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恋せよ、少年少女(19)

恋せよ、少年少女 (19)



 夕暮れや薄闇へと姿を変えていく。

 明かりがなければ手元の文面を追うことすら辛くなってきた室内で、澤田玲は一人、思惟に耽っていた。

 手元の書類に集中しなければいけない。考えなければいけないことがたくさんある。しかし、意識は散漫に広がり、ねばならない事項を済ませることを妨げた。

 生徒会室には今、彼がいるのみである。実行委員は美術部との入場門作りに借り出されていて、今日はもう戻ってくる予定はなかったし、他の役員は既に帰途に着いた。今日は遅くなるからと、妹の繭子も先に友人らと帰宅させている。

 暗い室内からは、隣接した教室棟の様子がよく見えた。

 煌々と灯る廊下灯。そこを慌しく駆けていく生徒たち。みな、ふざけあったりはしゃぎまわったりと、楽しそうだ。我知らず目元を細めていた玲は、そこに一人の少女の姿を認める。


(……春賀)


 思わず心の内で名前を呼んでいた。

 長い髪を揺らしながら早足に廊下を移動していた少女は、ふと、前方に何かを見つけたのか、動きを止める。かと思ったら、途端に駆け出していった。駆け出したその先にいたのは、衛藤、と言ったか、部活の後輩だ。動きを止めた少年の腕に飛びつくように絡まりつき、快活な笑顔を見せている。

 とても……そう、とても幸せそうな笑顔だった。

 彼が見なくなって久しい、彼女の心からの笑顔だ。

 ──そこまで考えて、玲は思わず自嘲した。彼女を笑わせられなくなったのは、自分のせいだというのに。随分女々しい発想をしてしまうものだと。


「……帰ろう。今日はもう駄目だ」


 暗闇に、一人口に出してみる。何もかも割り切ったような口調が、やけに寒々しく響くことを、知ってはいたけれども。

 いつも通り施錠を確認し、階段を降りていく。生徒会室がある棟は一年生の教室と特別教室が主なため、残っている生徒は皆無だった。静かな階段に自分一人の足音が響いて、消えていく。

 しかし。

 一階に降りる最後の階段で、段差の最後に腰掛けて膝の上に参考書を開き、廊下の灯りを頼りにシャーペンを走らせている、かつてのクラスメイトを見つけた。


「……坂木さん?」


 ゆっくりとした歩調を保ちながら数段上から声をかけると、彼女は彼を振り仰いだ。


「ああ、久しいな、澤田」


 相変わらずの妙に男くさい口調で、彼女──坂木奈津は僅かに目元を緩めた。

   



 「隣、いい?」と言って腰を下ろしてきた彼に、奈津は特に異存もなく頷いた。知らぬ仲でもない。一年間、一緒のクラスだった人間である。奈津のほうに特に用事はなかったけれども、尚志を待つ十数分間、誰かと時を過ごすことはやぶさかではなかった。


「楠田を待っているのかい?」

「……愚問だな」

「だったね、失言だ。──相変わらず仲が良いいんだね」


 ぺらりと頁をめくった手を一瞬止め、奈津は玲の横顔を静かに見つめる。


「相変わらずだ。私も、尚志も。──あの子も」

「……………」


 奈津の答に唇を軽く結んだ玲であったが、すぐにその後、「ああ……」と合点がいったように呟いた。


「君は……知っているんだね」

「──女同士だからね、伝わることは、ある」

「そうだね……それでなくても春賀は、気を許した相手にはとことん自分を曝け出して、甘えるからね」


 そう言った後、宙を見つめたまま、玲はその薄い唇に自嘲の笑みを刷く。


「俺にはもう……無理そうだけど」




「随分、未練がましい愚痴を吐くじゃないか」

「未練がないと思うかい?」

「聞く限りではあっさりした別れ方だったらしいが」


 自分の言葉が相手の脳に落ちぬうちに、奈津は、「いや」と訂正を入れる。


「正確には、別れ、とは称せないものだったようだが」

「一応、間違ってはないと思うけどね。そこの認識のズレはないわけだ」

「他の認識のズレがあると?」


 眼鏡の縁に指で触れ、奈津は鋭い視線で玲の横顔を射抜く。それを敢えてちらりと見ることで真っ向から受け取った後、顔色も表情も変えることなく、飄々とした様子で彼は微笑んだ。


「──どうだろうね?」

「……澤田は一体、私をつかまえて何をしたいんだ? 言葉遊びがしたいのか? 昔話をしたいのか?」


 相変わらずの言葉遊びに僅かな苛立ちを覗かせるように、奈津は矢継ぎ早に質問を浴びせかける。同級生の気安さや、元クラスメイトの気楽さも彼女の感情の吐露の一因になっていただろう。しかし、彼女にはもっと他の理由があった。

 奈津には玲を詰る気持ちがある。春賀をあそこまで追い詰めたのは一体誰だと。

 玲は、軽く肩を竦め、やはり穏やかな横顔で唇を開く。


「そうだね……ただ、確認をしたかったのかもしれない。春賀が今、幸せなのか、って」

「……澤田」


 眼鏡の奥の目を僅かに瞠らせて、奈津は驚きを隠せない表情で問い返す。


「……あの子のことを、まだ好きなのか?」

「直球だなあ」


 玲はそう言って苦笑した。しかしそこに、一切の否定の匂いはしない。


「──好きだよ」


 さらりと告げられた台詞に、奈津は前後の文脈のつながりを一瞬見失いかける。それが、自分の「好きなのか」という問いに対する答だと、半秒遅れて気づく。


「始まりから終わりまで…勿論、あの日々が過去になりそうな今だって、気持ちが揺らぐわけじゃない。俺にとって春賀は初めて恋をした人で、春賀にとってもそうだった。幼すぎたやり方を、間違えなかったらと悔やむ時は数え切れないよ」

「……だが、諦めるつもりなんだろう?」

「そうすることで、春賀が笑っていられるのならね」

「…………?」


 てっきり、二人の関係に終止符は打たれているものと感じていた。ただ、互いに違う次元で引きずっているだけなのだと。しかし、玲の口にする春賀の名前には、今現在も溢れ出る愛しさ…のようなものが感じられて、奈津は眉をひそめる。


「触れると──笑顔が、一瞬で曇るんだ」


 軽く広げた自分の掌に視線を落とし、玲は言う。


「それまで笑っていたのに、抱きしめようと手を伸ばすだけで怯えたような顔をする。抱きしめて大丈夫だよと囁いても、体の強張りが解けないんだ。嫌われてるかと思うだろう? けど、泣きそうな瞳で縋りついてきて、何度も好きだと訴えてくるんだよ。俺は結局、自分のやりたいように触れるだけ触れて、結果、春賀の笑顔を奪うことしかできなかったんだ──」


 表情は穏やかで温和ないつもの彼のまま、言葉は淡々と紡がれていく。その内容とは裏腹に。

 黙りこんでいる奈津に気づいて、玲は困ったような笑みを浮かべた。


「……ごめんね。君にこんなこと話したって困らせるだけなんだけど……こんなこと多分一生、誰にも言えないからね」

「気にするな。私が他人の心情の吐露に、いちいち感情を抱くようなデリケートな人間だと思うか?」

「思わない、かな」

「言ったな」


 ちらちと睨みあげるような視線で口元に悪戯っぽい笑みを刷いてみせた奈津は、パタンと膝の上の参考書を閉じる。


「言葉にして初めて固まる自分の気持ちもあるだろう。春賀のことを言うのだったら、よそで垂れ流されるよりも、ここで暴露してもらったほうが私の精神衛生上はいいな。……ただ、ひとつ感想を述べさせてもらえるのならば、澤田が心変わりしていなかったことは大きく予想外だな」

「じゃあ、春賀もそう思っているのかな」

「恐らくな。でなければ、あんなに普通に澤田の隣に寄り添えるわけがなかろう。たとえ人前限定でも、な」


 奈津が意図して付け加えた最後の単語の真意は果たして玲に伝わったのか、伝わっていなかったのか……。

 玲はしばらく黙ったまま宙を見つめていた。感情は窺い知れず、しかし話しかけることはためらわぬほどの穏やかな横顔である。参考書を鞄にしまいながら奈津は心の中で、(世の中には仏さんみたいな外見の人間がいるもんだ……)と感心していた。澤田玲の人徳は、無表情でも温和なそのパーツのつくりと並びにも大きく関係があるのだろうとも思う。

 人の笑顔に安心を得、無表情や嫌悪、憤怒の感情に苦しさを覚えるために、いつもへらへらと笑ってばかりのあの能天気娘が言うくらいなのだ。「無表情でも怖くない人なんて、初めてよ」──ただ、その信頼は、異性というつながりに見事裏切られてしまったのだけれど。

 それを、この男が自力で気づく時が来るのだろうか。

 気づけたなら春賀は再び、この男を選ぶのだろうか。


「……ありがとう。少し、落ち着いたよ」

「そうか」


 しばらくの思索の後、玲がすっと立ち上がり、奈津に礼を言って、その場を去っていく。その彼と擦れ違いに、楠田尚志がこちらへやって来て、玲の後姿と奈津を見比べ、首を傾げた。


「珍しい人とお話してるね、なっちゃん」

「たまには権力者と話をするのも面白いな。私の中の野心が触発されそうだ」


 段差に腰掛けたままにやりと尚志を上目遣いに見、奈津は冗談まじりにそんなことを言う。


「なっちゃんの野心って、たとえばどういう方向に向かっていくんだろうね?」

「うん? そうだな……一日くらいあのお喋り娘を黙らせてみようか、とか。以前から考えてはいたんだ」

「なっちゃんの野心って平和だねー」


 にこにこと笑う尚志が差し出す手に手を重ね、立ち上がった奈津は、にっこりと微笑み返した。


「帰ろう、尚志」

「うん」


 ──やはりこの二人は、どこまでも幸せなようである。



  続く

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