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CRUMBLING SKY  作者: 莞爾
エピローグ

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22/22

杵原真綸香


 立春も過ぎてしばらくした頃、肌を刺すような寒波も和らぎ、少しずつ春の気配が近付いて来ていた。葉を落としている公園の木々にも、よく見れば堅い蕾が膨らみ始めていた。

 現在時刻は夜の二時。丑三つ時である。


「うぅ……どきどきしてきた」


 小夜はまだギプスの取れない右腕をブルゾンの内側に押し込み、左腕だけ袖を通している。この防寒着は貝木が持って来た衣類の一つで、割安で譲ってくれた古着でもかなり重宝していた。


「俺は隔日で会ってるから慣れたけどな」


「十七歳の杵原……じゃなくて瀬川さんなったんだよね。入れ替わって」


「ああ。ずいぶん幽霊らしくなった」俺は笑みを浮かべた。「詳しくは言うまい」


 見てのお楽しみというやつだ。


 東伏見稲荷参道を進み、俺たちは公園に辿り着く。

 四阿あずまやには泰然と佇む女学生の姿が見える。切り揃えた長い髪を夜風に晒し千駄山ふれあい歩道橋を眺める地縛霊の瀬川忍――もとい元・杵原真綸香がそこにいた。


「振る舞いまで大人びて来てないか?」


 瀬川の背中に声をかけると、彼女は細い指で横髪を耳にかけながら振り返った。

 伏せた視線、アンニュイな口元に、思わず視線が吸い込まれる。しかし、瀬川がこちらを認め、つぎの瞬間にはぱっと明るい表情で手を振った。


「あ、ぉあーっ! 小夜っちじゃん!! 元気してたかこんにゃろー!」


「お、お久しぶりです、はい。元気でした……」


 もしかしたら小夜も、瀬川の姿に見惚れていたのかもしれない。話しかけられてもどきまぎとしていた。


「なんだー? 全然元気ないじゃんかー」


「いや元気、元気だよ。杵原さんが変わり過ぎてて」


「人見知りしてるってこと? 見た目が変わっても中身は変わらないよ」


 瀬川は自慢の胸を持ち上げ、成長した姿を見せつけて勝ち気に笑う。


「そうみたいだね、にしたってこれは変わり過ぎ」


「どういう意味だぁ?」


「ちょっと、分かってて見せ付けてるじゃん!」


 絡んでくる地縛霊に小夜は笑顔を見せた。

 瀬川の姿は十七歳前後なので、隣に並ぶと本当に気の知れた同輩のように見える。


「小夜っちはここ最近大変だったって聞いたよ?」


「そう、だね。でももう大丈夫」


「本当に? 片腕無くなってるけど」


「あるある。ジャンパーの中にあるの」


 小夜がブルゾンのファスナーを開けると、ギプスを巻いた腕が露わになる。瀬川は「ひぇ〜」と声を漏らして、事件について訊くべきか言葉を詰まらせた。


「話そう。今日はそれを話すつもりで来たんだ」





 小夜は瀬川の隣で欄干に腕を凭せかけ、静かにライトアップされた歩道橋を眺める。そうして饗庭家の抱えていた問題と顛末を語り始めた。


 両親に虐待を受けていたこと。

 同じく、両親が薬物を乱用していたこと。

 それらの異常性に自分が気付けていなかったこと。


「私さ、みんな親に殴られてるもんだと思ってたんだ……野球部とかさぁ、しょっちゅう《《青タン》》作ってるでしょ? 私あれずっと、親に殴られてるんだと思ってた」


「クスリは流石にヤバいってわかってたよ。学校で習うもん。だから人に言っちゃいけないんだって思ってたけどさ、……なんていうか、生まれる前から家がそうあるなら、そういうものなのかなって」


 瀬川は小夜の隣でスカートの裾を捌いてしゃがみ込み、聞き手に回っていた。年長者らしい精神性を持って落ち着いた様子で受け止めている。


 小夜の話は続く。


 元旦の夜。武蔵関公園で俺と出会ったこと。

 安全な夜というものを体験したこと。

 地縛霊と友達になったこと。


「尾鳥さんと一緒に過ごしたのなんて一週間くらいだよ。でも、すごく驚いた……『あぁ、こんなに違うのか』って気付かされたの。殴られないで一日を過ごせることが、こんなに気が楽なんだって思ってさ」


「そっか……もっと早くドッペルゲンガーの力を貰っていたなら、僕が代わってあげたかったな」


「ううん。それも全部終わったこと。誰が犯人なのかはわからないけど、私の親は殺されて、もういないんだ」


 その時小夜はちらりと俺の方を見たのでどきりとした。

 事件当時の流れを知る者として目配せしただけなのだろうが、隠し事を把握しているのではないかという気持ちにさせた。俺は相槌を打てたかどうかもわからなかった。


 一方で瀬川の方はずっとしゃがみ込んだ体勢のままこちらを向いていた。瀬川には――というより杵原には――事件に関与していることを伝えているが、こうして黙っていると存在を入れ替えたはずの中身まで瀬川忍なのではないかと錯覚してくる。


「ま、私のお父さんヤクザだし。どこで怨みを買って殺されてもおかしくないもんね」


「壮絶な話だね小夜っち」


「うん。そうかも。今思えば私の日常は、どこを切り取っても普通じゃなかった」


 小夜は欄干に肘を乗せ、頬杖をついて目を細める。

 瀬川はやおらに立ち上がり、夜空を見上げた。


「僕は今から柄にもないことを言うよ」瀬川は言う。


「なに?」


「時間は人を平等にする」


 哲学だろうか。瀬川は本当に柄にもないことを語り始めた。


「……難しいことじゃなくて、『初めに苦労したら後が楽になる』みたいなことだよ。小夜っちがこれまで大変な思いをして来たんなら、これから先の人生はその分だけ苦労が報われると思う。……そう考えると、気持ちが楽になるでしょ?」


「報われる……のかな?」


「これからは囮のとこで暮らすって聞いたよ? 多少マシにはなるんじゃない?」


「多少ってなんだよ」俺はぼやく。必ずまともな衣食住を約束する覚悟だった。「お前が地縛霊じゃなきゃ招待して自慢してやりたいくらいだ」


「小夜っちは周波数調整員バランサーの仕事に就くつもりなのかな?」


 瀬川は俺の言葉を受け流し、小夜に問いかけた。

 確かに、進路を縛るつもりはないが漠然と周波数調整員になるのだろうという予感はあった。少なくとも小夜には適正がある。


「今のところは、そのつもり」


「なら僕は、龍になって小夜っちを助けてあげるよ。一緒に仕事してあげる」


「本当? 嬉しいかも」


 小夜は満更でもないと瀬川の提案を受け入れ、取り留めのない雑談に花を咲かせる。

 瀬川はドッペルゲンガーの異能を手に入れ、際限なく自己複製が可能になった。近い将来、本当に龍になってしまうかもしれない。

 もしかしたら、貝木を超える逸材なのかもしれないな……。



               ―― 完 ――

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