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恋せよ、少年少女(24)

恋せよ、少年少女 (24)



 とすん、と音を立て、幕が下りきる。

 実行委員のアナウンスが流れる観客席。その賑やかさとは裏腹に、ステージの中は異様な雰囲気に包まれていた。

 ──キスは一瞬だった。しかし、誰の目にもそれは見間違えようもなく、はっきりと焼きついてしまっている。いや、観客席の人間が見えたタイミングかどうかは分からない。ただ、袖からラストを見守っていたクラスメイトが目撃者だ。

 表情を固まらせたままの春賀、その手を握ったまま、中山は立ち上がる。

 ひそひそと囁きあう背後の気配を嗅ぎ取った春賀は、マズイ、と危険を察知した。

 こんなの──こんなのは、困る。こんな展開は、絶対困る。


「──橋谷さん、俺……」

「やーっだ、ごめんっ! あたし、すっごいヨロけちゃったっけ~! やっぱダメねぇ、ピンヒールって慣れないわ~」


 中山の言葉を遮り、春賀はそう言ってからからと笑った。


「しかも、もしかして口くっつかなかった? 折角支えてくれた人に、あたしってばなんて失礼な女なのかしら。ほんとゴメンね?」


 目の前に片手を掲げ、片目ウインクをしながら茶目っ気たっぷりに謝る春賀。キスをしたその事実をあっさりとバラし。

 しかし、春賀の言葉に周囲は安心した。何だ──そういうことだったのかと、春賀の軽いノリに付き合うようににやにや笑いながら二人の傍に寄ってくる。


「よっ、お疲れさん!」

「何だよ~、お前一人イイ目見やがって」


 男子に肘で小突かれて、中山は春賀を見る。しかし春賀は意味を持たせぬようなタイミングでするりと彼から視線を外し、衣装係の女子に向かって足を突き出し靴を指先ながら話しかけた。


「ねえ、もうコレ脱いでいい? あと、化粧落としたいから、水道行ってくるね」

「脱いでもいいけど、上靴、教室だよ?」

「んー、いい。裸足で平気」


 相手の言葉など聞き入れず、さっさと靴を脱ぎ捨てる春賀。それを丁寧に渡しはしたが、衣装の裾をひらめかせすたすたと袖へ向かって歩いていく。しかし、途中会う人ごと会う人ごとに「お疲れ!」と声をかけるものだから、その姿は余裕があるようにみなの目に映っていた。

 中山も、春賀の態度を見てがっくりと首をうなだれていた。


「橋谷さんてさー……ノリ軽いから楽しいけど、やっぱちょっと軽い?」


 ステージから離れた場所でその様子を眺めていた女子らが、こそっと言葉を交し合う。


「……あの噂、本当だったりして」

「何? 噂って」

「知らないの? 結構有名だよ?」

「そうそう、橋谷さんって生徒会長の澤田くんと付き合ってたぽかったじゃん? それが別れた原因が──」

「──橋谷さんの浮気だって」

   



 ──ザァアッ!

 体育館裏の人気のない水道で、思い切り蛇口を捻って水を出した。コンクリートに跳ねる水飛沫。手にしていたミニサイズの化粧落としとタオルを濡れない場所に置くと、何を思ったか春賀は、勢いよく噴射されている水の中に頭を突っ込んだ。


「──ッ! つめたぁ──……」


 水飛沫は頭皮から髪の流れを伝って、首筋や背中に流れていく。

 願ったように──顔を濡らしてはくれない。


「……もうッ……何でこーゆー時はうまくいかないのよっ……」


 思わず苛立ったように吐き捨てる唇。その横……頬に、幾筋もの水の軌跡が生まれていた。


「……っ……」


 しかし次の瞬間春賀は自分の両手にすくった水を顔にかけ、その軌跡を壊してしまう。

 そうやって、消せたはずだった。

 それなのに、再びそれは溢れ出す。伏せた睫毛から熱いものが吹き出して、とめどなく春賀の頬を濡らしていった。


 ──止まらない、涙が。


 春賀は手の甲でごしごしと唇をこすった。肌にすれたように残る真紅の痕。悔しくて何度も拭った。唇がひりひりとした痛みを訴えるまで。


(……見られた、かもしれない)


 その想いが、春賀自身にも不可解な涙を溢れさせる。

 どうしてこんなに苦しいのか。どうしてこんなに腹立たしいのか。混乱はひとつの恐怖に立ち返っていく。


(──瑞貴に見られたかもしれない……)


 今更、知られてなかったなんて思わないけど。想像されているのと、実際に見られるのとでは違う。

 奈津は全て知ってる。だから大丈夫。きっと今頃呆れてる。「自業自得だ、自分で蒔いた種だろう?」と冷たく言いながら、春賀の背中をぽんぽんと優しく叩いてくれるだろう。

 けれど──瑞貴は、知らない。

 この体が、どれだけの人間に、どういうふうに好きにされたかなんて──

 キスくらい、今更なんだって──


「……ッ!」


 人の気配に、春賀は振り返った。

 瞳を見開き、ひきつらせた顔が、一人の少年の姿を捉える。──それは。


「……幸輔、くん……」


 全力疾走でもしてきたのか、幸輔は恐ろしい形相で、忙しなく肩で呼吸していた。春賀の姿を認めると、苦しそうに顔を歪める。


「……ッ、…どう、してッ……、どうして、泣いて、んですかっ……?」

「え……?」

「泣く、くらいならっ……、何であんな芝居……!」


 幸輔の言いたいことを汲み取って、春賀はぼんやりと思う。──どうして彼が怒りにくるんだろう? ──いや、違う、今考えなきゃいけないのはそこじゃない。そうじゃなくて……ああ、そうだ、笑わなきゃ。いつも通りの笑顔に戻らなくっちゃ。


「──やぁだ、幸輔くんとこからバッチリ見えちゃった? あれ。やる直前までどーしよっかーってみんなで相談してたのよね。ほら、ウケは狙えそうだけど、ばっちりやっちゃうのは先生の前だし、ヤバいかな? とか思ってさ」


 くすくすと笑い出した春賀は、タオルで自分の顔を拭く。そこにべっとりついたマスカラに気づき、自分の目尻を指で拭った。すると、指先にも残るアイライナーの黒。


「──ねえ、もしかしてあたし、今ものすごい顔してない?」


 化粧をしっかり落とさずに水で濡らせば、どうなるか想像は容易にできる。

 瞳をくるんと動かし悪戯っぽい表情をする春賀を苦々しく見つめた幸輔だったが、すぐに一歩、春賀に向かい足を踏み出す。

 春賀は動かない。幸輔もそれ以上距離は縮めずに、深く深呼吸して、きっと彼女を見据えた。


「──俺、春賀さんが好きです。最初に見た時から好きでした」

「うん」


 あっさりと、春賀はにこにこした笑顔で頷く。


「あたしも好きよ?」

「……っ、そうじゃなくて、特別な意味ってことです! 俺は、真剣に春賀さんが好きなんです!」

「うん、あたしにとって幸輔くんも特別よ? だって、大事な大事な寄合部の部員だもの」


 そう言って春賀はくるりと背を向けると、捻りっぱなしだった蛇口を少ししめる。ちょうどよい水量にしてから、メイク落としを掌に出して泡立てると、顔を洗いはじめる。

 幸輔はその背に向かい、挫けることなく、なおも熱っぽい視線で告げる。


「春賀さんが好きです。お願いです、俺と付き合ってください。ふざけないで、ちゃんと考えてください。──清風祭、終わるまでに、返事、聞きに来ます」

「は~い。また、午後ね。部活の方に顔出すから~」


 聞いているのか聞いていないのか分からない様子の春賀に苦しそうな表情をして、それでも幸輔はその場を立ち去っていった。

 人気のなくなった水道場、ぱしゃ、ぱしゃ…と泡を洗い流す音だけが無心に響く。


「……………」


 ぱしゃん。

 アイラインの縁取りを失った素の瞳の彼女は、ただ静かに、水が流れるのを見つめていた。

 唇を引き締め、真剣な眼差しで。

   



 その頃。

 一、二年生は教室に戻り昼食の時間になっていた。三年生はどたばたと慌しく片づけをしている。

 演劇の投票用紙の開票作業を急ピッチで進めている生徒会室では、作業中特有の張り詰めた沈黙が流れていた。実行委員と生徒会役員が協力し、最低限の言葉だけで自分に与えられた分を手早く集計していく。

 しかし──この空気の張り詰めようは、忙しさのせいだけではないと、澤田繭子は感じていた。

 劇の上映が終わってからというもの、兄のあの神経の尖らせ方は何だというのだろう。それが他の役員にも伝染して息苦しさを生み出している。

 橋谷春賀のあの女王様ルックが、よほど気に入らなかったのか気に入ったのか──そんなふざけたことを脳の片隅でチラリと考え、繭子は心の中で溜息をついた。


「会長、実行委員長が呼んでんですけど。体育館に来てくれって」


 トントンと生徒会室のドアがノックされ、顔を覗かせる実行委員。頷きで応答した澤田玲は、キリのいいところまで集計を進める。それから、みなの邪魔にならないように静かに立ち上がると、生徒会室を後にした。

 さきほど呼びにきた実行委員は忙しそうに先に戻っていたので、玲も足早に体育館に向かう。その背中を、ぱたぱたと軽い足音が追ってきて、追いつく前に彼の名を呼んだ。


「──お兄ちゃん!」

「どうした、繭?」

「どーした繭、じゃないよ! お兄ちゃんこそどうしたの?」

「?」


 首を傾げる兄を、きつい目つきで見上げる繭子。


「だってお兄ちゃん変だよ。なんか、空気がピリピリしてる。さっきの劇で何か嫌なシーンがあった?」

「─────」


 繭子の指摘に言葉をなくす玲。珍しく驚いたような顔をした玲は、少し思考する素振りを見せてから、静かに妹に問いかけた。


「──繭は、見なかったのかい?」

「? 何を?」

「いや──」


 見なかったならいい、と独り言ちて、再び体育館へと歩き出そうとする玲。


「お兄ちゃん!」


 焦れたように苛立ったように声を上げた繭子に、玲はにっこりと笑って振り返った。


「──ねえ、繭。午後、もしかしたら俺はちょっと雲隠れするかもしれないから。あとのことは副会長に頼んだよ、って伝えておいてくれるかい?」

「え? ちょっとお兄ちゃん、何言って──」

「もしかしたら、だから」


 内緒話をするかのように唇の前で指を立て、悪戯っぽく微笑んだ兄は、そのまますたすたと歩き去ってしまう。その背を呆然と見送り、繭子は困ったように呟いた。



  続く

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