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歩き始めて数分。
東伏見駅の踏切を通り過ぎ、約束通りコンビニエンスストアへ寄り道して駅前のマンションに帰宅する。
エスカレーターは一階で待機していた。狭い箱に二人が入り、数秒の密室空間が形成された。
――本当に捕まらないのだろうか……。
初対面の少女を連れ帰っている状況の異様さを、今更ながら実感する。
「散らかっているけど文句言うなよ」
「大丈夫。私の家より散らかってる人見たこと無いから」
……それは家庭環境が荒れているということだろうか。
酷いとは思うが、生活が破綻している情景は容易に想像できてしまう。
重たい冗談の応酬に苦笑いして、エスカレーターが三階に到着すると自室の扉を解錠する。
「さ、上がって」
「お邪魔しまーす。……なんだ、普通にきれいじゃん」
「綺麗ではないだろ」俺は言いながら机のペットボトルを拾ってゴミ袋に詰める。
「『散らかってる』って言うからもっと酷いのを覚悟してた」
「覚悟してもらうために言ったからな。最悪を想定しておけば、こんな部屋でも綺麗に見えるもんだ」
自室にはベッドとPCデスク。アーム接続されたデュアルモニターは電源が付きっぱなしでデスクトップが光っている。
散らかっているのは脱ぎ捨てた服と空のペットボトル、そして昨日食べ終わってから片付けていないレトルト食品の器。それらを掃除してしまえば、客人を招き入れる最低限の空間は整った。
「え、待って。……逆に何もなくない?」
玄関前で、俺が片付け終わるのを待っていた彼女は言う。
「趣味もないからな。こんなもんだろ」
俺は一仕事終えてベッドに腰を下ろし、照明に照らされた彼女をまじまじと眺める。
暗い公園では気付かなかったが、制服のスカートから覗く生脚には細長い痣があることに気付いた。
「なんの傷だ?」
「え?」
「それはなんの傷だ?」
俺が太腿を指差すと、彼女はわざとらしく恥じらい、スカートを押さえた。
「えっち」
「自傷行為か?」
「そんなんじゃないよ。見せてあげよっか? ほんとはお風呂先に入っときたいけど」
「――は?」
「え?」
「……いや、シャワーはそうだな。入っていい」俺は部屋の奥を指さして場所を示す。
1Kの間取りなので迷う余地もない。
替えの下着と宿泊セットも、立ち寄ったコンビニで購入していた。
「じゃあ、浴びてくるね」そう言って鼻歌交じりに廊下へ消える。浴室に入る音が響き、シャワーの水音が漏れ聞こえる。
――どうやら彼女は、未だ誤解しているようだ。
俺が一晩保護する対価として、肉体関係を求めていると考えているらしい。
「俺がベッドに座ったからか……?」
呟いて、デスクチェアに座りなおす。普段の行動を無意識に行っただけで他意はなかったが、気遣いもなかったと少し反省する。
――気遣いといえばこれもか。
俺は付けっぱなしのモニターに向かい、最小表示していたアプリケーションソフトを操作する。今日の業務の締め作業を手早く済ませて保存すると、電源を落とした。
しばらくして、湯上りの彼女が濡れ髪を束ねて部屋に戻る。バスタオルを体に巻いているが、男の視線に恥じらう素振りはなかった。およそ未成年の振る舞いではない。
彼女は裸でありながら、男を前に殻を纏っているのがわかる。
痛々しい――と、俺は密かに思った。
「普通に髪も洗っちゃった」そう言ってドライヤ―を握り、髪を乾かしはじめる。
温風を吹き出すドライヤーの騒音が部屋を満たす。彼女はまだ何か話しているようだが俺の耳には聞こえない。
間をつなぐためのとりとめのない世間話だろう。聞こえていなくても問題なかった。
「そっちはシャワー浴びないの?」
髪を乾かし終えた彼女は言う。
「今日はもう入った。明日でいい」
「えー。そのまま咥えて欲しいの?」
「やめてくれ」俺は眉を顰める。「ここに泊まるのに見返りは要らない」
「…‥えっと……?」
当たり前のことを言ったつもりだったが、彼女は理解できないという顔でこちらを見つめる。少女がリードしていた空気は壊れ、やや気まずい表情で彼女は立ち尽くす。
部屋に上げて二人きり……彼女の振る舞いはごく自然に雰囲気を運んでいた。これまで出会った男達は、なし崩しに肉体関係へ及んだのだろう。
もちろん俺だって人間だ。性欲が全くないわけではないが、見境なく手を出すほど腐ってはいない。それこそ、ここまでの話の流れで未成年に手を出せる男を軽蔑すらできる。
なにより、俺にとってこの人助けは夜間勤務の延長のようなものだ。
「……じゃあ、私はどうしたらいい?」
「何もしなくていい。買ってきた飯を食うなり、眠るなりして過ごしな」
彼女は部屋をぐるりと見まわして寝床を探す。ソファーがあれば、「そこで寝る」と言い出しただろうか。
「私は床でいいよ」
「客人を床で寝かせるもんか。俺はこの椅子で寝る。リクライニング機能もあるからな。君はベッドで寝るといい。
改めて言うが、君は保護されている身だ。俺の指示には従ってもらうぞ。じゃあ、おやすみ」
俺は着替えもせず、コートの襟を立てて鼻先まで埋めると目を閉じた。正直なところ、信用できない部分もあるので眠気が来ない。警戒しているのは向こうも同じだろう。
三分程経っただろうか、さして間を置かずに彼女がベッドから降りた気配があった。足先がシーツを滑り、フローリングに立つ。
足音を忍ばせて、彼女は俺の足元に座った。
「ねぇ、ほんとに何もしないつもり……?」
「……しないさ」俺は薄く片目を開く。「……まさかその年で性依存じゃないだろうな」
「違うよ! そうじゃない、けど……だって、なんにも返すものがないなら、ここにいていい理由は何なの? 私がここに居られる言い訳がない」
「うぅむ――」存外難しいことを考える娘だ。
俺は少し考えるが、彼女の問いはそもそも成立しない。
「――『ここにいていい理由』も『言い訳』も必要ないだろ。子供は本来、安全な夜が無償で提供されるべきだ」
親からの無償の愛というものが、彼女の夜を、朝を、日々を保全するはずなのだ。
それが叶わないとき、社会は彼女を保護する責任がある。
複雑な事情により警察を頼れないから、俺が保護している……誘拐や監禁という事件性を疑われるリスクはあるが、それは俺の責任だ。見返りは求めない。
「過去を聞く気はないが、例えばお前の家出に協力した男が、『助けてやったんだから、わかるよな?』とか、見返りを求めたとして、お前はそれを『助けてもらった』なんて思うな」
「なんで?」
「その夜は決して安全ではないからだ。大事なものを失っていることになる」
少女は真面目に見つめているが、実感が伴っていない顔をしていた。何も失っていないと、そう思っているのだろう。
「安全な夜……」彼女は初めて聞いた言葉を繰り返す。
それはまだ価値を持たない言葉だった。それでも、価値を予感させる言葉として少女の胸に刻まれたのだった。
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目を覚ましたのは昼過ぎのこと。
生活リズムが夜勤合わせになっている俺からしてみれば、これでも早起きをしたほうだ。仕事終わりにすぐ就寝したので前倒しにずれ込んだのだろう。十分に休めたようで眠気はないが、椅子のせいで体は妙に凝っている。
身じろぎをして起き上がり、ぐっと背伸びをした。
大きな欠伸を一つ。ベッドの方へ視線を向ける。
もぬけの殻……毛布に潜った形跡はあるが、彼女はもういなかった。
「帰ったか」俺は独り言ちる。
あまり現実味がない。
もしかしたら昨夜の出来事は夢だったのかと思うが、外出着のまま椅子で眠っているのだからその線はないだろう。大方、家に帰る気になったか、俺相手じゃ稼げないと見限られたか……もしそうだと思うと少し落胆する。
――まあ、仕方ない。救えない夜もあるさ。
俺は重く捉えず、コートのポケットに仕舞っていた財布を確認する。……盗られてはいないようだ。
財布を仕舞うと同時、外の通路を歩く隣人ではない足音が壁越しに聞こえる。
「ただいまー」
ドアが開かれ、彼女は部屋に戻って来た。
「……眠れたか?」俺は問う。
「いんや」彼女はそっけなく答えるが、昨晩の作られた笑顔よりも穏やかに見えた。「あんたの臭いが染み付いたベッドじゃ眠れないよ」
「おっと――」
普通に恥ずかしい。
「――それは申し訳ない」
こればかりは気が回っていなかった。消臭スプレーを吹きかけておくべきだったと悔やむ。と、彼女の手荷物に気付く。よく見ると履物もサンダルからローファーに履き替えられている。
「家に帰れたのか?」
「玄関は鍵がかかってるから、窓から入って自分の荷物を詰め込んで、改めて家出して来た」
彼女は学生鞄を俺の方に突き出した。ぱんぱんに詰め込まれている荷物は着替えの衣類だろうか。
――いや、改めて家出したということは……。
俺が違和感を覚えると、彼女は真面目な顔でこちらを見ていた。
「あの、さ」
「なんだ?」
「しばらく、ここに身を置かせてもらってもいいかな?」
「……児童相談所に連絡するつもりだが」
「それもやめてほしい、です。……親は私を探す気なんかないから、あなたは捕まりません。それは、保証、できるので……」
「子供の保証なんて信じると思うか? 一晩匿っただけでもかなりリスキーなんだ。第三者への連絡は早い方がいい」
「お願いです」彼女はフローリングに膝をつき、頭を下げる。
「……土下座なんて大人の真似事をしても駄目だ。責任能力が君にはない」
「二、三日に一度は家に帰るよ。それなら親は確実に何も言ってこない……だって、いつものことだから」
「そんな生活をしてる未成年なんて、結局『児相』案件なんだよ」
机に置いてある携帯端末に俺は手を伸ばすが、彼女は土下座から顔を上げて、咄嗟に腕を掴む。
「児相のお世話には何度もなってる……それでもこの有様なんだよ」彼女の濡れた瞳が真っすぐに俺を見上げた。
「一生のお願い!」
「一生だぁ?」
「安全な夜が欲しいんだ……!」
俺は思わず黙ってしまう。
安全な夜――それは昨晩、俺が言った言葉だ。そして俺が提供したものだった。
切ない願いだ。
未成年の少女がねだるものとは思えない。
あって当たり前のものを、彼女は切望し、俺を頼っている。
俺は携帯端末に手を伸ばすのをやめ、頭を抱えた。
「はぁ……」
「お、お願い、します……」
「待て、今考えてるから」
数日間、この家出娘を匿うことの危険性を考えてみる。
無断で自宅に泊める行為は誘拐や監禁と疑われるリスクが付き纏うだろう。
親や警察に連絡せず放置しては保護責任者遺棄の罪を問われるかもしれない。
たとえ善意でも、指一本触れなくても、社会的に俺は終わるかもしれないのだ。
――どうする。どうしたらいい。
警察に連絡して彼女の身柄を保護してもらえば俺はこの厄介ごとから逃げられる。
だが、親の薬物使用が判明してしまえば彼女の家庭は確実に壊れる。悲しむだろう。
……それも致し方ないのでは? 元々壊れた家族なら、将来的には悪いことではない。
「家族は好きか……?」
俺は問う。
彼女はうなずいた。
「捕まってほしくない。離ればなれは怖いの」
あまり褒められた親ではないだろうが、家族愛はあるようだ。
どんな親なのか俺にはわからないが、薬物さえ断ち切ることができれば関係は修復できるのかもしれない。時間をかけて解決できる未来があるなら、俺が壊すわけにもいかない。
俺は、どこまで踏み込んでいい?
短期間匿うことで、リスクを負うことで彼女は救われるのか?
「学校は」
「通信制。この格好は外着なだけで、通学してない」
「やめたのか」
「二週間で」
二週間でやめた。か……。
クラスとは馴染めなかったようだ。
「家族は薬物使用の他に問題はあるか」
「ううん」
彼女は首を振る。
となると、問題は二つだけ。
家庭内の不和と薬物問題。
いつかは解決しなければならない問題だが、昨日今日関わっただけの俺がかき乱すには早い。様子を見ながら情報を引き出して、判断する猶予はある。
今しばらくは、俺が安全な夜を提供することが可能だろう。
「……じゃあ、もう少しの間だけ、ここにいていい」
俺がそう言うと、彼女はぱっと笑った。
造花ではない、小さな、薄桃色の花にも似た笑顔が美しかった
それだけで、この選択が間違いじゃないと思わせてくれる。
家族を持たない俺にとってはかけがえのないものに思えてしまう。
「……それよりご飯は食べたのか?」
「まだ、何も」
「そうか、食べに行くか」
「うん。あ、でもお金……」
「気にするな。未成年は金に困ってるくらいがかわいいもんだ」
出所のわからない稼ぎを持っている方がおかしいのだから。
「とりあえず俺はシャワー浴びてくる。君は着替えててくれ」
「え? 制服じゃダメ?」
「三が日に制服なんて目立ちすぎる。ほかの外着はないのか?」
「ないよ」
「鞄の中身は」
「部屋着と下着と、予備の制服」
彼女の返答にため息が漏れる。セーラー服の娘を連れ歩く男……職務質問待ったなしだ。
「待ってろ。たしかサルエルパンツなら男女共用だったはず……」
クローゼットの衣服の中で男女関係なく着れるものといえばそれくらいしか持ち合わせていない。
俺はお目当ての黒いサルエルパンツを引っ張り出してサイズを確認する。多少緩いかも知れないが、腰紐が通っているから縛ればなんとかなるだろう。上はコンビニで買っていた肌着でいいとして、羽織るものを見繕う。
「男物のシャツだが、そういう着こなしだといえば通るか」
俺はクローゼットの中から、ハンガーにかけられたグレー味がかったシャツを彼女に押し付ける。上着には生地の薄い防水防寒特化の黒いアウトドアパーカーを選んだ。地味な配色だが生地の質感で差が生まれているし、なかなか悪くないだろう。
「オーバーサイズだがこれで行こう。着替えてくれ」
言いつけて、俺はシャワーを浴びに行く……と、思い出して振り返りクローゼットの隅を指さした。
「消臭スプレーはそこにあるから」
❖
「――それで、改めて色々教えてもらおうかな」
ファミリーレストランは俺たち以外に客はおらず、店員も最低限の人数で回しているようだ。ほとんどの店が正月休業をしている中で、開いているだけでもありがたい。
注文を済ませて、料理がやってくるまでの間に、いろいろと聞いておきたいことがある。
一夜を共にしておきながら、未だ互いの名前を知らない。
先ずは自己紹介から始めるべきだろう。
「俺の名前は尾鳥春樹だ」
「オトリ? 囮捜査の?」
「いや、鳥の尾と書いて『尾鳥』。春の樹で『春樹』、木は難しい方の漢字で書く。で、君の名前は?」
「饗庭、小夜。……饗庭で『饗庭』。小さい夜で『小夜』」
「じゃあ、小夜ちゃんと呼ぶことにする」
俺の提案に小夜は苦い顔をした。
「なんで下の名前で呼ぶのさ」
「外では親子設定で行かないとだろう。名字で呼び合うと怪しまれる」
「……『ちゃん』は抜きにして。寒気がする」
「じゃ、小夜……俺のことは何て呼ぶ?」
「尾鳥さん」
「お父さんかお兄さんだ。好きな方を選ぶといい」
「いやいやいやいや……待って」
耐えられないと小夜は机に突っ伏した。
「待って、ほんとに無理!」
――俺だってこんな偽装は恥ずかしい。
「逆サバ読んで私が二十三歳ってことにしてさ、もう付き合ってます設定にしよ? 家族のふりは無理すぎ」
耳まで真っ赤にして小夜は提案する。
「本当の年齢は?」
「十七……」
「逆サバも甚だしいな」
「メイクでいくらでもごまかせるから、お願い! 付き合ってる設定にして」
小夜は懇願するように俺の手に指を絡める。
ちょうど店員がやってきて、小海老とアボカドのサラダを運んできた。
つないだ手を振りほどくのも不審に思われそうなので、そのまま料理を受け取る。
「……付き合っている設定でもなんとかなりそうだな」
「でしょ?」小夜は安心したように言った。
「……あるいは兄妹に見えたか」
「それは絶対無理!」
サラダをつつきながら、互いの紹介は続く。
「気になってたんだけど、尾鳥さんって仕事してる?」
「おいおい、あの夜だって仕事してたじゃないか」
「え、待って。……あの夜って昨日のこと? 公園でベンチに座って……なんかしてたっけ?」
「池を眺めてただろう」
「それが仕事?」
俺ははっきり首肯を返す。
「あれでお金が稼げるの?」
「いや、なにも変化が起こらなかったから報酬はないな。歩合制だし」
「ほんとに待って、え、……ヤバめな人?」
「失礼な、俺の職業は『周波数調整員』だ」