ダブルカルチャード
西武新宿上り線の終着駅に到着した俺たちは、そこから徒歩移動でJR新宿駅へ向かう。
いつの時間でもそうだが、新宿駅は常にキャパシティオーバーな人口密度でごみごみとしている。用事がなければ赴きたくない街だ。
人混みを縫うように進むと、小夜が俺の袖をつかむ。
「もっとゆっくり」
俺以上に人混みに慣れていないらしい。
「思ったより時間がない。手を繋いでいこう」
「待ち合わせてる人はもう着いてるの?」
「連絡は来ていないが着いてるだろうな」
「どこで待ち合わせ?」
「東口だ。このまままっすぐ歩けばいい」
「私が参加するのは伝えてある?」
「伝えてあるから心配ない」
そんな話をしながら路地を進み、新宿駅東口改札前に到着する。しかし貝木の姿はない。
時刻は十九時四十五分。彼女が先に待っていてもおかしくない時間だ。
――キオスク前にいないのか……。
新宿駅は南口、新南口、東南口、東口、中央東口、西口、中央西口……と、その他にも改札口が存在している。正気とは思えない駅である。貝木は東京に住んでいるわけではないので、久しぶりの迷路に彷徨っているかもしれない。
三が日も終わる今日は往来もいっそう激しく、夥しい人波に待ち合わせの相手を探すのは苦労しそうだ。
「お、いたいた。囮」
後ろから声をかけられて振り向く。
「よかった、探そうかと思ってたところだ」
「明けましておめでとう」
貝木は腰まで届く長い髪を鮮やかな赤色に染めていた。
「明けましておめでとう。派手になったな」
「副業の影響でね。それで、お連れの方は?」
貝木は俺の隣に立つ小夜に気付くとにこやかに会釈をする。
「饗庭小夜だ。仕事を少し手伝ってもらってる」
「饗庭ちゃんね。はじめまして」
「はじめまして、よろしくお願いします」
貝木は小走りに距離を詰めて握手を求め、小夜が応える。
本物の大人の女性。それもアパレル系の仕事もしているとなると俺も緊張する。
小夜が未成年だと明かすべきかどうか、俺は貝木の出方をひそかに伺っていた。
小夜は握られた手を揺すられて、動揺しながら貝木と見つめ合う。貝木の視線は素早くシャツの襟と唇、アイラインと移動し、もう一度「よろしくね」と言った。
「派手な見た目で絡んでやるなよ。怖がられるぞ」
「私は貝木 椛。『貝木さん』でも『椛さん』でも『お姉さん』でも好きに読んでね」
「はい……あの、貝木さん――」
恐る恐るというような態度で小夜は続ける。
「尾鳥さんと同期なんですよね? そのぅ……」
視線は貝木の向こう。都市の冬空を見上げている。
「……なるほど」貝木は未だ小夜の手を放さず、「饗庭ちゃんには見えるのね」と言った。
俺は何のことかわからず、小夜の視線の先を追った。新宿のビル街に切り取られた空は煌々と輝き、別段おかしなものはない。
「何か見えてるのか?」俺は貝木に訊ねる「悪霊でも連れてきたんじゃないだろうな」
「私はちゃんと除霊してきたから」貝木はおどけて言う。
「じゃなくて、……そうじゃなくて、その、後ろに……」
小夜は指先で指し示す。
暴力的なまでに夜を追い出す都市の灯……いつもの新宿にしかみえない。
「後ろってどこだよ?」
「見えてないの? え、ほんとに言ってる?」と小夜は共有できない恐怖を溜め込んで、不安そうな顔をする。
「大丈夫、怖がらなくていいよ。今夜はまさにそいつが目当てなの」
貝木は全て理解しているような態度。
――待てよ……?
貝木の言葉から察するに、もう『龍』が姿を現しているのか?
「変だな。俺には見えない」どれだけ目を凝らしても、『龍』を視認できない。
「嘘!? あんなに大っきいのに」と小夜。
「まぁまぁ、時間はたっぷりあるから。とりあえず飲みまひょー」
貝木は呑気にそう言って、そこにいるはずの『龍』を無視して歩き始めた。
俺は何度も振り返り、依然として見えないことに歯がゆさを感じながら、貝木について歩く。
「なんで俺には見えないんだ? 貝木、お前は見えてるか?」
「私もまだ見えてなーい。饗庭ちゃんは『龍』と相性がいいみたいね。呼んできて大正解よ」
❖
新宿上空に可視化を始める超広域浮遊バクテリア群……『龍』。
現在時刻は二十時。行き交う人々は、誰も空を見上げない。
腹が減っては戦はできぬ。俺たちは三丁目方面に進み、雑居ビルの中にある居酒屋へ入った。掘り炬燵式の個室で男女に分かれ、三人が座る。
店は新年から稼ぎ時らしく、薄い壁越しに酔いどれのにぎやかな声が漏れ聞こえる。
最初の注文を決めるため、俺はメニューを開く。
「とりあえず貝木は生だろ」
「え、みんなは違うの?」貝木は信じられないという顔をした。「初めは生でしょ。生三つ」
「俺まだビールわかんねぇんだよな」
「はっ、青二才が。じゃあ私と饗庭ちゃんは生で、囮はカルピスね」
「そこまでガキじゃねぇ」
貝木は軽快な会話のやり取りに笑い、俺もつられて口角が吊り上がる。小夜を成人として見ていることに安堵したのも大きい。何とか誤魔化せているようだ。
さりげない視線のやり取りで小夜とアイコンタクトを送る。――お前は未成年だからソフトドリンクだ。
「小夜は酒が苦手なんだ。ジンジャーエールにするか」
「もう、最初は生ビールがお約束でしょ! 『とりあえずビール』。『とりビ』よ『とりビ』!」
「うるさいなぁ」
「じゃんけんで言えば最初がグーと一緒! 残しておくべきミームよミーム!!」
「お前はもう酔ってるのか?」
「もはや生ビールよりも生ミームを頼むしか……!」
貝木は乾杯する前からやかましい。
「ジンジャーエールって何だっけ? 私が飲めるやつ?」
と、小夜が言うので俺は少々驚きながらも説明する。
「いや、ジュースだよ。生姜シロップの炭酸割。俺はシャンディガフにしようかな」
「ジャンディガフって何だっけぇ? ジュース? ねぇジュース?」
「おまえは知ってるだろ! ビアカクテルで歩み寄ってるだけありがたいと思えアルハラ女!」
貝木の茶々に突っ込みながら、呼び出しボタンを押す。
店員が来るまでの間に選びたいから、と貝木がメニューを引き取った。
さして待たずに店員が個室の暖簾をくぐり、注文をうかがう。
「あ、生一つとー、ソフトドリンクのジンジャーエール、あとダブルカルチャードで。お願いしまーす」
店員は慣れた手つきでオーダーを入力すると、さっさと戻ってしまう。
「なんだ? ダブルカルチャードって」
俺は貝木に冷たい視線を送る。思うにそれは俺が飲まなければならないものだ。
「シャンディガフと同じよ、半分はビールでできてる」
二分と待たずに三人の飲み物がそろった。
貝木の言う通り、俺の前に置かれた酒はビール由来の細かい泡がグラスに盛られている。液体の色は、やや白く濁りがあった。
「駆けつけ一杯! それじゃあ乾杯!」
貝木は楽しそうに音頭をとって杯を掲げる。
あとに小夜と俺が続く。
「お疲れ様ですー」「お疲れーぃ……」
一息に酒を呷り、喉を鳴らす。
なるほどダブルカルチャード……確かにビアカクテルだ。
苦みと甘みが両立しているのが『ダブルカルチャー』という名前の由来か。
この甘みは――
「カルピスじゃねぇか!!」
ガキ扱いしやがって! と俺が声を荒げると貝木は大笑いして、小夜も楽しそうにけたけたと笑みをこぼす。
楽しい夜が始まった。