カフェインと初恋
瀬川忍。
義務教育から高校までの学生時代を共にした同輩。女性。
同窓会に顔を出したことは一度もなかったが、噂では大学進学後に就職せず、そのまま入籍したと聞いていた。
――俺の、叶わぬまま潰えた初恋の相手だ。
そして、彼女が今、目の前にいる。
武蔵関公園の公衆トイレ近くの休憩所。蔦が這うそのベンチに腰を下ろした俺は、街路灯の光を浴びる少女と向き合っていた。
不気味なまでに静かなその姿。顔を見た瞬間、記憶が鮮やかによみがえる。
瀬川もきっと、俺のことをわかっていてここに来たのだろう。
「尾鳥君、でしょ……」
「瀬川忍、だよな……驚いた」
思い出の中の彼女と、数年ぶりに再会した彼女は――何も変わっていなかった。
今夜、饗庭小夜はいない。三日に一度家に帰るという約束通り、一時的に帰宅している。
状況を思えば、小夜は案外運がいいのかもしれない。
俺は息を呑み、努めて平静を装った。
「……まず、その包丁を下ろしてくれないか」
距離はおよそ三メートル。瀬川は包丁を握ったまま、まったく動かない。
十七歳のまま時を止めた彼女は、内面だけが月日を重ねたようにどこか異様な雰囲気を纏っていた。
普通なら、俺が再会するべき瀬川は《《大人になっているはずだ》》。記憶と寸分違わず、若い姿で現れるのはおかしいのだ。
これは喜ぶべき再会ではない――そう確信する。
目の前にいるこの少女は、いったい何なのか。
「久しぶりね」
右手に握られた包丁は、赤黒く濡れていた。血だ。――冗談では済まされない。
「……そうだな。高校卒業以来、だろ」
「いえ、五年ぶりよ。成人式で見かけたわ」
瀬川と意見が食い違ったことに俺は動揺する。機嫌を損ねて腹を刺されるかも知れない。
「すまない、どうにも成人式で会った記憶がない」
「ふふ。落ち着きなさいな。私が一方的に見かけただけだから」
「なんだ……声をかけてくれたらよかったのに」
笑ってみせたつもりだったが、息が乾き、唇がひび割れる。たぶん、うまく笑えていない。
そんな俺を見て、瀬川はくすくすと笑った。弄ぶように、手元の包丁をくるりと回す。
光が反射して、俺は思わず身を引く。
逃げる隙は――ない。どうやっても彼女が上だ。
彼女の姿も、包丁も、態度も。すべてが常識から外れていた。
「……困ったな。俺はどうしたらいい?」
ついに取り繕うのをやめた。目的が見えない。
「別に、何もしなくていいわよ」
俺は腰が抜けたように立ち上がれずにいた。瀬川はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。
「とりあえず、包丁は捨てましょうか」
「え――」
腕が振り上げられた一瞬、反射的に身を固める。
しかし痛みは来なかった。
――彼女は、背後の池へ包丁を放り投げただけだった。
どぽん。
水音が静かな夜に響く。
「本当に、久しぶりね。尾鳥君」
そのまま俺の隣に腰掛け、顔を寄せてくる。唇が触れそうな距離に心臓が跳ねた。
恐ろしいはずなのに、目の前にいる瀬川は――あの頃と、同じ顔をしていた。
高校を卒業して、もう何年も経った。初恋の甘さもほろ苦さも、とうに色あせていたはずなのに。
「……瀬川、なんだよな? 今いくつだっけ……」
「十七よ」
「それは……なんで?」
彼女の異様な若さ。説明を求めるしかなかった。
「……聞きたい?」
そう言って、瀬川は俺の目を覗き込み――唇を奪った。
❖
自動販売機に硬貨を投入する音が聞こえる。商品を選択して、間の抜けた電子音と共に飲料缶が取り出し口に落ちる。
夜間照明に照らされながら缶を拾い上げる瀬川を、俺は茫然と眺めていた。
少なくとも今の瀬川は包丁を持っていない。その上両手がふさがった状態で、俺の座るベンチとは距離もある。……だが、逃げ出す気になれなかった。
ここで逃げても、瀬川は俺を追い詰めるだろう。住所を把握されているかもしれない。
なにより、彼女の若返りの秘密をこれから話してくれるというのだ。
『聞きたい?』と問うていた瀬川の暗い瞳が脳裏に焼き付いている。本当に恐ろしい目をしていた。人殺しの境地に達した者の、悟りにも似た深い闇を見た。
これから彼女が語るであろう出来事は、きっとあの包丁にも関わっているだろう。――俺はそう直感している。
「尾鳥君ってコーヒー飲めたかしら?」瀬川は缶コーヒーを一つ差し出した。
「ブラックじゃなければ」
「よかったわ。はい、モーニングショット」
――なぜ朝専用……?
瀬川は俺の隣に腰掛けて開栓すると、コーヒーを一口飲む。ちなみに彼女が飲んでいるのはカフェオレだった。
「女友達だけの集まりがあってね、『そこだけでも顔を出して』って、外で待っていたの」
「……ああ、……成人式のときか」
何の話をしているのかすぐにはわからなかった。
どうやら会場の外で待っているとき、俺を見かけたのだと言いたいようだ。
「懐かしかったわね。私は大学卒業してからすぐに結婚してしまったけれど、五年ぶりに会うとみんなすごく奇麗になってたわ。仕事もバリバリこなす人生を歩んだり、想像もつかない進路へ進んだ人もいて、……人生って不思議よね」
「そうだな」聞き役に徹しながら、缶のプルタブを開けて口をつける。
「尾鳥君って私のこと好きだったでしょ」
「ごは――っ」俺はコーヒーをのどに詰まらせて咽る。
「人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに」
「……高校時代に、脈があったとは思えないが」
目の前の瀬川を見ると鮮明に思い出す。そして彼女の美貌は大人になった俺の目から見ても間違いない。
「俺には手の届かない、高嶺の花だったよ」
「それでも勇気を出すべきだったわ」
「勇気を出せば付き合えたか?」
少しだけ可能性を信じてみたくなって、俺は問うてみる。
瀬川は即答せず、カフェオレ缶を両手で包み、しばし黙した。
細い爪が小気味良く缶を叩く。
「……だめね。お断りしていたわ」
――駄目じゃねぇか。
「それでも、連絡先の交換くらいはできたと思うわよ。卒業してからも、友人でいられたかも」
「いや、残酷すぎだろ!」俺はつい声に出してしまう。「大学に行って彼氏ができるんだろ? 卒業後に結婚するんだろ? 友人の立場で手も足も出ないなんて、そんな世界線はごめんだね」
「確かに、そうかも」瀬川は納得する。
「この話って今の瀬川の問題と繋がってるのか?」
できることなら本筋に戻ってほしい。俺にはこの話題がただの懐かしい思い出話にしか聞こえなかった。
しかし瀬川は首を振る。
「ちゃんと繋がっているわ」
「……それなら、まあ」
俺はもう少し話を聞くことにした。
自他共に認める巻き込まれ体質なのだ。
この異変だって、仕事に繋がるはずである。
「その女子だけの集まりでね、尾鳥くんの話題が出てきたのよ」
「俺の?」
「『絶対瀬川のこと好きだったよね』とか、『態度に出てたからバレバレだった』とか。結構盛り上がったわよ」
「やめてくれ」
「尾鳥君は血液型Bだったかしら? 態度に出やすいらしいわよ。ゴリラと一緒ね」
「勘弁しろよ……」
――陰で笑うのはいい。本人に垂れ込むのはどういう了見なんだ……。
「今は周波数調整員なんですってね」
「……!」
急に本題に繋がった。
――おいおい、こいつ会話のハンドルさばき荒すぎるだろ……。
「俺が調整員だから、会いに来たのか?」
「逆よ。調整員が尾鳥君だから、会いに来たの」
「……違いあるか?」
「あるわ。ちゃんと繋がってる」
月明りに照らされる十七歳の瀬川の顔が俺を見つめる。
まるで吸血鬼のような、永遠の若さ。
……いや、違う。
歳はちゃんと取っている。成人式で女子だけの二次会に行ったのなら、瀬川はちゃんと大人になっていたはずだ。
何かしらの異変を経て、瀬川の時が戻っている……。
「十七歳に戻ったのは、何が原因だ?」
「聞きたい?」
瀬川は再び同意を求める。
ふざけているのではない。俺の覚悟を試しているんだろう。
「聞かせてくれ。こう見えて俺は周波数調整員だからな」
❖
「夫を殺したのよ」
瀬川は薄笑いを浮かべてそう言い、カフェオレを啜った。
聞いたからには後戻りができない話題だ。しかし出会い頭に見せつけた包丁から、覚悟はできていた。
危険な夜だ。
小夜がこの場にいないのは本当に幸いだった。
「大学時代に付き合った男か?」
「ええ。結婚生活は順風満帆そのものだったわ。なんの不満もない日々だった」
「それは結構なことで」
俺はコーヒーを呷る。
初恋相手の口から聞かされると妙に耳障りが悪かった。
器の小さい男だと、自分が少し嫌になる。
「ならなんで……包丁なんか……」
「人生は不思議なものよ。順調な時でも油断ならないわ」
瀬川は忘れていた怒りを思い出したように目つきを鋭くして、ベンチから立ち上がるとブランコに移動した。
揺れる座面の砂を払い、きぃきぃと体を揺らす。
「『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は、精力的に働いてくれていたわ。私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で暗雲を呼び込んだのは……私のほう」
俺は無言で続きを促す。
瀬川はしっかりした女性だ。家庭に不和を持ち込むような人間ではないと知っている。いったい何が起こったのだろう。
「子宮内膜の悪性腫瘍……つまりは癌よ。夫の思い描いていた未来を私が壊してしまったわ。『二人で乗り越えよう』なんて、表面上はいつもの笑顔でも、心が遠のいていくのを感じた」
そして暗雲は雨を呼び、二人の歩む道は泥濘に変わった。
「あの日のことは忘れもしないわ。私が癌を発見して数ヶ月、通院から疲れて帰る日のことよ――」
夫の姿を見つけたの。
私は声をかけようとして、すぐにおかしいと気付いた。
『今日は仕事で夜遅くなる』と言っていたのよ。なのに、昼過ぎに街を歩いているなんておかしいでしょ?
隣にいる親しげな女性を見て、私は眩暈がした。
どうか会社の後輩でありますように。
取引先の女性でありますように。
お昼休みでありますように。
ラブホテルに消える二人を、私はただ見送ったの。
私は、その光景に気をやられたような、どこか心をなくしたような気分になって、眩暈に導かれるようにふらふら歩いたわ。
どこに向かっているのか自分でもわからなかったけれど、勝手に動いてくれる脚に任せていると、大学時代の通学路に辿り着いたの。
一歩、また一歩と進む度、青春の日々が鮮明に蘇るのを感じた……いえ、走馬灯だったのかも。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は、次々と色褪せて消えてゆく。
大学正門前にたどり着くと、そこにもう一人の私がいた。
待ち合わせしていたように、二十五歳の私がそこに立っていた。
気付けば私の体は十七歳に戻っていたのよ。
❖
「私達は全てを共有していた」
二十五年の人生。あらゆる経験や思い出を、一つの齟齬もなく共有していた。
もう一人の自分――複写されたドッペルゲンガーとの邂逅が瀬川を動かした。
「つまり……」俺は真相に辿り着く。「十七歳の瀬川忍が殺人を実行して、すべての罪を二十五歳の瀬川忍が背負って捕まったんだな?」
「惜しいわね」瀬川はブランコに揺られるのを止めて、俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた瀬川忍は殺人の容疑者として警察に追われているわ。そこまでは正解よ」
「捕まらずに逃げているのか?」
「違うのよ――」
瀬川は否定する。
「――きれいさっぱり消えたの」
目的を達成したドッペルゲンガーは砂のように崩壊して、大気に溶け消えた。
浮遊バクテリアが見せる幻覚のように。
「十七歳の瀬川だけが残った、と……」
俺は経緯を把握したが、目の前の若い瀬川の謎を解決できない。
浮遊バクテリアは空間投影によって幻覚を形成できる。だから瀬川に感応してドッペルゲンガーが現れるのは理解できる。
だが……生きた人間が若返るなんて、前例がない。
「なんでこうなったのかはわからないけど、私の話せることはすべて話したわ。……最後に、私が会いに来た理由もわかるかしら?」
瀬川はブランコから立ち上がり、カフェオレの最後の一口を飲み干した。
「俺が周波数調整員だってことを思い出して、ドッペルゲンガーの原因を調べてもらおうとした?」
「ちがうでしょ」
瀬川は俺の前に立つ。
唇を舌で湿らせて、再びキスをする。
絡めた舌は暖かく、ほのかに甘い。
生きている体だ。
瀬川は幻想ではない。
「十七歳に戻った意味は何だと思う?」
「け、警察の捜査から……逃れるため」
「わからず屋ね、忠告するわよ尾鳥君。鈍い男はチャンスを逃すわ」
初恋当時の姿で厳しいことを言われると、俺は立つ瀬がないほど傷ついてしまう。
――いや、初恋……そうか。
『人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに』
『調整員が尾鳥君だから、会いに来たの』
「ちゃんと、繋がってる……」
俺は天啓を受けたかのように呟いた。
瀬川は満足そうに頷いた。
「ま、まて……! 俺の意志は――」
「初恋が叶うのよ? 喜びなさいな」
初恋なんて、風化させておくものだ。
いまさら墓暴きのように掘り起こしても、輝きは取り戻せない。
「分岐点からやり直せると思ってるのか!?」
「なんの問題もないじゃない。体は穢れを知らないあの頃のものよ」
瀬川は俺に跨り、蠱惑的に視線を細める。
美しい思い出から掘り起こされた若い体が誘惑する。
しかし心だけは、俺より何枚も上手だ。
「再燃してくれないかしら?」
白状しよう。俺は彼女との再会に心を奪われてしまっている。
危険な女だと理性ではわかっている。
わかっているのに……甘い夢を見ているようで、抗えなかったのだ。
「……わかった……考える時間をくれ……」
なんとか絞り出した言葉は、問題の先送りだった。
殺人犯を街に泳がせるなんて、正気の判断ではない。
しかしどうすればよかったのだろうか?
十七歳の瀬川忍は殺人の容疑者ではない。
今の日本で、世界で、彼女の完全犯罪を暴き、捕らえることができる人間はいないのだ。
手ごたえのある答えを引き出せた十七歳の瀬川は、武蔵関公園から立ち去る。
別れ際に言い残す。
「叶わなかった恋を成就させる。《《私たち》》はいい返事を期待しているわ」
分岐点からやり直すこと――それが二人の瀬川の悲願なのだ。