一個使う?
『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かった。
ひたすらに飲み歩いた。俺の奢りで。
街灯から街灯へと、ふらふら歩く夜の記憶。
気がつけば俺は、ベッドの上にいた。
――知らない天井だ……。
鏡張りの豪華な空間。だが、瀟洒とはいえない陳腐さの滲む狭い室内。
ここがどこか、俺には見当がついた。
「なんでラブホテルなんかに……」
脱水症状か、ひどい頭痛がした。喉もひりつくように渇いている。
衣服を探ると、上着こそ脱いでいたがベルトは締まっている。裸ではない。
少なくとも過ちは犯していない。
安堵したところで、隣に眠る人物の確認に移る。
貝木か、それとも小夜か――小夜だ。
一応の確認として、小夜の掛け布団をそっと捲る。
彼女は入浴後らしく、ホテルのバスローブをまとっていた。
次に、枕元のアメニティを確認する。包装された避妊具は――二個、未使用。
ほっと胸を撫で下ろす。
「使ってない……よかった……」
心の底から安堵の声が漏れる。
俺は、小夜を抱いてなどいない。
「ゴムを使わずに抱いた――」
「うわ」
不意に聞こえた貝木の声に、心臓が凍りついた。
「――って可能性もあるけどね」
「……びっくりした……いたのか」
「でもまぁ、その様子じゃ本当に付き合ってはないみたいだね」
薄暗い部屋の隅。ソファーの肘置きを枕にして、こちらを見ている貝木の姿があった。
「寝てなかったのか……?」
「まさか。私もさっきまで寝てたよ。囮より少し先に目が覚めた」
「昨日はどうなったんだ?」
このホテルに入るまでの記憶がない。
「飲み過ぎて囮が歩けなくなったから、私と饗庭ちゃんでこのラブホに泊まることにしたの」
「そんなに飲んだか……ごめん。ここも俺が払うよ」
「いいよ。私も終電逃してたし、どうせ東京に泊まるつもりだったから宿代は割り勘にしよう」
申し訳ない気持ちもあるが、実のところ財布の手持ちが限界に来ていたので助かる。
貝木も特に怒っている様子はない。
「俺がソファーで寝るよ。貝木はベッドでちゃんと休んでくれ」
「ありがと。お言葉に甘えるよ」
そう言ってベッドに近付く貝木は、立ちあがろうとした俺の肩を押し倒した。
「貝木……?」
小夜が隣で眠っている。声を荒げるわけにはいかない。
貝木の体温がしなやかに押し寄せ、思考が追い付かない。
彼女はそっと照明のスイッチを操作し、室内の明かりを落とす。
空気が湿り気を帯び、胸がざわついた。
「……一個使う?」
その意味は、すぐに理解できた。
「あんなに酔っぱらう囮は初めて見たよ。ストレス溜まってるみたいだし」
貝木が耳元で囁く。肌が粟立つ。
「ちょっとすっきりしてみるとかさ」
俺の脳が、最高回転で動き始める――いや、空転して、むしろ停止しかけていた。
一秒にも満たぬ沈黙の間に、さまざまな葛藤が脳裏を過ぎる。
例えば、友人である貝木と肉体関係を結ぶことへの好奇心と、自制心。
発散しきれていない性欲を言い訳に、今の関係が壊れることのリスク。
隣で眠る小夜の存在。そして、答えを保留している瀬川忍の存在……。
「だめだ」
思考が、声になっていた。
貝木は何も言わず、ただ重みを増すように体を預けてくる。
彼女の匂いがする。柔らかく、甘く、どこか危うい。
思わず、このまま倒れそうになった。
腕の中に貝木を受け入れれば――きっと、心地良いに決まっている。
わかっている。わかっているのだ。
――だが、駄目だ。
ここで受け入れてしまえば、何かを失う気がした。
その危うさは、貝木の罠ではない。瀬川忍――あの殺人犯の気配だった。
もし俺がここで貝木と関係を持てば、瀬川は彼女を殺すかもしれない。
「は、ははは」
俺は笑った。困った時に笑いが込み上げるとは言うが、これほど無意識に笑えたのは初めてだった。
頭の奥にある冷静な領域が、この状況を収めにかかる。
この誘いを冗談と受け取ることにした。
「……俺を試すなよ。騙されないぞ貝木」
寄りかかる重みが、ふっと軽くなる。暗闇で見つめる彼女の目が、丸く開かれ戸惑っていた。試してなんかいないのだろう。
魅力的な誘いだったが、俺は断らなければならなかった。
「これで分かっただろ。小夜に手を出してないし、簡単に体を重ねない。俺の理性は固いんだ」
「……そうね、合格よ。これだけ固いなら饗庭ちゃんを任せてもいいかもね」
貝木は薄闇のなかで微笑み、柔らかな胸を健気に押し返している脈打つものを指さす。
「理性じゃない部分も《《硬い》》みたいだけど」
「……こいつには苦労をかけるよ」
「へへへ、がんばりたまえ春樹君」
貝木は俺の本能を司る器官を慰めるように撫でた。挑発的に見つめる視線と衣擦れの音が響く。
その甘美な誘惑に飲み込まれそうになる直前で、貝木はあっさりと手を放した。
「じゃあ、私は寝るね」
「あ、ああ……俺はシャワーでも浴びて酔いを醒ますよ」
ソファーへ逃げて、俺は気を鎮める。正直なところ理性が負ける一歩手前だった。貝木がシャワーについてくるようならもう我慢はしないとさえ思った。だが貝木は静かに眠りはじめた。
――冷静になれ……瀬川に命をにぎられてるんだぞ……。
少し冷たいシャワーを頭から被りながら、俺は俺を見つめる。
昂ぶったその器官は熱心に抗議するように、いつまでも未練がましく脈動していた。
❖
一夜が明けて、チェックアウトには余裕をもって出ることができた。宿泊料金は貝木が言っていた通り折半で支払う。
「じゃあね」と新宿駅へ消える貝木に手を振り、たった一夜の出来事が面映ゆく胸に迫る。
真夜中の誘いを俺は断った。貝木を傷つけないように言葉を選んだつもりだったし、うまくはぐらかせていたはずだ。貝木の女性としてのプライドも傷付けてはいない。と、思いたい。
同期であり友人として、また来年も龍を見たいと俺は思う。
「さて、今は何時だ?」俺は独り言ちて通信端末を見る。
午前の九時。イベントを楽しみ、思うさま深酒をした俺は生活リズムを狂わされ、真人間の生活リズムと一時的に同期した。
「……俺が活動する時間じゃないな。帰って寝るか」
「まだ寝るつもりなの?」
眠気が晴れた小夜は俺の提案に乗り気ではない。が、実際問題俺は夜勤のリズムに戻さなければならない。今夜も仕事が待っているのだ。
「今から起きてたら、夜に杵原に会えない」
「むむむ」
小夜は一理あると口をつぐみ、西武新宿線に向かう俺の後ろをついて歩いた。
ホテルが密集する路地から大通りに出る途中、一人の男が顔を上げ、小夜を見た。
俺はすれ違ったまま振り返らず、数歩先を歩きながら耳を澄ませた。予想通り、男は小夜に向かって声をかけた。
「アイちゃん……?」
「えっと?」
戸惑いはするが否定はしない。そんな小夜の反応に、俺は二人の接点を悟った。
「やっぱりアイちゃんだよね? 俺だよ、フミヤ」
男が小夜の前に立ちふさがったか、歩く靴音が止まる。
俺は振り返り、事態を静観した。
「覚えてない? この前一緒に遊んだじゃん? このあたりのカラオケでさ。その後だって――」
「あー……うん。そうだね。たのしかった」
小夜の顔が曇る。
男の顔を思い出せないというわけではない。
思い出せているから曇るのだ。
《《アイちゃん》》という名前に心当たりがないなら、『どなたですか』で済む話だ。
「今日もこのあたりで遊んでたの? てかさーマジ偶然じゃん? 連絡先交換してなかったから、正直探してたんだよ。超ラッキー」
ちらりと小夜は俺を見る。
「なんなら今日の夜空いてる? 暇してるから一緒に遊ばない?」
「『アイさん』――」
と、俺は小夜を呼ぶ。
「――知り合いかい? 先に駅に行ってようか」
「いやっ……」小夜は首を振り、慌てて俺の腕を掴む。
そして男の方へ振り返り、「ごめんね」と謝った。
「私用事あるから遊べない」
男はやや不満そうに引き下がる。追ってはこないが、吐き捨てた愚痴ははっきりと聞こえてきた。
「なんだ、《《先客か》》」
残念がる男の言葉に鋭い響きはなかった。傷付けようとする意図はなく、きちんと納得して引き下がる常識を持っている。
しかし、だからこそ。
小夜は俺の腕を掴んで震えていた。
『アイちゃん』と、彼の関係は明らかだ。
過去に小夜が体を売り、そして彼は買った男の一人だろう。
俺はこの場面に居合わせてしまったことを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
視線を落としながら、何も言わず西武新宿駅に向けて歩き出した。
三が日も終わって今年度初の平日。休み明けで駅前はビジネスマンの姿が多い。
本音を打ち明けるなら、腕を放して、離れて歩いてほしいと思ってしまった。
❖
電車内では会話もなく、小夜が口を開いたのは俺の部屋に上がり込んでからだった。
「ごめんなさい」
「何の話だ?」
俺はとぼける。しかし半分本気でそう思った。何に謝っているんだろう。
小夜の過去に対して怒る筋合いはない。
「さっきの、フミヤって男」
「謝ることじゃない。事情はわかってるからな。それより本当に断って良かったのか? 残念そうにしてたぞ」
「尾鳥……」
小夜は震える声で俺の名を呼んだ。
皮肉が過ぎた。俺の内にある嫌悪感が無意識に言葉に漏れてしまったのだ。
「私……助けてもらえるような人間じゃないね」
落ち込んだ態度で彼女は踵を返し、入ってきたばかりの玄関から出ていこうとした。
俺は背中を追いかけ、扉を押さえる。
「小夜。勝手に結論に辿り着くな」
「ごめんなさい……」
小夜は泣き出しそうな顔を俯かせて隠し、再び謝罪する。
彼女が過去に援助交際を行っていたのは知っている。俺はそれを知っているのだ。
だからあの光景に鉢合わせたからといって怒りはしないし、問い詰めもしない。
俺が取るべき行動は、小夜に安全な夜を提供することだ。
大人として、子供を守るために立ち振る舞うことだ。
それがなんだ。今の俺の言葉は。『断って良かったのか?』なんて、『男に抱かれてこい』と言っているようなものじゃないか。間違っても言うべきじゃなかった。
「謝らなくていい。俺は怒ってない」
小夜は首を振り、俺の胸に抱きついた。
「尾鳥さんに出会ってから、『どうでもいいや』って思えなくなったの」
小夜は言う。
「毎日、辛いことばかりだし、全部どうでもよかったはずなのに、どうでもよくなくなったの……。
男の人からお金をもらう方法なんてあれくらいしかないし、どうでもよかったから、楽だなって思って……でも……でも……っ」
小夜はこれ以上言葉を紡ぐことができず、声を押し殺して泣いた。
誰にも迷惑をかけないように、泣き声を上げることはせずに涙を流していた。
きっと俺に出会う前から、小夜はいくつもの夜を泣いて過ごしていただろう。
誰にも聞こえない声で泣いていたのだろう。
『助けて』という叫びすら、押し殺して生きていたに違いない。
「……小夜。お前は過去を振り返って泣くことができた。それは成長しているってことだ。変われたんだよ」
「本当……?」
「いい方向に進んでいるから自分の過ちを後悔できる。だからたくさん泣いていい。声を我慢しなくていい。頼りないかもしれないが、俺が力になる」
「変われるのかな……? 私、本当に取り返しのつかないことしたのに……許されるのかな……?」
「許される」俺は断言する。まだ小夜は若い。更生の機会はいくらでもある。「小夜が人生の中で失ったものを、俺が取り返してみせる」
俺は優しく彼女を抱き上げて、部屋に運ぶ。
「杵原が会いたがってるはずだ。泣き止んだら仮眠を取ろう……あんまり思い悩むなよ」
「うん……」
小夜をベッドに座らせて眠るように促すと俺も隣で目を閉じる。
「ごめんなさい……」
小夜は三度繰り返す。
俺はこの謝罪が、誰に向けられたものなのかわかった気がした。
――そうか、過去の自分に謝罪しているのか。




