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CRUMBLING SKY  作者: 莞爾
第三話 告白/酷薄 上
7/19

カフェインと初恋

 瀬川せがわしのぶ

 義務教育から高校までの学生時代を共にした同輩。女性。

 同窓会に顔を出したことは一度もなかったが、噂では大学進学後に就職せず、そのまま入籍したと聞いていた。


 ――俺の、叶わぬまま潰えた初恋の相手だ。


 そして、彼女が今、目の前にいる。


 武蔵関公園の公衆トイレ近くの休憩所。蔦が這うそのベンチに腰を下ろした俺は、街路灯の光を浴びる少女と向き合っていた。

 不気味なまでに静かなその姿。顔を見た瞬間、記憶が鮮やかによみがえる。

 瀬川もきっと、俺のことをわかっていてここに来たのだろう。


「尾鳥君、でしょ……」


「瀬川忍、だよな……驚いた」


 思い出の中の彼女と、数年ぶりに再会した彼女は――何も変わっていなかった。


 今夜、饗庭小夜はいない。三日に一度家に帰るという約束通り、一時的に帰宅している。

 状況を思えば、小夜は案外運がいいのかもしれない。

 俺は息を呑み、努めて平静を装った。


「……まず、その包丁を下ろしてくれないか」


 距離はおよそ三メートル。瀬川は包丁を握ったまま、まったく動かない。

 十七歳のまま時を止めた彼女は、内面だけが月日を重ねたようにどこか異様な雰囲気を纏っていた。


 普通なら、俺が再会するべき瀬川は《《大人になっているはずだ》》。記憶と寸分違わず、若い姿で現れるのはおかしいのだ。


 これは喜ぶべき再会ではない――そう確信する。

 目の前にいるこの少女は、いったい何なのか。


「久しぶりね」


 右手に握られた包丁は、赤黒く濡れていた。血だ。――冗談では済まされない。


「……そうだな。高校卒業以来、だろ」


「いえ、五年ぶりよ。成人式で見かけたわ」


 瀬川と意見が食い違ったことに俺は動揺する。機嫌を損ねて腹を刺されるかも知れない。


「すまない、どうにも成人式で会った記憶がない」


「ふふ。落ち着きなさいな。私が一方的に見かけただけだから」


「なんだ……声をかけてくれたらよかったのに」


 笑ってみせたつもりだったが、息が乾き、唇がひび割れる。たぶん、うまく笑えていない。

 そんな俺を見て、瀬川はくすくすと笑った。弄ぶように、手元の包丁をくるりと回す。

 光が反射して、俺は思わず身を引く。


 逃げる隙は――ない。どうやっても彼女が上だ。

 彼女の姿も、包丁も、態度も。すべてが常識から外れていた。


「……困ったな。俺はどうしたらいい?」


 ついに取り繕うのをやめた。目的が見えない。


「別に、何もしなくていいわよ」


 俺は腰が抜けたように立ち上がれずにいた。瀬川はどこか恍惚とした笑みを浮かべている。


「とりあえず、包丁は捨てましょうか」


「え――」


 腕が振り上げられた一瞬、反射的に身を固める。

 しかし痛みは来なかった。


 ――彼女は、背後の池へ包丁を放り投げただけだった。


 どぽん。

 水音が静かな夜に響く。


「本当に、久しぶりね。尾鳥君」


 そのまま俺の隣に腰掛け、顔を寄せてくる。唇が触れそうな距離に心臓が跳ねた。


 恐ろしいはずなのに、目の前にいる瀬川は――あの頃と、同じ顔をしていた。

 高校を卒業して、もう何年も経った。初恋の甘さもほろ苦さも、とうに色あせていたはずなのに。


「……瀬川、なんだよな? 今いくつだっけ……」


「十七よ」


「それは……なんで?」


 彼女の異様な若さ。説明を求めるしかなかった。


「……聞きたい?」


 そう言って、瀬川は俺の目を覗き込み――唇を奪った。





 自動販売機に硬貨を投入する音が聞こえる。商品を選択して、間の抜けた電子音と共に飲料缶が取り出し口に落ちる。


 夜間照明に照らされながら缶を拾い上げる瀬川を、俺は茫然と眺めていた。

 少なくとも今の瀬川は包丁を持っていない。その上両手がふさがった状態で、俺の座るベンチとは距離もある。……だが、逃げ出す気になれなかった。


 ここで逃げても、瀬川は俺を追い詰めるだろう。住所を把握されているかもしれない。

 なにより、彼女の若返りの秘密をこれから話してくれるというのだ。


 『聞きたい?』と問うていた瀬川の暗い瞳が脳裏に焼き付いている。本当に恐ろしい目をしていた。人殺しの境地に達した者の、悟りにも似た深い闇を見た。


 これから彼女が語るであろう出来事は、きっとあの包丁にも関わっているだろう。――俺はそう直感している。


「尾鳥君ってコーヒー飲めたかしら?」瀬川は缶コーヒーを一つ差し出した。


「ブラックじゃなければ」


「よかったわ。はい、モーニングショット」


 ――なぜ朝専用……?


 瀬川は俺の隣に腰掛けて開栓すると、コーヒーを一口飲む。ちなみに彼女が飲んでいるのはカフェオレだった。


「女友達だけの集まりがあってね、『そこだけでも顔を出して』って、外で待っていたの」


「……ああ、……成人式のときか」


 何の話をしているのかすぐにはわからなかった。

 どうやら会場の外で待っているとき、俺を見かけたのだと言いたいようだ。


「懐かしかったわね。私は大学卒業してからすぐに結婚してしまったけれど、五年ぶりに会うとみんなすごく奇麗になってたわ。仕事もバリバリこなす人生を歩んだり、想像もつかない進路へ進んだ人もいて、……人生って不思議よね」


「そうだな」聞き役に徹しながら、缶のプルタブを開けて口をつける。


「尾鳥君って私のこと好きだったでしょ」


「ごは――っ」俺はコーヒーをのどに詰まらせて咽る。


「人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに」


「……高校時代に、脈があったとは思えないが」


 目の前の瀬川を見ると鮮明に思い出す。そして彼女の美貌は大人になった俺の目から見ても間違いない。


「俺には手の届かない、高嶺の花だったよ」


「それでも勇気を出すべきだったわ」


「勇気を出せば付き合えたか?」


 少しだけ可能性を信じてみたくなって、俺は問うてみる。

 瀬川は即答せず、カフェオレ缶を両手で包み、しばし黙した。

 細い爪が小気味良く缶を叩く。


「……だめね。お断りしていたわ」


 ――駄目じゃねぇか。


「それでも、連絡先の交換くらいはできたと思うわよ。卒業してからも、友人でいられたかも」


「いや、残酷すぎだろ!」俺はつい声に出してしまう。「大学に行って彼氏ができるんだろ? 卒業後に結婚するんだろ? 友人の立場で手も足も出ないなんて、そんな世界線はごめんだね」


「確かに、そうかも」瀬川は納得する。


「この話って今の瀬川の問題と繋がってるのか?」


 できることなら本筋に戻ってほしい。俺にはこの話題がただの懐かしい思い出話にしか聞こえなかった。

 しかし瀬川は首を振る。


「ちゃんと繋がっているわ」


「……それなら、まあ」


 俺はもう少し話を聞くことにした。

 自他共に認める巻き込まれ体質なのだ。

 この異変だって、仕事に繋がるはずである。


「その女子だけの集まりでね、尾鳥くんの話題が出てきたのよ」


「俺の?」


「『絶対瀬川のこと好きだったよね』とか、『態度に出てたからバレバレだった』とか。結構盛り上がったわよ」


「やめてくれ」


「尾鳥君は血液型Bだったかしら? 態度に出やすいらしいわよ。ゴリラと一緒ね」


「勘弁しろよ……」


 ――陰で笑うのはいい。本人に垂れ込むのはどういう了見なんだ……。


「今は周波数調整員バランサーなんですってね」


「……!」


 急に本題に繋がった。


 ――おいおい、こいつ会話のハンドルさばき荒すぎるだろ……。


「俺が調整員だから、会いに来たのか?」


「逆よ。調整員が尾鳥君だから、会いに来たの」


「……違いあるか?」


「あるわ。ちゃんと繋がってる」


 月明りに照らされる十七歳の瀬川の顔が俺を見つめる。

 まるで吸血鬼のような、永遠の若さ。


 ……いや、違う。

 歳はちゃんと取っている。成人式で女子だけの二次会に行ったのなら、瀬川はちゃんと大人になっていたはずだ。

 何かしらの異変を経て、瀬川の時が戻っている……。


「十七歳に戻ったのは、何が原因だ?」


「聞きたい?」


 瀬川は再び同意を求める。

 ふざけているのではない。俺の覚悟を試しているんだろう。


「聞かせてくれ。こう見えて俺は周波数調整員だからな」





「夫を殺したのよ」


 瀬川は薄笑いを浮かべてそう言い、カフェオレを啜った。

 聞いたからには後戻りができない話題だ。しかし出会い頭に見せつけた包丁から、覚悟はできていた。


 危険な夜だ。

 小夜がこの場にいないのは本当に幸いだった。


「大学時代に付き合った男か?」


「ええ。結婚生活は順風満帆そのものだったわ。なんの不満もない日々だった」


「それは結構なことで」


 俺はコーヒーを呷る。

 初恋相手の口から聞かされると妙に耳障りが悪かった。

 器の小さい男だと、自分が少し嫌になる。


「ならなんで……包丁なんか……」


「人生は不思議なものよ。順調な時でも油断ならないわ」


 瀬川は忘れていた怒りを思い出したように目つきを鋭くして、ベンチから立ち上がるとブランコに移動した。

 揺れる座面の砂を払い、きぃきぃと体を揺らす。


「『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は、精力的に働いてくれていたわ。私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で暗雲を呼び込んだのは……私のほう」


 俺は無言で続きを促す。

 瀬川はしっかりした女性だ。家庭に不和を持ち込むような人間ではないと知っている。いったい何が起こったのだろう。


「子宮内膜の悪性腫瘍……つまりは癌よ。夫の思い描いていた未来を私が壊してしまったわ。『二人で乗り越えよう』なんて、表面上はいつもの笑顔でも、心が遠のいていくのを感じた」


 そして暗雲は雨を呼び、二人の歩む道は泥濘に変わった。


「あの日のことは忘れもしないわ。私が癌を発見して数ヶ月、通院から疲れて帰る日のことよ――」


 夫の姿を見つけたの。

 私は声をかけようとして、すぐにおかしいと気付いた。

 『今日は仕事で夜遅くなる』と言っていたのよ。なのに、昼過ぎに街を歩いているなんておかしいでしょ?

 隣にいる親しげな女性を見て、私は眩暈がした。


 どうか会社の後輩でありますように。

 取引先の女性でありますように。

 お昼休みでありますように。


 ラブホテルに消える二人を、私はただ見送ったの。


 私は、その光景に気をやられたような、どこか心をなくしたような気分になって、眩暈に導かれるようにふらふら歩いたわ。

 どこに向かっているのか自分でもわからなかったけれど、勝手に動いてくれる脚に任せていると、大学時代の通学路に辿り着いたの。


 一歩、また一歩と進む度、青春の日々が鮮明に蘇るのを感じた……いえ、走馬灯だったのかも。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は、次々と色褪せて消えてゆく。


 大学正門前にたどり着くと、そこにもう一人の私がいた。

 待ち合わせしていたように、二十五歳の私がそこに立っていた。

 気付けば私の体は十七歳に戻っていたのよ。





「私達は全てを共有していた」


 二十五年の人生。あらゆる経験や思い出を、一つの齟齬もなく共有していた。

 もう一人の自分――複写されたドッペルゲンガーとの邂逅が瀬川を動かした。


「つまり……」俺は真相に辿り着く。「十七歳の瀬川忍おまえが殺人を実行して、すべての罪を二十五歳の瀬川忍ドッペルゲンガーが背負って捕まったんだな?」


「惜しいわね」瀬川はブランコに揺られるのを止めて、俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた瀬川忍ドッペルゲンガーは殺人の容疑者として警察に追われているわ。そこまでは正解よ」


「捕まらずに逃げているのか?」


「違うのよ――」


瀬川は否定する。


「――きれいさっぱり消えたの」


 目的を達成したドッペルゲンガーは砂のように崩壊して、大気に溶け消えた。

 浮遊バクテリアが見せる幻覚ホログラムのように。


「十七歳の瀬川だけが残った、と……」


 俺は経緯を把握したが、目の前の若い瀬川の謎を解決できない。

 浮遊バクテリアは空間投影によって幻覚を形成できる。だから瀬川に感応してドッペルゲンガーが現れるのは理解できる。

 だが……生きた人間が若返るなんて、前例がない。


「なんでこうなったのかはわからないけど、私の話せることはすべて話したわ。……最後に、私が会いに来た理由もわかるかしら?」


 瀬川はブランコから立ち上がり、カフェオレの最後の一口を飲み干した。


「俺が周波数調整員だってことを思い出して、ドッペルゲンガーの原因を調べてもらおうとした?」


「ちがうでしょ」


 瀬川は俺の前に立つ。

 唇を舌で湿らせて、再びキスをする。

 絡めた舌は暖かく、ほのかに甘い。

 生きている体だ。

 瀬川は幻想ではない。


「十七歳に戻った意味は何だと思う?」


「け、警察の捜査から……逃れるため」


「わからず屋ね、忠告するわよ尾鳥君。鈍い男はチャンスを逃すわ」


 初恋当時の姿で厳しいことを言われると、俺は立つ瀬がないほど傷ついてしまう。


 ――いや、初恋……そうか。


 『人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに』


 『調整員が尾鳥君だから、会いに来たの』


「ちゃんと、繋がってる……」


 俺は天啓を受けたかのように呟いた。

 瀬川は満足そうに頷いた。


「ま、まて……! 俺の意志は――」


「初恋が叶うのよ? 喜びなさいな」


 初恋なんて、風化させておくものだ。

 いまさら墓暴はかあばきのように掘り起こしても、輝きは取り戻せない。


「分岐点からやり直せると思ってるのか!?」


「なんの問題もないじゃない。体は穢れを知らないあの頃のものよ」


 瀬川は俺に跨り、蠱惑的に視線を細める。

 美しい思い出から掘り起こされた若い体が誘惑する。

 しかし心だけは、俺より何枚も上手だ。


「再燃してくれないかしら?」


 白状しよう。俺は彼女との再会に心を奪われてしまっている。

 危険な女だと理性ではわかっている。

 わかっているのに……甘い夢を見ているようで、抗えなかったのだ。


「……わかった……考える時間をくれ……」


 なんとか絞り出した言葉は、問題の先送りだった。

 殺人犯を街に泳がせるなんて、正気の判断ではない。


 しかしどうすればよかったのだろうか?


 十七歳の瀬川忍は殺人の容疑者ではない。

 今の日本で、世界で、彼女の完全犯罪を暴き、捕らえることができる人間はいないのだ。


 手ごたえのある答えを引き出せた十七歳の瀬川は、武蔵関公園から立ち去る。

 別れ際に言い残す。


「叶わなかった恋を成就させる。《《私たち》》はいい返事を期待しているわ」


 分岐点からやり直すこと――それが二人の瀬川の悲願なのだ。


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