❖
深夜にも関わらず、住宅街の町並みはぽつりぽつりと灯りが点いていた。
大晦日から夜通しで起きている人達が居るのだろう。
俺は武蔵関公園のベンチに腰掛け、池の水面に反射している空を眺めて過ごしている。
この時間のこの場所が好きだった。
鴨の泳ぐ池をじっと眺めていると、決まって、こんな空想をしてしまう。
――それは、「睡眠中の意識が夜に溶け出す」というものだ。
肉体が睡眠状態に入ると、魂を格納している容器にわずかな隙間が生じる。そこから漏れ出した意識が、目に見えない極小の粒子、あるいは霊素となって大気に拡散される。
人々の意識は大気を漂いながら複雑に交じり合い、結合と遊離を繰り返して微弱な電気を発生させる。この電気信号が睡眠時の夢として現れる。
そして夜通し飛び回った意識は、夜明けとともに自身の容器へ帰還し、狂いなく魂が再構築されることで覚醒へ向かう。
人間は、そうして夜ごとに意識を手放し、崩壊と再構築を経て、自我の連続性を保っているのだ。
今はまさに、人々の意識が再構築されつつある時間帯。そう考えると、眠らずに池を眺めているこの自己という存在が、特別なものに思えてくる。
この世界を見守る、特別な役割を俺は果たしている。
孤独で、静かで、妙に救われた気分になる。
空が白み始め、夜間勤務ももうすぐ終わりだ。
後には清廉な朝靄が漂い、武蔵関公園はどこか神聖な空気に包まれる。
始発電車の走行音だけが、このひと時を現実へと繋ぎとめる。
そして――誰かの足音が一つ。
その足音は、木々が枝を広げている小道を進み、こちらへと近づいていた。
おそらくベンチに座る俺の存在にはまだ気づいていないのだろう。
俺はわざと姿勢を変えてベンチを軋ませ、さりげなく存在を主張した。
「っ……」
息を呑む声。足音が止まった。
俺は白みかけた公園に立つ人影を観察する。
――不用心だな……。
こんな時間に娘が一人なんて、新年に浮かれているのだろうか。
いや、どうにもそうではない。
彼女の纏う雰囲気は陰鬱としていて、新年を迎えた人の顔つきではない。
浮かれているというより、沈んでいる――そう表現する方が正しいように思えた。
街灯に照らされた少女の瞳は、警戒の色を浮かべて野良猫のようにこちらを見つめる。
着ているのは冬用の制服。おそらく学校指定のものだろう。この町で同じ制服を見かけたことがある。……もちろん、日中にだ。夜に見るものではない。
黒いセーラー服の彼女を見て、「通夜だ」と思った。
まるで喪服の代わりにそれを纏い、不吉を身に宿しているかのようにすら感じられた。
「……おはようございます」
俺は沈黙を断ち切るように、挨拶をしてみた。
どれだけ見つめ合っていたのか分からないが、相手は女学生だ。これ以上無言でいれば通報されかねない。新年早々、警察のお世話になるのは御免だった。
「明けましたね、新年」
場の空気を和ませようと、処世術めいた世間話を投げかけてみる。
彼女は視線をそらし、短く応えた。
「……どうも」
それきり口を閉ざしたまま。しかし立ち去ることもせず、俺のベンチとは別のものに腰掛けた。
スカートをまさぐり、何かを取り出す。
握りしめて数秒、彼女の手元が赤く灯った。電子タバコらしい。
――セーラー服なのに、喫煙……?
深夜から夜明けにかけて、この一画は俺の場所といっても過言ではない。それほどまでに連日ここで夜を過ごしている。
誰かと出くわしたことはなかった。だから、ここは俺の縄張りだという思いがあった。ここの治安を管理しているのは俺だ、と。
なのに――なぜ今日に限って少女は現れたのか。まさか幽霊ではないだろうか。
俺は彼女に対して興味を抱き、もう少し話しかけてみることにした。
「ここにはよく来るのかい?」
「いや」
彼女は煙を肺にためてから吐き出し、少し鼻をすすって答えた。
その所作は慣れたもので、喫煙は今日明日に始めたものではないようだった。
「……ちょっと気が向いて、散歩にきた?」
「……いいえ」
「じゃあ、そうだな……」俺は少し考える。「普段から家出をしていて、大晦日の夜は暇をつぶせる店がないからここに来た、とか――」
「あのさぁ」声の調子が険しくなる。「次話しかけてきたら通報するから」
彼女は携帯端末を印籠のように見せつける。割れた画面は目にまぶしく、俺は銃を向けられ降伏するように両手を上げた。
……会話する気分ではなさそうだ。
とはいえ、なんとなく事情が見えてきた。あの電子タバコは親からくすねたか、万引きでもしたのだろう。
遠くで知能の低そうなバイクが走り去る。
都道を法外な速度で飛ばしているらしく、曖昧な方角から駆け抜けて曖昧な方角へと消えて行った。
武蔵関公園では、鴨が池から飛び立った。
薄明の空を映していた池の水面は大きく波打ち、その様子を少女はじっと眺めていた。
口元から漏れた煙が風に乗ってたなびいていく。
それぞれの夜が展開される。朝が迫るまでの、残り少ない自由な時間が流れていく。
「家」
不意に彼女は呟いた。
『イエ』――その語感は否定を意味する『いや』でも『いいえ』でもない。建物、あるいは帰る場所としての『家』なのだと理解するのに時間を要した。
「家、がどうしたの?」
俺は恐る恐る返答した。彼女がこちらに話しかけたのか、わからなかったからだ。
彼女は脅しの効力が正しく発揮されているのを確認して、満足そうに煙草をくわえ、大きく吸い込んだ。
「家に帰りたくないんだけど、あんたは近くに住んでんの?」言葉が白く煙る。
「本当に家出少女ってことか。何があったの?」
「いちいち探るのやめなよ」
――……苦手なタイプだ……。
俺は厄介ごとに踏み込んだことを後悔する。
公園のベンチに下手な縄張り意識を持ったせいで、未成年の家出少女と関わってしまった。
「あんたが言った通り、今日はお店どこもやってなくてさ。もうここで野宿するしかないかーって思ってたんだよね」
「未成年だろう? 危険すぎる……帰りなさい」
「帰れないんだよ」
「なんで――」
「だから、いちいち探んなって」
苛ついた表情で俺を睨む。
推察するに、家庭に不和を抱えているようだ。短い会話の中で、彼女の言い分が『帰りたくない』から『帰れない』に転じていることから間違いないだろう。
――心配してくれる親はいないのか。
不審者、誘拐、殺人――幸いなことにこの地域はこれらの事件とは無縁だ。それでも彼女を放置して立ち去るのが正解とも思えない。
立ち振る舞いから、おそらくこういった夜を過ごすことに慣れている。
少しの間、彼女は煙草の火を見つめていた。
「ねぇ。お腹すいたし、ご飯食べようよ?」
彼女の態度が変化した。
いや、攻め方を変えてきたのだ。
明らかにこれは『売り』の誘いだろう。
男に近づいて「家出している」と伝え、それとなく一宿一飯の援助を匂わせる――それが彼女の狙いか。
「なら、俺が買ってもいいのか」俺はベンチから立ち上がり、コートのポケットから財布を取り出した。
「は――」
「お前はいくらなんだ?」紙幣をあるだけ取り出すと扇のように広げ、セーラー服の肩を掴んで突き付ける。紙幣が鼻先を叩いた。
「いくらって……」
彼女は俺の豹変した態度の大いに驚き、目を丸くして怯えた。
きっと即断即決する人間には見えなかったに違いない。
もちろん、俺は彼女を買う気はない。
未成年に大人の怖さを教えるための、脅しに対するちょっとした意趣返しだ。
つかんでいた肩から手を離し、財布をしまう。
「……なんてね。子供が大人をどうこうするなんてやめたほうがいい。嫌でも家に帰りなさい。俺が送ってやる」
「家は嫌」
「未成年の深夜外出は補導対象だ。売春行為はもっと許されない。もちろん『コレ』も」俺は電子タバコを指さす。
「帰りたくない」
「なら交番に連れて行こうか。それとも俺が通報してもいいぞ」
彼女は狼狽え、事態が思った方向に転がってくれない苛立ちに舌打ちして頭を掻いた。
「なんで……助けてくれないの……」
彼女の強がる仮面が剥がれかけた。本心を垣間見た気がした。
潤んだ瞳、心が挫ける気配。
見知らぬ少女を泣かせてしまうのではと、良心が痛む。
未成年と大人には与えられた権利の性質に明確な違いがある。
『安全』を親から与えられるのが未成年の特権であり、自らの裁量で整えるのが大人の特権である。未成年でいる間は無償の愛が手に入り、親に支えられている期間に、自立する能力を獲得し、大人の一員となるのだ。それまで未成年は大人の振る舞いをすることを条令が許さない。
だが、権利を満足に与えられない未成年は、自衛しなければならない。
大人らしく振舞うことでしか、身を守る方途がないのだ。
親の支えを持たない、無償の愛を得られない子供は自立へ向けてもがき苦しみ、歪な社会に引き摺り込まれてその一生を日陰で暮らすこととなる。
彼女はきっと、そんな子供の一人だった。
「……本当に困っているなら、やっぱり警察を頼った方がいい」
俺は真摯に提案するが、彼女は頑なに首を振る。
「警察はダメ……」
「なんで駄目なんだ?」
「探らないで」
「事情が話せないなら俺が助ける義理もない。もし話してくれるなら、そして俺が納得できる理由なら、リスクを負ってでも今夜君を保護しよう」
彼女は閉口し、俯いてしまった。
だがコートの裾をつかんで離さない。俺を留め置いて、言葉を選んでいるようだ。
やはり面倒事の匂いがしてきた。
しかも報酬が支払われる可能性が相当低い。
「……誰にも言わないって約束できる?」
覚悟を決めたように、彼女は切り出した。
「言わない」俺は彼女の目を見て即答する。
「本当に約束してね」彼女は俺の耳元に唇を寄せて、手で覆って囁いた。「私の親は、多分、多分なんだけど……クスリをやってると思う」
「クスリ? それは違法ドラッグという意味か?」
俺は想像の上を行くカミングアウトに耳を離し、彼女の顔を見つめた。
「種類は何だ?」
「わかんない。なんか粉みたいなやつを鼻から吸うの」
「スニッフィング《粘膜吸収》か……」
「だから警察はダメ。通報も補導も嫌。でも帰りたくない……ねぇ、いいでしょ? 私は話したんだから泊めてよ」
確かに筋は通る。家に帰りたくないのは本音だろうし、警察を頼れない事情も破綻はない。出任せの嘘を付いているわけではないようだ。
俺は腕を組み、暫く思案する。
正義感からここで通報したとして、その選択が彼女の人生を大きく変えてしまうかもしれない。安易にそんな行動をとるのはためらわれる。
それであれば、多少リスクを負ってでも保護をしたほうが良さそうだ。
家庭の事情を踏まえると一夜程度の朝帰りで問題にはしないだろう。本当にクスリをやっているのであれば、親の方から警察に通報することもない。
「……わかった」
「本当!? やった」
「とりあえず一晩だけだ。一晩保護する」
少女の表情が造花のように華やいだ。援助が成立したとき、こんな顔をして男の肩に抱き着くのだろう。
「えへへ、助かっちゃった。ご飯は食べる?」
溜息が喉元に引っかかる。
世話をするとなると、飯も俺が用意せねばならないのか……それもそうか。
「……俺にとっちゃ朝飯だな。帰って一度寝るが、ファミマに寄って好きなものを買えばいい。それでいいか?」
「おっけー」
すっかり涙は引っ込み、彼女の態度は気安い。
現金な娘だ。これまでもそうやって、強かに生きてきたのだろう。
武蔵関公園の遊歩道を歩き、俺は家へと案内する。
空はすっかり明るい。携帯端末を見れば時刻は六時に迫っていた。
仕事を切り上げるにも丁度良い時間だ。まだ街には人の姿はなく、少女を連れて歩く姿を見られる事もない。三が日の初日なのだから、外出する人はそういないだろう。