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恋せよ、少年少女(15)

恋せよ、少年少女 (15)



「ごっめんねぇ~びっくりした? したよね? こーんなにおっきなゴキさんに遭遇しちゃってびっくりしてたのよ~。慌てず騒がず逃げてきたわけど、幸輔くんの顔見たら緊張の糸が切れちゃったのかしらねー。ほんっと、ごめん!」

  

 ──唐突な抱きつきについての春賀の弁は、以上の通りであった。

 数秒後、正気に戻った春賀が見たのは、顔を真っ赤にして全身を硬直させている少年である。シマッタ、瑞貴とは違うんだよなぁ。そんな思いが彼女の胸をよぎり、一応、悪びれない口調ではあったが謝罪をすることにした。そうして劇の練習があるからと、立ち尽くす幸輔を放って教室棟の方向へ駆けていく。


「……………」


 なびく髪とスカートの裾を呆然と見送っていた幸輔であったが、ややあって、彼も正気を取り戻す。

 目を閉じ深く深呼吸すると、心の中で叫んだ。


(……い、生きてて良かった……!)


 いまだ、触れた体温が残っている。学ランを着ていなくて良かった。そして、彼女がブレザーもベストも着用していない、開襟シャツ姿であったことも幸いした。──押し付けられた柔らかな胸のふくらみ。

 思わず両手でガッツポーズをきめようとした幸輔であったが──、


「通り魔の痴漢みてぇ……」


 ぼそりと呟かれた台詞に、びくんと肩を揺らしたあと、慌てて振り返る。

 そこには、ポケットに手を突っ込んだ姿勢で、苦虫を噛み潰したような表情をしている親友が立っていた。

 幸輔はほっと胸をなでおろす。


「何だ、憲二か……」

「何だとは何だ」

「……見て、た?」

「……バッチリ」


 ゆっくりと近づいてきた憲二を見上げる幸輔の頬は僅かに紅潮している。それが、憲二にむず痒いような居心地が悪いような、とにかくいたたまれない気持ちを与える。憲二は幸輔から目を逸らし、吐き捨てるように言った。


「──やっぱ、俺の言った通りだろ?」

「何が」

「尻軽だって言ったじゃねーか、あの女は」

「……ゴキブリにびっくりして抱きついてきただけだよ。別に、そういう意味じゃない」

「どーだか」


 前回の喧嘩のほとぼりは一見冷めたように見えているものの、やはり橋谷春賀観になると、大きくて深い溝が二人の間に流れるように感じてしまう。

 壁によりかかった憲二に、幸輔は躊躇いながらその問いを口にした。


「……何で、春賀さんのこと嫌いなんだ?」

「あぁ?」

「嫌いだって、言い切ったじゃんか。本人の前で」

「『あの部の中で』って条件がついてなかったか?」

「……すごい、嘘くさい」

「……………」


 口を歪めて黙り込む憲二に幸輔は、知らず追い討ちをかけた。


「憲二って、人のこと好きだの嫌いだの、あんまり言わないじゃん。それが春賀さんに限って言うのって何で?」

「……んなことねぇよ」

「何でそこまで春賀さんのこと悪く言うんだよ」


 面倒くさそうにちっと舌打ちをすると、憲二は壁から離れ歩き出す。


「ちょっと憲二、俺の質問に答えろってば!」

「だーかーらっ、それだって分かってんだろ? 俺がそーゆーめんどっちい問答、嫌いだってお前、知ってんだろ?」

「……それは、知ってるけど」


 後ろを歩く幸輔を振り返り、彼は困ったように肩を竦める。


「……俺があの女を好きでも嫌いでもいいじゃねぇか。──じゃあ逆に好きだって言ったらどうすんだ? そっちのが困るんじゃねぇの?」

「そりゃ……」

「別にお前の恋路を邪魔したりしねぇよ」


 ぽんぽん、とまるで幼子にするように頭を掌で優しくたたかれる。


「お前が万が一あの女をオトした日には、ちゃーんと親友として祝ってやるって」

「オトすとか……そういう言い方するなよな」

「ん? 最終目的はやっぱソレじゃねぇの?」

「……そうじゃなくて、なんていうかさ……」


 指先を口元に当て言い淀む幸輔であったが、一つ一つ言葉を慎重に選びながら続けた。


「見てるだけでいっぱいいっぱいなんて、本当に初めてなんだ。次の行動が予測できなくて、目が離せないんだよ。どうしても視線が春賀さんのほうに向いちゃうんだ。──何か今は、この状態を保つのに精一杯で、先のこととかあんま考えらんないや……」


 その言葉こそが、幸輔の今の想いすべてだった。

 聞いていた憲二のほうが痒いくさいと身悶えしたくなるほどの、剥き出しの真実だ。

 引き攣った笑みを浮かべた憲二は、ぎこちなく親友の肩を叩くと、一言、言った。


「まぁ……、アレだ。……がんばれ」

「お、おお」


 戸惑いながらも頷く幸輔は知らない。憲二が心の中で(病気だ、病気だ……)と呟いたことなど。



  ◇



 さて、こちらは生徒会室。

 下校時刻もとうに過ぎ、顧問が二度ほど顔を見せた後で、仕事の区切りがついたため本日は解散となった。

 夕闇が迫る色の商店街をバス停に向かって歩きながら、澤田繭子は先ほどから黙りこくったままの兄を心配そうに、どこか不審気に見上げる。


(……何で、あの人が来たんだろう)


 疑惑がちりりと胸を焦がす。きれいなラインの眉をひそめ、セミロングの髪の毛先を手持ち無沙汰に指でもてあそんだ。

 ──今日、あの憎き橋谷春賀が生徒会室に来た。用件は他愛ないものだったけれども、あれから少し……兄・澤田玲の様子がおかしい。他の生徒会役員はきっと気づいていないだろう。でも、そんな赤の他人は騙せても、妹である自分は騙されない。

 繭子が中三の時の秋……兄が初めてその少女のことを口にした。曰く、「変わった子がいるんだ」と。

 一度見せてもらった体育祭の写真で見たその少女は、確かに綺麗な顔立ちをしていた。一言で言ってしまえば美人。お兄ちゃんの彼女なのかな、なんて思い、からかったりもしたものだ。

 そんな時決まって玲は、いつもの優しげな、どこか読めない笑顔で言った。「さあ、どうだろうね」と。


 翌年。

 入学した繭子は、橋谷春賀の実物を見るに至るが、その時は特に何も思わなかった。

 ──ただ、嫌な予感はしたのだ。

 四月、繭子は生まれて初めて異性に好意を感じた。出席番号順に並んだ一人ずつの座席で、ちょうど隣にいたのが、衛藤瑞貴だった。何となく会話をするようになって、誠実な寡黙さというか、思慮深さに惹かれていたそんなある日。衛藤瑞貴が寄合部という部に所属したことを知った。

 ……間もなく、自分はその光景を目にすることになる。

 「瑞貴」と遠慮も何もなく自分の想い人の名を呼び、気軽にその腕に腕を絡ませる少女。引っ張りまわし振りまわし、先輩の特権で好き放題をしていた。一度、教室で聞いたことがある。


『橋谷さんって、どんな人なの?』


 彼は苦笑いを滲ませて言った。


『……台風の目、かな』


 ──その台風の渦に、巻き込まれているのが好きな人一人ならまだ良かった。我慢できた。許すことも、諦めることも。


(──お兄ちゃんは、知らない)


 そう、玲はきっと知らないだろう。"自分が知っていることを"。

 橋谷春賀と兄の間に、どんなことがあったのかを。はからずも知ってしまった時のあの衝撃は、今も忘れられない。


(あたしには、彼女を憎む権利があるわ)


 繭子はそう信じている。自分の大切な人を二人も奪った人。許さなくても誰も責めはしない。


「ねえお兄ちゃん」


 繭子は兄を振り仰ぎ、つとめて明るく、無邪気に語り掛ける。


「今日、橋谷さんが来てたね。久しぶりじゃない?」

「そうだね」

「去年の今頃は頻繁に来てたのにね」

「そういえば繭は去年のこの時期にはもう、生徒会にいたんだね」


 繭子の意図のある台詞は、さらりとかわされた。敏い兄のことだ、繭子の意図するところが分からないわけでもあるまいに。繭子は少し頬を膨らませるが、気を取り直して、そういえば、と続ける。


「うちのクラスに、衛藤瑞貴くんっているでしょ? ほら、寄合部の副部長の」

「彼がどうかしたのかい?」

「前ね、生徒会で絶対橋谷さんと衛藤くんは付き合ってる! って話になったの。でね、衛藤くんに聞いてみたら、違うんだって」

「……繭」


 玲は、少し疲れたような顔で妹の頭をぽんと叩く。


「そういう噂話を好む子だったかな、繭は」

「お兄ちゃん、あたしだってちゃーんと女子高生なんだからね?」


 小さく溜息をついた兄を見上げ、繭子はべっと舌を出す。


「お兄ちゃんかったーい! そんなんじゃ彼女もできないよ? せっかくかっこいいのにね」

「俺のことまで心配してくれなくていいから」

「あたしが心配しなきゃ誰が心配してくれるの? みんなお兄ちゃんの笑顔にころっと騙されちゃうんだから」

「全く……」


 玲が呆れたように再び溜息をついたところで、バスが到着する。乗り込み座席に座ったところで、繭子が頭を玲の肩に凭れかけさせた。

 大きな排気音を立て、バスが発車する。


「……お兄ちゃん、あたし、心配してるんだからね?」


 囁き声の繭子の言葉をきちんとキャッチして、玲はその頭を撫でた。


「──分かってるよ、ありがとう」


 ──ありがとうなんて、言わないで。繭子は泣きたいような気持ちになる。

 好きなくせに、と叫びたくなる。あの人が好きなんでしょ、だから一年前のあの時からずっと、嘘みたいな笑顔の仮面ばかりつけるようになっちゃったんでしょ。今日だって動揺してるくせに。どうしたって、それを見せようとしないのね。

 渡したくないと願う。けれど兄の幸せを望む。

 繭子の心もまた、揺れ続けていた。彼女を見るたびに平静でいられないのは自分も同じだ。


(──奪らないで、もう)


 衛藤瑞貴の言葉に縋る自分がいる。彼はまだ、彼女に心染められていないと信じたい。

 そんなふうに人の心に"願う"なんて──。馬鹿げた妄想であることは、百も承知していたけれども。



  続く

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