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CRUMBLING SKY  作者: 莞爾
第七話 都市の幽霊 下
12/18

 ふと気づくと、俺は高層ビルの屋上に立っていた。

 景色は見渡す限り茫漠としていて、乳白色の空間が果てもなく広がっている。

 このビル以外に人工物はおろか、海も山も、空さえも無い。


 無限の空間にビルが存在し、その屋上に俺だけが立っている。


 音階を持たぬ笛のような風が横殴りに吹きつけ、俺の身体を弄んだ。

 落下防止の柵はなく、まるで見えざる意思が「落ちろ」と責め立てるようだった。


 落下への恐怖感から、俺は身を低くして風の抵抗を減らす。

 ふと、腰に命綱が括りつけられていることに気付いた。だがそれが、何に繋がっているのかは分からなかった。

 綱の先を視線で辿ると、ビルの塔屋へ続いている。その扉の向こうで何かに括り付けられているのか、窺い知ることはできない。軽く引っ張った時の張力、その手ごたえが何かに繋がっているということを知らせてくれる。


 屋上の縁へ移動し、俺はそっと下を覗いた。

 何故そんな危険を冒すのか自分でもわからない。

 無意識のうちに誘われた――衝動と言ってもいい。


 深い、深い、奈落の穴。


 眩暈がするほどに底が見えない下の景色。

 ビルの壁面には人が立つのがやっとのわずかな段差があるのを見つけた。

 恐ろしいことにその断崖に、饗庭小夜が居た。


 「小……夜……?」


 呼びかけるが、恐怖で声が出ない。

 そんなところにいては、いつ足を滑らせてしまうかもわからない。見ているこっちがはらはらしてしまう。


 気付いてもらえるように、俺は何度も叫ぶ。


「小夜……! 小夜!!」


 声が届いたか。小夜はこちらに振り向いた。

 彼女は目が合うと我に帰ったように表情が宿る。酷く焦った様子で青褪め、ビルの壁面に背を沿わせて助けを求める。


 なんでそんなところにいるんだ。――とは思わなかった。なんとなく、下を覗くときには彼女がいるのではないかという予感がしていた。俺は彼女を助けるためにここにいるのだと思った。


「待ってろ! 俺が助けてやる……!」


 覚悟を決めて、命綱の張りを確かめる。

 強く引っ張ってもびくともしない。この綱を垂らして壁面を降りていけば、助けられるかもしれない。


 俺はゆっくりと、屋上の縁に足を垂らす。吹き上げるビル風に背筋が粟立つ。勇気を振り絞り、慎重に奈落へ降りて行った。

 綱を握る手が汗で滑る。爪先の感覚だけで窓の縁に乗り、体重をかけてよいかを吟味しながら着実に下降する。足の親指の先だけで壁面の僅かな凹凸を捉えて踏ん張り、両腕は綱を巻き付けて操る。小夜が居るところまではあと4メートルほどだろうか。しくじれば死ぬ。


「……大丈夫、もう少しだから……」


 しかし、無情にも俺の体重を支えていた屋上の縁がもろく崩れ落ちた。コンクリートの破片が頭上から降り注いで、頭を庇う。瞬間視界が回転する。


「しまっ――!!」


 全身を恐ろしい浮遊感が包んだ。

 俺は落下して宙にぶら下がる。命綱が張り詰めて軋む。


 呼吸を忘れ、俺は状況を確かめる。

 現在位置は小夜のいる断崖を超えて、かなり下まで落ちてしまった。

 綱は俺の腰に括り付けられているため、体勢は仰向けのまま起き上がることすらままならない。冷静になればなるほど絶望的だと悟る。


 断崖に立つ小夜は声もなく、心配そうな視線で俺を見下ろしている。


 ――このままじゃ命綱が持たない……せめて小夜だけでも……。


 死を悟った俺は、小夜に声をかける。


「俺のことはいい、この綱を登れ!」


 小夜は頷き、張り詰めた綱を掴んで上へ登っていく。

 踏ん張る際のわずかな振動が俺の体を左右に振る。

 擦れた綱が少しずつ断裂し、小夜が屋上に手をかける頃には細い糸になっていた。まもなく命綱が――切れた。


 ばちん。と音を立てて、張力を失った綱が飛び掛かる蛇のように俺のところに飛んできた。


 身体は自由落下を始める。

 すぐ横にあるビルの壁は目まぐるしい速度で流れていく。

 壁に手を伸ばしても、指が弾かれてしまうだろう。

 俺はひたすらに落下する。小夜がいるはずの屋上はもう遥か天上にある。


 死への恐怖に意識が遠のいてゆく……。


 地面に体を打ちつける衝撃に体が飛び上がり――悪夢から目が覚めた。


「……ゆめ……?」


 考えてみればあまりにも現実離れした状況だった。

 二人以外誰もいない世界。終わりのない乳白色の奈落。

 大丈夫、ただの夢だ。俺は生きている。


 それでも心臓は早鐘を打ち続けていた。

 鼓動が落ち着くまでしばらくかかるだろう。

 全身もびっしょりと汗ばんで、首元はひやりと濡れていて不快だった。


 ――これほどの悪夢は、人生で初めてみた。


 何故そんな夢を見たのか、俺は内省する。

 悪夢に現れたメタファーを分析して、自分なりの解を得ようとした。そこに隠された意味を見出すことで安心したかったのだ。


 巨大な高層ビル。腰に繋がる命綱。それが千切れ、落下する……。


「去勢恐怖か」


 と、俺は独言ひとりごつ。

 ここ最近の心労を思えば納得できる解釈だ。


 『去勢恐怖』――自身の男性性を失うことに対する恐怖。

 ビルや命綱はファルス・メタファーだろう。


 思い返せば、俺は小夜と共に過ごすようになってから、頑なに性欲を押し殺していた。そのくせ何故だか女性に関する受難が立て続けに舞い込んでいるからたちが悪い。

 しかも今日は小夜が居ない日で、夜には瀬川と会う。悪い条件が重なっていた。


 自室のベッドから上体を起こし、横に視線を向ける。いつもと変わらないベッドなのに、広く感じてしまう。


 夜勤明け、別れ際の会話を思い出す……。





「帰らなくていいんじゃないか?」


 杵原との面談から帰ってきた俺は、部屋で帰り支度をしている小夜に向かってそう言った。


 朝日が昇れば六日目になる。建前上『保護』という形をとっているこの家出は、捜索願いが出されないようにと三日に一度は帰宅する約束だった。


「定期的に帰れって言ったの、尾鳥さんじゃなかった?」小夜は意地悪に口角を吊り上げた。


「きっと通報なんてしないとわかった」


「子供の保証は信じないって言ったのに?」小夜はますます意地悪くとぼけてみせた。


 確かに、初めは警察の目に付くことを恐れていた。しかしこの生活を続けていくうちに慣れ始めた自分がいる。経験則でしかないが、小夜の親は通報しないだろうと確信している。

 違法薬物に耽溺たんできしている手前、娘が帰ってこなくとも通報できない。ならば一時帰宅という行動になんの意味がある。


「ここは安全だ。きっとこのまま暮らしても、誰も何も言ってこないさ」


「それでも、帰らなきゃ」


 意外にも小夜は、真正面から俺の提案を断った。

 目には蝋燭の火のような、弱弱しくも確かに灯る意志が見える。


「小夜が帰ったところで、またすぐここに家出してくるじゃないか」


「……まぁね」


「なら帰る意味なんてない」


「すぐに戻るんだから帰ったっていいじゃんか」


「小夜……」


「どうしたのさ……? 尾鳥さんらしくない」


 小夜の言葉に、俺は言葉が詰まってしまう。

 焦りを悟られた。確かに俺らしくない。


 だが、焦りもする。

 当然だ。


 初めて小夜を部屋に招き入れた時から、気付いていた。

 ずっと見えていたのに、見えないふりをし続けた。

 見えないものを見るのが、俺の仕事のはずなのに。


「傷だよ……――」


 俺は意を決して、言わずにいたことを小夜にぶつける。


「――小夜が家に帰るたびに、蚯蚓腫れが増えてる」


 小夜の内股、首、二の腕……服に隠しているが、きっと彼女の背中には数えきれない蚯蚓腫れが刻まれているのだろう。


 初めは自傷行為か何かだと考えていた。小夜を保護したあの元旦の早朝。内股にある傷はストレス発散のためのレッグカットだと……。

 しかし違うのだ。小夜の精神が安定していても、一時帰宅の後には傷が増えている。

 原因は明白だ。小夜の親は薬物依存だけでは飽き足らず、子供を虐待している。

 それも相当幼いころから、日常的に、だ。

 これ以上は見過ごせない。帰すわけにはいかなかった。


 俺の覚悟が伝わったか、小夜は少し苛立ったように頭を掻き、雰囲気が刺々しくなる。

 不良で未成年の家出少女――五日前の饗庭小夜に戻っていた。


「お母さんはさ――時々やさしいんだ。……もしかしたら、私が頑張れば、また笑ってくれるかなって、どうしても考えちゃうんだよ」


 悲しい話だ。と、俺は憐れむ目をして、小夜は造花のように微笑む。


「捨てきれない希望に何回裏切られたんだ」


「だって……私にはわかんないよ……」小夜の声が上擦る。「機嫌がいい時はハンガーで叩いてこないときだってあるんだよ?」


「普通の家庭ってのはな、――」


 言いたくはない。でも、言わなければならない。

 彼女が大切に抱えている希望の卵は、もう腐っているのだということを。


「――機嫌が悪くったってお前を殴らない」


 窓の外を通過する貨物列車の走行音が響く。

 それが遠くへ走り去ると一層深まった沈黙が部屋を圧した。


 小夜は床の一点を見つめて呟く。


「……普通って、なんだよ……」


 ゆっくりと、少女の視線が俺を見上げる。


「生まれたときから、私の普通はこうだった……! 親が殴るのなんて普通でしょ! 薬キメるのなんて普通でしょ!? 私の生きてきた人生だって、普通なんでしょ……?」


 嗚咽。

 小夜は悲しみの濁流の中で、溺れながらも言葉を発する。


「ねぇ、そう言ってよ。尾鳥さん……っ。私の世界は間違ってないって言って」


 懇願し、俺の胸を叩く。

 小夜の拳は痛くない。だが、胸が痛んだ。


「じゃなきゃ……耐えられない……」


 俺は、突き放すように告げた。


「間違っている」


 親が理由もなく暴力をふるうのは間違っている。

 違法薬物に依存するのは間違っている。

 小夜の生きてきた人生は――普通じゃない。


「この先、小夜が大人になった時、思い知ることになる。『周りのみんなも大変だったはず』とか、『形は違えど苦労を乗り越えて生きてきたんだろう』とか、そんな幻想は捨てろ。君以外のみんなは、もっとまともに生きてるもんだ」


「そんな……」


 小夜は膝から崩れ落ち、それこそ頭を殴られたような衝撃を受けて、うずくまる。

 あまりにも常習的に異質な行為が行われていたせいで、小夜は認知そのものが歪んでしまっている。親の異常性は薬物だけだと思い込み、虐待をあって当然のものだと疑わなかったのだ。

 そうして、子供のころに形成された価値観が、世の普通とどれだけ乖離しているのか分からなくなってしまっている。人生が辛く苦しいことを当然と思い、他のみんなもそうだと勘違いをしてしまっている。


「大人になったら、いつか報われる日が来るって思ってたのに……」


「同じ痛みを抱える理解者と出会えると思っていただろう。俺も残念だよ。だが、諦めてくれ」


 小夜は口を押さえ、吐き気に震えるように痙攣し、俺の部屋から飛び出していった。

 追いかけようとしたが、躊躇いが足をもつれさせる。玄関を出るとマンションのエレベーターは下降していて、そのまま彼女を見失う。


 家族関係の修復を諦められない小夜は、きっと家に帰ったのだ。

 常習化した虐待が改善すると信じ、薬物依存から脱却すると信じ、腐った卵を持ち帰る。

 ――結果は明らかだ。

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