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CRUMBLING SKY  作者: 莞爾
第七話 都市の幽霊 下
13/18

❖❖

 日付は一月六日。

 饗庭あえば小夜さよは尾鳥との口論の後に部屋を飛び出し、誰もいない武蔵関公園で時間をつぶしていた。

 懐に仕舞っていた電子タバコに気付いて卓の上に取り出すと、しばらく眺める。


 結局、彼女は火をつけることはなく、懐に仕舞った。


「追いかけてこなかったな……」


 当然か。と、饗庭小夜は諦観する。


 ――尾鳥さんのところを抜け出したのは私の方だ。


 すっかり日が昇ったのを見届けると、頃合いを見てベンチから立ち上がる。

 自宅に辿り着くと玄関には入らず、荒れた庭の横を進んで隣家との境にあるコンクリートブロック塀をよじ登り、自室の窓から帰宅する。


「おかえり」


 母の声がした。


「え……?」


「何よ。文句あるわけ?」


 母親は娘に対し脅すように言う。論理を跳躍した、理不尽な怒りが兆す。

 饗庭小夜は、一瞬でも薬の抜けた優しい母なのではないかと期待してしまった自分を呪った。


「あんたさ、最近いないけど、サツにバラしてんじゃないわよね」


 小夜は首を振る。


「あの、さぁ……」


 恐る恐ると言った調子で母親に声をかける。


「警察には言ってないよ。だけど、その……変な薬……? やめてくれないかなって……」


 そんな饗庭小夜の提案に、母親は無言で見つめた。

 娘から面と向かって薬物使用を咎められるのは、初めての出来事だった。

 母親のとろけ切った脳内で思考が巡る。娘が警察に相談する可能性、すでに別の誰かに伝えている可能性、自己保身のためにはこれ以上娘を外に放り出すわけにはいかない。


「……馬鹿なこと言うんじゃないよ」


 母親は小夜の部屋に押し入り、物干し竿にかけてあるステンレスハンガーに手を伸ばした。

 小夜は。「あぁ」と思った。「いつものだ」と悟った。


 大事に抱えた希望の卵を守るように、静かに身を丸め、毒虫のように蹲った。

 身を裂くような痛みが背中に走り、唇を引き結んで顎に苦悶の皺が寄る。


 これが饗庭小夜の世界。

 これが饗庭小夜の日常。

 これが饗庭小夜の普通。


 ――今は思い出したくないのに……。


 小夜は慣れ親しんだ痛みに心が折れそうになった。


 ――なんで、尾鳥さんの顔が頭に浮かぶんだろう。


 饗庭小夜は知ってしまった。私の世界は間違っていると。

 小夜は体験してしまった。安全な夜を過ごす日常を。

 私は気付いてしまった。これが異常だってことを。


「いい加減にして!!」


 私は燃えるように痛む背中を反らして立ち上がり、母の腕を掴んだ。


「もううんざりだよ! こんな人生!!」


 手に持っていた卵を投げつけるように、私は母親に初めて抵抗した。

 とても怖かった。けど、今まで感じたことのない高揚感で脳が痺れる。


 力任せに掴んだ母の腕は、今までさんざん痛めつけてきた割には対して力強くなかった。簡単に押さえつけることができて、「勝てる」と直感した。私は万年床に押し倒し、馬乗りになる。


「全部警察にバラす……! 私への仕打ちも! わけわかんない薬も!!」


 今まで出したことのない大声が出た。妙な全能感に笑みがこぼれる。こんなに弱かったんだ……私の母親は。こんなに、こんなにどうしようもなくて、ちっぽけだったんだ……。


「おい小夜」


 横から呼びかける声。

 私は咄嗟に振り向くと、顔面に足蹴りを受けて星が散る。鼻がじんと痛み、血の味が舌に広がる。


「調子こいてんなよお前、ぶち殺すぞ」


 その言葉遣いで父親だと理解する。自室で騒いだせいで駆けつけたのだろう。


「おい、灯油もってこい」


 父は言う。私にじゃない。母に指示したのだ。

 私は視線でい抜かれたまま、母を追いかけることができず、父を睨み返すことしかできない。


「ポリタンク全部だ!」


 言葉の意図が読めなかった。父がなぜ灯油を持ってくるように言ったのかわからない。ただ、とても不吉な予感がしていた。


 逃げ出した方がいい。本能ではわかっている。しかし父の威圧感に身動きができない。帰宅することを引き留めていた尾鳥さんのことを思い浮かべて、私はここに戻ってきたことを後悔する。





 悪夢のせいか二度寝をする気にならなかった。

 俺はPCデスクの前に座り、書き溜めていた報告書をぼんやりと眺める。


 正直なところ集中力は皆無だ。

 就寝前の口論の果てに出て行った小夜のことが頭に思い浮かんでは、あの断崖の光景が脳裏に展開される。


 俺の中では、夢は浮遊バクテリアと同じ解釈だ。

 睡眠中の意識が夜に溶け出し、霊素となって他者の意識と感応し合うことで夢の映像が生成される。

 だからあの悪夢も、俺に影響を与えた他者の意識があるということだ。


 それはどこかで息を潜めているであろう瀬川忍であったり、新潟に帰った貝木椛であったり、虐待を受けている饗庭小夜であったりする。


 パソコンの画面の時計が『12:00』と表示される。


「……たまには、昼の公園にでも行くか」


 そう思い立ち、武蔵関公園へ出かける準備を始めた。


 昼日中の公園はそれなりに人が集い、主に老人や子連れの母が多かった。池の外周をウォーキングしている人も見える。夜の静謐とは対照的な活気で満ちていた。

 もしかしたら小夜はここに居るような気がしたが、これだけ人が多いと別の場所に移動したかもしれない。いや、やはり帰ったのだろう。


 俺は未練がましく空想に耽る。

 あのとき、うまく引き止めることができていれば、小夜は家に帰らなかったのだろうか。もっと前の段階から少しずつ普通の日常を体験させていれば、家庭の問題がいかに異常であるかを理解してくれたのかもしれない。


 ――普通、か……。


 『普通って、なんだよ』


 小夜の言葉が脳内で再生される。


 ――なんなんだろうな。普通って。


 人並みの幸せを感じられる生活が『普通』なのだろうか?

 『普通が一番だ』という言葉が示す生活水準は、その実、多くの人間を切り捨ててはいないだろうか?

 小夜の人生は俺から見て確かに不幸で、普通ではなかった。しかし、小夜本人からしてみればこれが普通なのだ。虐待される日常も、薬物に依存する親も、他人の生活と比べて劣っていることも含めて、小夜の日々が形成されている。


 翻って、俺は普通だろうか?

 小夜に高説を垂れた俺は、それが言えるような人間だったか?


 ――違う。


 俺もまた、世の『普通』からあぶれた人間だ。

 『普通』の平均値から逸脱した不良品の一つだ。

 この昼の公園に居ていいような人間ではない。


 『普通』であることに挫折したからこそ、特別な自分であろうとした。

 本当は青空の下で生きていたいくせに、世界を見守る夜間勤務に落ち着いている。俺は……都市の幽霊だ。


 それなのに、小夜が自分なりに築き上げていた平穏を、独り善がりな正義感で不躾に踏み入って、壊してしまった。


 恥を悔やみ、俺は仰け反るようにベンチの背凭れに身を預けた。

 冬の薄曇りな空は穏やかな青色をしている。雲間から差し込んでいる陽光が砕けていた。





 夕暮れになり、武蔵関公園はすっかり人気のない場所に変わる。

 俺は日がな一日、家と公園を行ったり来たりして無為な時間を過ごしてしまった。心のどこかで小夜に会えないかと探していたのだ。


 だが――そうすぐそこに夜が迫っている。

 仕事の時間だ。


 今日の業務内容はきっと瀬川忍の案件だろうという予感があった。彼女に対する返事を、決めなければならない。


「……尾鳥君って結構暇なのね」


 申し合わせたように、瀬川が木陰から現れた。

 彼女はどこからか調達したであろう冬用の学生服を纏い、首元は長いマフラーを巻いている。

 こうして見ると本当に、初恋の記憶が色鮮やかに甦るようだった。しかし同時に、不吉な気配を纏うセーラー服の家出少女とも面影を重ねてしまう。


 ――まぁ、瀬川の方が一層凶悪なのだが……。


「暇に見えるか? これでも忙しくしているんだがな」


「そうかしら? 日が暮れるまで公園でぶらぶらしていたようにしか見えなかったけど」


「……いつからいた?」


 瀬川は不敵な笑みを浮かべるのみ。ずっと見張られているのであれば、やはり俺の住所は特定されているだろう。抱えている仕事の内容も、おそらく把握されている。


 ――勝てそうにないな。


 俺は密かに結論付けて、かえって体が軽くなる。

 縄張りとして居座っていたベンチから立ち上がり、公園入口にある自動販売機へ向かった。


「奢ってもらったからな。今日は俺が買うよ」


「あらうれしい」瀬川は後ろ手に組んで付いて歩く。


「カフェオレでいいのか?」


 瀬川は頷く。俺は硬貨を入れてカフェオレ缶を選択し、手渡した。


「ありがと」


 少女の指が触れ、缶を受け取る。さりげない接触ではあるが、確実にわざとやっている。


「ブランコのところにいるわね」


「ああ」


 ――さて俺は何を飲もう。


 一人自動販売機と向き合って、商品を眺める。下段は背の低い子供用にジュースが並んでいるが、上段にはしっかりコーヒーがラインナップされていた。……ますますモーニングショットを選んだ瀬川の意図が謎だった。


 とはいえ、あの日初めて飲んだコーヒーはなかなか悪くない味だった。

 なので俺も瀬川に倣い、同じ商品をリピートした。


「……あら、ふふ」


 ブランコに座って開栓した俺を見て、瀬川は笑った。

 同じ商品を選んでくれたことが嬉しかったのだろうか。


「それ朝専用コーヒーよ」


「わかってるよ……」


 ――お前が選んだんだろうが。


 納得いかないが、俺はコーヒーを一口啜り、気を取り直す。


「早速だが、本題に入ろう。瀬川には待ってもらったしな」


「そんなに急がなくてもいいのに。でもちゃんと考えてくれたのね」


 瀬川が白々しく喜んで見せた。

 選択肢なんてないような状況に追い詰めておいてよく言う。


「でもね――」と、瀬川は人差し指を立てた。「少し早いわ。あと二分待ちましょう」


 ――早い?


 瀬川の言葉の意味を理解できなかった。二分待って、どうなるんだ?


 俺はそう問いかけようとしたが、瀬川は未だ口元に指を立て続けている。『静かに』ということだろう。


 静かな夜。

 池で鴨が羽ばたく音が一つしたきり、東京とは思えない沈黙が包んだ。


 一分経ち、俺は眉をひそめて瀬川の顔を窺う。あんまり真剣だったので、携帯端末にアナログ時計を表示して秒針を追いかけた。


 一分三十秒。四十秒。五十秒……。


「来たわ」


 不意に言う瀬川の声にぞっとして、俺は警戒する。何が来たんだ……?


 鬱蒼とした木々の闇をゆらゆらと歩く人影、足元は覚束おぼつかず、いまにも倒れそうな少女の陰には見覚えがあった。


「……小夜――!?」


 饗庭小夜だ。


 俺はブランコから弾かれるように駆け出し、今にも倒れそうな小夜を支える。すぐに違和感に気付いた。立ち昇る異臭は何だ……?

 全身が濡れていて、氷のように冷たい。


 触れた衣服から染み出す液体が妙にひやりとしていた。気化しやすい謎の液体と、独特の臭い――灯油だ……!


「おい……! 大丈夫か!!」


 小夜の体を揺する。冬の外気に曝されて肉体から熱が奪われていた。震える体力すら残っておらず、俺の腕の中で意識を失っていた。


「ひどい親もいるものね」


 静観していた瀬川は言う。

 どういうわけかは知らないが、彼女はこうなることを予知していたみたいだった。当然のように小夜の家庭の事情も把握している口ぶりだ。


 ――いや、今はいい。


「話はあとだ! 救急車を!!」





 閑静な住宅街のはずが、その夜だけは別世界だった。

 武蔵関公園の前に止まった救急車の赤色灯が、裸の枝を茜色に染めていた。年明け早々、異様な騒ぎに引き寄せられた野次馬たちが、冷たい吐息を漏らしながら騒然とした空気を作り出す。


 小夜は担架で運ばれ、救急隊員の「低体温と外傷あり!」という声が聞こえた。俺は距離を取ったまま、それ以上近づかなかった。

 あくまで通報者――その立場を崩せば、すべてがややこしくなる。付き添いの申し出もせず、警察の誘導でそのまま事情聴取を受けることになった。

 瀬川の姿は、気がついたときにはもうなかった。


 後で医師から聞かされた診断は、予想以上に酷かった。

 右前腕の橈骨とうこつ骨折。灯油の揮発による中等度の低体温症。腹部には打撲痕があり、臓器――具体的には肝臓に軽い裂傷が見つかった。炎症を起こした皮膚は赤く爛れており、乾燥した冬の風がそこにしみただろうと想像するだけで、胸の奥が冷えた。


 すべて、実の親による暴力だった。


 数日後、ようやく見舞いに行くことができた。

 名目は発見者としての様子伺い。

 病院の受付で病室を尋ね、白く消毒液の匂いが満ちた廊下を進む。


 小夜は個室のベッドに寝かされていた。

 天井を見つめたまま、こちらに気づいてもまばたきひとつしなかった。


 声をかけようとして、喉が詰まった。


 これまでの、どの彼女とも違う表情をしていた。

 薬物依存の親に暴力を受けていたこれまでの饗庭小夜とは違う。

 俺と共に、不思議な夜を過ごしたこれまでの饗庭小夜とも違う。


 希望を失って絶望した饗庭小夜が、そこにいた。


 脱力してベッドに転がる腕。右腕にはギプス、もう一方には点滴のチューブ。卵を温めることを止めた手が無為に開かれている。


 青空を飛んで行けると夢見た雛は、夢を見たまま死んだのだ。


「小夜……」


 俺は、かけるべき言葉を探した。だが見つけられなかった。


「私、がんばったんだよ……」


 天井を見つめたまま、小夜は言う。


「きっと最後のチャンスだって思ったの。次に尾鳥さんのところに行けば、もう家族のところには帰れないなって思った。……だから、『もう薬止めて』って、『もう叩くのやめて』って、言いたいだけだったの」


 痛切な思いが手に取るようにわかる。


 幼いころから虐待が常習化した家庭で、小夜はそれが当たり前だと思いながら生きてきた。

 ところが、はじめて安全な夜を経験し、全く異なる価値観に触れた。触れてしまった。

 小夜は戸惑っただろう。自分の人生が世の常識から逸脱していることを知り、それでも家族の可能性を信じて、親に説得を試みたのだ。


 誤算だったのはこの説得が失敗することを知らなかったことだ。

 小夜は薬物依存者に説得が通じないことを知らなかった。

 子供を虐待する親に説得が通じないことを知らなかった。


 初めからあの家に救いは無いのだと、知らなかったのだ。


「もう夕方だね」


 小夜は目に涙を溜めて窓外から差し込む茜色の空を眺める。


「なんだか空が崩れてくみたいだ……」


 このまま世界が終わっちゃえばいいのにね。と、小夜は呟く。


 俺は、彼女の親がどうしても許せなかった。

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