解明
ここからは瀬川が説明を引き継いだ。
「饗庭崇と愛美、一人ずつ面会したわ」
面会窓のある個室に監視カメラと警備が一人だけ。
瀬川は『児童相談所からの書類を持ってきました』と言って、手に下げた紙袋を床に置いて中をまさぐる。
そこで初めて、書類以外の物に気付いた。……という演技をした。
紙袋から取り出したのは、なんの変哲もない160ミリリットル缶の麦茶である。監視カメラに残されたとしても、これを毒物だと怪しむ者は居ないだろう。
瀬川は警備を担当していた若い警官に伺うような視線を送った。『差し入れを渡してもいいですか?』という意味を込めて。
飲料缶程度なら問題視されないと判断され、瀬川はそれを饗庭崇に向けて差し出す。
「無造作に取り出したふうを装って警官に缶を見せた後、上下逆さに缶を置いたわ。相手がそれを見たことを確認してから、横に転がしたの。面会窓の隙間から渡すために」
瀬川は当時の行動を詳細に語った。
「缶を逆さにすることに何の意味が?」
という貝木は問いには俺が答える。
「缶の底に沈殿物があることを示す。つまり『この差し入れはただの茶じゃない』と伝えたんだ」
渡す品物の天地を返す――この所作は薬物密売に関わる者にしか通じない暗号だ。饗庭家の両親が常用している薬物の種類までは把握できていなかったが、小夜からは『粘膜吸引』していると聞いていた。その手の薬物であれば缶飲料に偽装して密輸されることがある。売人から取引しているのであれば、《《缶を逆さに置く》》意味が通じるはずだ。
貝木は、俺が内に秘めていた計画的な殺意を目の当たりにして息を呑んだ。
瀬川が説明を続ける。
「『児童相談所からの差し入れみたいですね。よろしければどうぞ』……そう伝えると、饗庭崇は逆さの缶に込められた意味をきちんと汲み取ったわ」
缶の上下については監視カメラに捉えられる可能性があった。
しかし、警察署内に設置しているカメラは専ら容疑者か警官を見ている。強引な捜査が行われていないか、容疑者に怪しい動きはないか。面会人には意識が向いていないものだ。
そのうえ、画素数も低ければズーム機能もない安価なカメラである。上下どちらに置いたか、後から確認することはできないだろう。
「見張りの警察は気付かないものなの?」
「ええ。気付かなかったわ」
「薬物取締に関わる警官でない限り目を光らせないだろうな」
たとえ逆さまに置かれているのを見たとしても、瀬川は缶を置く際に視線はずっと紙袋に向いていた。偶然逆さまに置いただけだと言い逃れができる。
「あとは児童相談所からの必要書類を手渡し、別に世間話をする必要もないわ。さっさと出ていって、同様の手順で愛美にも麦茶を渡し……あとはニュースの通りよ」
『西東京市・児童虐待事件の両親、拘置所内で急死』――そして司法解剖により毒殺の疑惑が浮上し、容疑者として《《尾鳥春樹》》が連行された。
「ここが繋がらないわ。容疑者は瀬川になるはずよ」
貝木は腕を組み、俺を見る。
「名前通り、俺が『囮』になったんだ。瀬川の後に俺も面会して、詰れるだけ罵詈雑言を浴びせた。『饗庭小夜を助けた第一通報者が事件の詳細を知り、行き過ぎた正義感から親を罵倒する』……それだけで印象操作は抜群に働いたよ」
「囮も毒物の差し入れを?」
「ダミーとして小夜の服を差し入れた。灯油の染みで黒ずんでいたし、成分偽装に殺虫剤も振りかけておいたから有害成分が検出されたはずだ。……案外、饗庭の両親が使用していた薬物の成分も付着していたかもな」
これで饗庭崇と愛美の急死に関する疑いは成人男性に集中する。
真犯人が女子高生の方だとは誰も思わない。
その女が瀬川であるなどとは、絶対に考えないだろう。
「犯行手段はわかったわ。最後に、《《瀬川の外見が指名手配の顔と違う》》理由と、杵原真綸香を名乗る経緯を教えて」
「ああ。……だが、貝木はもうわかってるんじゃないのか?」
「うすうすわかっていても、だよ」
貝木は不機嫌そうに続ける。
「私は探偵ごっこがしたいわけじゃないの。自分の口で語りなさい」
自分の言葉で罪を告白しろ――貝木の主張は正しい。
代弁されることで説明責任から逃れようなどと、甘えてはならない。
「……犯行後の問題は三つだ」
一つめは、瀬川の身分。このままではずっと逃亡生活を余儀なくされる。饗庭夫妻毒殺の容疑は速報段階では俺に向けられているが、缶を調べれば毒物が検出されるだろう。紙袋を持たせたとされる保護団体の人間は潔白だから、いずれは女子高生が犯人とわかる。そうなれば十七歳の体ももう使えない。
二つめは『初恋の成就』の達成。これが出来なければ俺も殺されてしまう。全ておしまいだ。ドッペルゲンガーは例外案件の異能だが、先の事情により俺一人でこの問題を解決しなければならなかった。
三つめは、小夜を救うこと。そのためには俺が殺されることはあってはならないし、警察に捕まってもいけない。小夜の前から姿を消すことも避けたかった。
「瀬川を警察に売って、囮は逃げればいいじゃない」貝木はぶっきらぼうに言う。
「逃げられないわよ。毒殺を遂行した時点で分岐点が生じているもの」
饗庭の両親を殺す人生と、殺さなかった人生の分岐点。
これが瀬川の武器となる。裏切ることは不可能だった。
「とにかく厄介なのは瀬川の異能だ。だが、俺はこの異能を利用して状況を打開する方法を閃いたんだ。瀬川にもう一度取り引きを持ち掛けた」
「どんな取り引き?」
「貝木が言い当てていたじゃないか。『存在操作』だ。瀬川には究極の分岐点からやり直してもらうことにした。
それは、『もし、瀬川忍ではなく、別の誰かとして生きていたら』という根源的な分岐だ」
「人生をまるまるやり直したってこと?」
「やり直しというか、他人の人生を乗っ取る感じだな。現に瀬川はもう戸籍も体も別人だ」
「そんなことができるの?」
「できたよ。協力者のおかげでな」
「協力者……」
貝木は眉間に皺を寄せている。誰の人生を乗っ取ったのかを考えているわけではない。
瀬川は他でもない『杵原』を名乗っているのだから協力者は明白なのだ。
「じゃあその外見は、真綸香ちゃんが大人になった姿ってことね……」
貝木が渋面をしているのは、不服だからに過ぎない。事故により眠り続ける肉体。懸命な治療の果てに地縛霊となった魂。杵原真綸香がこのような形で大人になることに納得できていないのだろう。
俺は自己弁護をするように語る。
「本来の杵原は生命維持装置がなければ生きていけない。もう長いこと見舞いに来る人も居なくなって、両親も資産を溶かしながら意地になって装置を稼働させている。それでも回復は絶望的だった。
一方で瀬川は、身分まるごと別の誰かと入れ替える必要があった。乗り換えるべき別人の身分を求めていた」
「この取り引きってさ……真綸香ちゃんには何の得があるの?」
貝木は問う。
不死の帯域に棲む地縛霊は帰るべき肉体を奪われ、さらに殺人犯の身分を請け負うことになる。協力したところで損しかないように思えるが、結果として瀬川と杵原は存在を入れ替えている。取引が成立しているのだ。
あの地縛霊はどんな利益を手に入れたのか。あるいはやはり……騙したか。
「杵原……いや、今は瀬川と呼んだ方がいいか。永遠の十四歳を自称していた幽霊には夢があるんだ。それを叶える取り引きとして納得してくれている」
「騙してないってこと?」
「ああ。喜んでくれたよ」
「真綸香ちゃんが納得する取引……どんな夢なの?」
「書きかけの報告書は目を通しているのに、提出済みの経過報告は読んでないのか」
俺が皮肉を言うと貝木はむっとした表情になった。
「あいつの夢はな……龍になることだ」
それは、浮遊バクテリアの集合体。
超巨大な霊素可視化現象であるところの『龍』。
地縛霊である彼女の目標は、荒唐無稽で前途多難な夢だと思っていた。なぜなら、龍ほどの巨大な幻想を作り上げるには彼女一人では足りないからだ。
多くの人間のイメージが流れ込み、複雑に混ざり合うことで龍はその巨体を構成する。かといって、杵原が大勢の他者からなるイメージを取りこめば、体積に比例して彼女の人格が薄まってしまう。龍を生み出すことはできても、杵原の意思は反映されなくなってしまうのだ。
そんな、実現不可能に思えた夢。それを叶える方法を俺は見つけた――あの武蔵関公園で。
「……二十二時だ。そろそろ出てきてもいい頃だろう。おい、『瀬川』」
俺は夜の東伏見公園で呼びかける。
寒空に煙る吐息のような靄が木造デッキに蟠る。
浮遊バクテリアから展開されたホログラムがフラクタル図形を描きながら、少女の肉体を構築し始めた。
「……馴れ馴れしく呼び出すなぁ」
十七に成長した姿の地縛霊が俺たちの前に現れた。
黒いセーラー服を着た瀬川忍だ。
「これが、真綸香ちゃん……?」
「ん? おぉー!?」
瀬川はふわりと浮遊し、貝木に飛び掛かる。
「椛じゃん久しぶりー!!」
浮遊バクテリアの体を擦り付け、再会を喜ぶ瀬川。
貝木の方は気持ちの整理がつかず困惑する。
「元気、みたいね……? 真綸香ちゃん」
「そりゃあね。僕は病気しないし。それに、いいものも手に入ったんだよ」
「いいもの?」
貝木の目が光る。取引で得たものが明かされると考えたのだろう。
対する瀬川は、満面の笑みで自身の胸を持ち上げた。
「見てよこれ! 超でっかい」
「違うだろ」思わず突っ込まずにはいられない。
「えへへ! いい体でしょー?」
「真剣な話をしてたんだぞ。お前は俺たちの会話を聞いてなかったのか?」
「聞いてたけど……だってシリアス過ぎない? 私には無理だよあんな会話」
中身は相変わらず騒がしいままだ。
そんな様子を見て貝木も毒気が抜けてしまっている。
「ほんとに入れ替わってる……」
「だろう? ちゃんと納得できる落としどころだ」
「じゃあ、真綸香ちゃんが取り引きで手に入れたのは、瀬川忍の存在そのものと、……異能の力ってこと?」
俺は手柄顔で鼻先を指で掻いた。
「そうだ。瀬川は杵原になって警察から追われない身分を手に入れた。異能も失って今はただの一般人だな。
杵原は使い道の無い肉体を譲り、瀬川と存在を入れ替えた。そのおかげで分岐する力を手に入れた」
「そうそう。僕が手に入れたのはおっぱいだけじゃないんだよ――」
「綺麗な見た目だけじゃなくて」「僕たちのことだよね」「分岐点ってホント最高!」
不死の帯域:瀬川忍は獲得した異能を使って分身を呼び出した。
全く同じ姿をした十七歳の少女が貝木の横に、杵原の後ろに、俺のそばに出現する。
「使いこなしてるな」
「まぁねー」
瀬川は満足そうに笑う。分身たちもそれぞれが個別の反応を見せて、主人格の瀬川の中へ戻っていった。
「こんなことって……」貝木は呆気に取られ、言葉が続かない。
「……どうだ? 貝木よ」
「え?」
「小夜の問題も、瀬川の異能も、杵原の夢も解決したぞ」
家族に絶望しそれでもあこがれを捨てられない小夜には、新しい家族を。
子を産めないことで家庭が崩れ去った異能の殺人犯には、新しい人生を。
事故によって地縛霊となり龍になることを夢見る娘には、新しい能力を。
《《歪な彼女たちの存在を整え》》、俺はすべてを解決した。
「周波数調整員の役割を全うしたと言いたいの? ……こんな仕事、報告書には書けないでしょ」
「ああ、何度も報告書と向き合ったが、提出できそうにない」
「世間だって囮の働きを認めないだろうね」
「そこは覚悟の上だ」
「『共犯的真実』ってことか。……でもまぁ、納得したよ」
「そうか――」
俺は肩の荷が下りたように緊張を解いた。
思い返せば年明けから怒涛の忙しさだった。……厄年だったりするのだろうか。
ともあれ、万事解決だ。我ながらいい仕事ができたと思う。
惜しむらくは、これが報告書には書けないということだ。
それでも俺は満足だ。
この静かで騒がしい夜の空気を肺にため込み、一息に吐き出す。
「――そう言ってもらえるだけでも助かるよ」




