奥へと続く青は深く濃く、まるで引きずり込まれそうな錯覚さえ起こす。こぽん…と響く水音は、籠もったようにその深みに吸い込まれていく。

 薄暗い館内で、淡い蛍光灯に頬を照らしながら、彼女はじっと水槽の中を泳ぐ魚の群れを眺めていた。館内で一番大きな水槽で、様々な魚がその中を悠々と泳いでいる。少女の唇が僅かに動いて、何事かを呟いた。しかしそれを見咎める者はいない。それを見とれないほどの距離で、彼女についてひそひそと言葉を交わす高校生の一群があった。


「おい、あの子可愛くねえ?」

「声かけっか?」

「お前が行けよ~」


 どうやら、中埜高校の生徒ではないようだ。水槽の間に一人佇む少女──橋谷春賀を、ナンパしようと企んでいるらしい。互いに肘で小突き合い……ようやく一人の少年が足を踏み出した時。


「──春賀」

「……あら、玲」


 すらりと背が高く、端麗な容姿をした少年が春賀へと親しげに声をかけながら近づいていった。春賀は顔をあげ、相手の姿を認めるとにっこり笑う。

 それを見て、男子の一群は残念そうにその場を去っていく。春賀に近づいた少年──澤田玲は、それを視線の端に止めた後、彼女の隣に並んだ。


「一人で回っているのかい?」

「あたし、どうも集団行動って苦手で。自分の好きなとこでずっと立ち止まっちゃうから、他の人にメイワクかけちゃうもの」


 いたずらっぽく舌を出す春賀に、玲は肩を竦め笑う。


「殊勝な心がけだね。でも用心はした方がいい。今日は他校生もいるみたいだからね」

「──あら」


 玲の言葉に思い当たる事項があるようで、春賀は嬉しそうににっこりとする。


「上手にあしらえる自信はあるわよ?」

「だろうとは思うけど。トラブルは起こらないに越したことはないよ」

「ふふ、言う相手を間違えてるんじゃない?」

「──かもしれないな」


 そう言いつつも、玲はそのまま春賀の隣から動かない。春賀は彼から視線を外すと、再び水槽の中を見詰めた。


「……ここが気に入った?」

「うん。……たくさん魚がいて、賑やか」


 ぽつりと呟く春賀の感想を、彼女らしい、と玲は感じる。


「少々不自然にも思えるけどね。本来、こんな狭い場所で共生する生き物ばかりでもないんじゃないかな」

「魚の気持ちになったらそうかもしれないわね。──でも」


 春賀は言葉を一旦切り、瞼を伏せた。長い睫毛が頬に濃い影をつくる。


「あたしが魚なら、この中でしか生きられないわ」

「……だろうね」


 穏やかに微笑み返した玲に、春賀は嬉しそうな笑顔を見せた。そうして、気持ちを切り替えるように一度軽く頭を振る。


「──さて、ちょっと回ろうかな。まだ時間あったよね。ご一緒してくださる?」

「どうぞ、お気に召すがままに」


 芝居がかったやり取りの後、春賀はころころと楽しそうに笑う。


「ふふっ、生徒会長をボディーガード代わりに使うなんて、あたしだけよね」

「ボディーガードが必要になる女の子が、そうそういないってことだろうね」

「……それは……好意的に解釈していいのかしら? それともちょっと怒ったほうがいいのかしら?」


 好意的に訳すなら春賀のことを褒めているわけで、ひねくれて訳すのなら、春賀の奔放さを揶揄したことになる。上目遣いの問い詰めるような視線に、玲は飄々とした笑みを見せた。


「──君の好きなように」

「相変わらず、意地悪ね」


 ぷくっと頬を膨らませた春賀は、次の瞬間にはもう、何事もなかったような顔で歩き始めた。その隣に並ぶ玲もまた、一定の距離を保つように、彼女について行く。

 人が見れば違和感のない距離。

 しかし、当人たちには絶対犯せない聖域──。

   



「あ、橋谷さんだ」


 楠田尚志の言葉に、のっそりと動く巨大な亀の様子を興味深げに眺めていた坂木奈津は顔を上げた。

 尚志の視線の先に、二人の会話を楽しみながら館内を歩く姿がある。春賀が動くと長いストレートの髪が軽やかに揺れて、表情豊かにくるくる動く瞳と相まって本当に可憐な美少女に見えた。隣を歩く玲も負けず劣らずの端麗な容姿であり、その落ち着いた雰囲気が彼を大人びたように見せ、お似合いの二人、その単語がしっくり来る二人連れもこうもあるまいな、と思わせるような構図である。


「さっき大型水槽の前でずーっと立ち止まってたけど、良かったねえ。ようやく動いたんだ」

「澤田が来たんで動く気になったんだろう。あの子は砂鉄だから」

「砂鉄?」

「そう、それであの子以外の人間は磁石」

「うーんと……」


 奈津の言葉を受けて想像した尚志は、少しの間の後、けらけらと明るく笑い出した。


「いい例えだねえ、それって」

「伊達に近しい存在やってないさ」

「高校に入ってからの仲なのに、本当に仲がいいよね、なっちゃん達って」

「ん? そうだな。悪くはないよな」

「やっぱり女の子同士だからかなあ」


 のほほんと言う尚志と奈津は同じ中学出身であるが、春賀と奈津は高校一年の時、同じクラスになってからの仲である。入学して一週間経った頃、突然「ねえ、部活もう決めた?」と奈津に話しかけてきたのが春賀だった。何だこの女は……、と奈津が警戒する隙も与えぬほどに喋り立て、強引に部室に引っ張って行き、下校時刻までお喋りに付き合わされること二時間半……。すっかり意気投合して、今や一番親しい間柄。

 春賀は言う。『だって、自分をしっかり持っていそうで、憧れたんだもん。絶対仲良くなりたかったんだもん』と。

 女友達など煩わしい、そう思っていた奈津の壁を易々と切り崩し、春賀は近づいてきた。その天真爛漫さに呆れもするし、今じゃ尊敬もする。

 春賀たちが近づいてくる前に奈津が歩き始めると、尚志は黙って隣に並ぶ。

 天然かと思いきや思慮深く、余計なことは何も言わないこの恋人を、奈津はずっと大切にしていた。


「……一度、妬いてくれたよな」

「え?」

「一年の冬。あの子が駄目になりかけて、私がずっと傍にいて、尚志を放っておいた時期があったろう」

「あー……」


 思い出したのか、尚志は照れ笑いをして頭をかいた。


「……気付いてたんだ、なっちゃん」

「分からいでか。それにあの時私は悟ったんだ。トラブルメーカーの言葉の意味をね。波風立たなかった私達の仲まで予想もしなかった方へ流してくれる──本当、イイ性格をしてるじゃないか、あの子は」


 腕組みをして呆れた溜息混じりにそんなことを言う。尚志はそんな奈津の横顔を見てくすくすと笑う。


「良くも悪くも、影響力強い人だよね」

「なかなか好意的な解釈をするんだな」

「そりゃあ……橋谷さんと知り合ってから柔らかくなったもん、なっちゃんの表情」

「─────」

「ね?」


 にっこりと笑う尚志にすぐに言い返す言葉が見つからず、奈津はゆっくりと掌で自分の口元を覆った。──口元が、思わず緩んでしまいそうだったので。



  続く

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