恋せよ、少年少女(22)
恋せよ、少年少女 (22)
瞬く間に日々はすぎ、ついに清風祭の前日が訪れた。
午前中から各クラス、各部活ともに準備を始め、校内は一層慌しい雰囲気に包まれる。舞台でのリハーサルを終えた春賀は、数時間の自由時間を獲得し、嬉々とした様子で会場の教室に向かっていた。
理科室の前で、試験管を抱えた化学部員とすれ違う。生物室を覗くと、ハムスターやカメがいるのが見えた。昇降口で、大きな水槽を運び込む二年生がいる。どうやら、金魚すくいをやるらしい。去年は水槽が割れて水が漏れて…なんてハプニングもあったなあ、と思い出しながら、春賀は準備の様子を楽しく眺めながら歩く。
「あっ、安西先生~」
「おお、橋谷か。ちょうど良かった、ちょっと寄ってけ」
廊下の向こうから寄合部の顧問が来るのが見えて駆け寄っていくと、安西教諭はそう言って春賀を国語科教官室に連れていく。階段を上りながら彼は、そういえば、と思い出したように春賀ににこにこと笑いかけた。
「おまえ、主役やるんだって?」
「やだ、先生も知ってらっしゃるんですか? ええ…お恥ずかしながら」
「美人で見栄えのする主役でいいじゃないか」
「ふふっ、ありがとうございます」
教官室に辿り着くと、冷蔵庫からジュースの缶が無造作に入ったビニール袋を彼は取り出した。
「ひい、ふう、みい…、橋谷、部員は全部で何人だったかな」
「ええと、七人ですね」
「よし、足りるな。これ持ってけ。景気づけだ」
「わっ、先生太っ腹! 嬉しい~! みんな喜びますよ!」
ビニール袋を受け取り、心底嬉しそうにはしゃぐ春賀を見、安西教諭は穏やかに目を細める。
そして、静かな口調で言った。
「──どうだ最近、調子はいいか?」
「ぼちぼち、ですね。ここ一ヶ月はやっぱり忙しくて、それどころじゃないけど。……その節は、ご心配をおかけしました」
「いや、なに」
軽く手を振って、気にするな、と彼は笑う。安西教諭は、去年の春賀の担任であった。
去年、彼に一番お世話になったのは自分だろうなあ、と春賀は思う。夏が明け、それまで上位を保っていたはずのテストの成績が、一気にがた落ちした。冬間近の中間テストで、半分の教科について白紙答案を出した春賀をこの教官室に呼び、色々な話に付き合ってくれようとしたのだ。自分の身に起こった出来事など話せようになかったものの、ぽつりぽつりと零れていく苦悩の吐露に、一生懸命自分の言葉で付き合ってくれた。
「一度関わっちまったからなあ。孫のようで、気になるんだよ」
「孫? 娘じゃだめですか?」
おかしそうに笑う春賀に、安西教諭は生真面目に頷く。
「父親の気持ちになったら、おまえも、おまえに影響を与えたやつも、二、三発殴りたくなっちまうからな。爺さんくらいでちょうどいいんだ」
この返答に春賀は声をたてて笑った。笑った後……少し神妙な顔をして、上目遣いに安西教諭を見る。
「──先生。怖くて流されちゃうのは、心が弱い証拠になるのかな?」
「恐怖なんてそうそう簡単に消えやしないさ。ただ、人間は鈍感になれるんだ。ごまかしもうまくなっていく。まだおまえは純粋なんだよ。色んなことに過敏に反応してるだけだ。それは心の弱さとは違うだろ」
「絶対違う?」
「ああ、絶対」
きっぱりはっきり断言してみせた教諭に、春賀は安堵の笑みを見せた。
「ありがと、センセ。もうちょっと頑張ってみます」
「──橋谷」
教官室のドアノブに手をかけた春賀の背中に、安西教諭は静かに声をかける。
「嫌だったら嫌だって言っていいんだ。相手の顔色窺っておまえが無理する必要ないんだ。おまえの恐怖ごと受け入れてくれる人間は、ちゃんとおまえの周りにいるだろう?」
「────。──ハイ」
数秒の沈黙の後、春賀は振り返って、にっこりと笑った。
笑った後、目尻に滲んでしまった涙を指で拭って、教官室を後にする。敵わないなあ、と心の中で呟いて。
けれど、見透かされて受け止められているという安心感は、得がたく離し難いものだと……しみじみと感じたのであった。
寄合部発表会場に行くと、着々と準備が進めれられている最中であった。
差し入れのジュースでみな一息をつく。久々にゆっくりしている様子の春賀に、円や久美子があれやこれやと、創意工夫を凝らした展示品を見せた。
「わ~、可愛いお手玉ねえ。音もするし」
「それ、円のお手製なんですよ」
久美子の言葉に、春賀はびっくりして円を見る。
「すごいじゃない! 円、器用なのね。こんなもの作っちゃうなんて、すごい!」
「ありがとうございます~。あ、春賀さん、それでこっちはね……」
昔懐かしい遊び道具の数々で、異様な盛り上がりを見せている女性陣。
それを眺める男性陣の胸には、三者三様の想いが渦巻いていた。
文化祭中に告白すると、親友に宣言をしてみせた幸輔。
あれから、色々なシミュレーションをした。どんな場所で、どんなタイミングで、どんな言葉で想いを告げようか。二人きりになれる時間は、どうやって作るのか。もういっそ、手紙なりメモなりでどこかに呼び出そうか。そんなとりとめのないことを。
相も変わらず綺麗な横顔を眺める。それだけで心臓がきゅっと締め付けられる想いを覚えた。その笑顔を独り占めしたい──フられることなど微塵も想像せず、ただただ自分の想いに手一杯な少年は、ぐるぐるとせわしなく思考と妄想を巡らせている。
瑞貴は春賀の顔色を見、上っ面だけでなく大分機嫌がいいようだと感じていた。この差し入れも、安西先生からの、と言っていたし、何か話でもしてきてすっきりしたんだろう。去年、夏が過ぎてから急に元気をなくした春賀は、秋を過ごし、冬も半ばを過ぎた頃、立ち直る兆しを見せてきたその途中で言ったことがある。「安西先生と、奈津がいなかったら、あたしは元気になれなかったなあ。──あ、あと瑞貴もね」……冗談は星の数ほど言えど、嘘はつけない人であることは分かっている。安西教諭が春賀にやけに甘いのも、彼女に関わった結果だと容易に推察できた。
機嫌がいいのは良いことだ──実害は、確実に減る。
そんなことを考えていた瑞貴の目の前、憲二がすっと動いた。
春賀が傍の机に置いていた缶ジュースは、端の方に置きすぎていて、何かがぶつかればすぐ零れてしまいそうな不安定さだった。おはじき飛ばしで盛り上がり、時には体全身を揺らして笑っている少女が、いつその机にぶつかるか分からない。瑞貴にも、すぐに憲二が動いた理由が分かって、ぼーっとその動作を見ていた。
憲二は机の上の缶ジュースを取った。そしてそれを──コツン、と春賀の後頭部に当てる。
「……?」
「こんな危ないトコに置いてないでくださいよ、コレ」
「あー、ごめんごめんっ」
後頭部への刺激に振り返り、悪びれず軽い口調の謝罪を口にする春賀。
思わず瑞貴は目を瞠る──妙に思ったのは、自分だけではあるまい。それから何事もなく他の位置に缶を置いた憲二が、らしくない、ことを。あんなに嫌悪感を前面に押し出していたはずなのに、気遣いは出来る人間だろうとは思ってはいたが、それが春賀に発動されたことはなかったのに。
何なんだろう、今の優しさは。
そして必要のないちょっかいは。
すぐに瑞貴は答らしきものを見つける。憲二に缶をぶつけられた後、何事もなかったように遊びに戻る前の一瞬──彼女は、自分だけに分かるような、困ったような表情を垣間見せた。本当に僅かな一瞬だ。ただの無表情ともいえない顔つきだった。すぐに笑顔に隠されたその一瞬を何度も反芻し、瑞貴は心の中で思い切り顔をしかめる。
──何を、しでかしたんだ、あの人は。
いや、問うまでもなく、やらかしたんだろう。今まで険悪だった人間が急に好意を見せるようなことを。自分で、心底望んだわけではないのに、調子よく合わせたんだろう。
呆れると同時に生まれた感情は、彼女に苛つく気持ち。
瑞貴は静かに席を立ち、トイレにでも行くような自然さで教室を出ていった。あの場所に、もう一秒でもいたくなかった。
どこに行こうか。どこで時間を潰そうか。部室には何となく行きたくない。彼の足は自然とあの避難場所へと向かっていた。階段上の踊り場に。
「……瑞貴っ!」
そこに腰を下ろして数分もしないうちに、賑やかな足音とともに、くだんの人物が現れる。
……それまで、瑞貴の心はささくれ立ち、荒れていた。顔を見たら、思い切り拒絶しそうだ、と感じていた。のにも関わらず、春賀の必死な顔を見た途端、急に気持ちが萎んでいく。
今、必死な顔をしているこの人をこれ以上苦しませるのは、可哀想な気がした。
「どうしました?」
「……だって、急にいなくなるから。どうして?」
どうして? とあなたが問うのか、と心の中で言い返す。しかしその気持ちを顔には出さないで、肩を竦めるだけにした。すると春賀は少し唸って、すとんと瑞貴の横に腰を下ろす。
するっと瑞貴の腕に腕を絡ませ、体を凭れかせさせて。いつもの二人の距離と姿勢だ。
「……何も聞かないのね」
瑞貴の肩に額をつけて、春賀が囁く。
「聞いてほしかったんですか?」
言ってから、瑞貴はちょっと考えて言い直す。
「俺が聞かなくても、あなたは何でも話してくれていましたから」
「でもあたし、瑞貴にいっぱい隠し事、してるわよ」
「俺はそうは感じませんけど」
さらりと瑞貴は言い返した。それは、本心に近い。
「知りたければ足りないと思うでしょうが、俺はそこまで他人に興味がある人間でもないようですからね。それに、当人が話したくないようなことまで無理矢理聞き出して『相手を知っている』なんていうのは、傲慢な気がするし。見せてくれる部分だけ信じているだけじゃ、いけませんか?」
「……瑞貴、そんなこと考えてたの?」
驚いたように見上げてくる春賀に、瑞貴は無表情に「いえ」と首を振る。
「今、即興で」
「……何それ」
瑞貴の返答がお気に召したようで、春賀はけたけたと笑う。笑いが収まった後、瑞貴の手をもてあそびながら、春賀は呟いた。
「安心する」
その、理由は。
「奈津も、瑞貴も、安西先生も。──あたしになーんにも求めないから、安心する」
そう言って、静かな横顔に、うっすらと微笑を刷いた。
続く




