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CRUMBLING SKY  作者: 莞爾
第五話 都市の幽霊 中
10/18

 『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かった。

 ひたすらに飲み歩いた。

 ――全額、俺の奢りで。


 街灯から街灯へと、ふらふら歩く夜の記憶。

 気がつけば、夢から覚めるようにして、俺はベッドの上にいた。


 ――知らない天井だ……。


 鏡張りの豪華な空間。だが、どこか陳腐さも滲む狭い室内。

 ここがどこか、俺には見当がついた。


「なんでラブホテルなんかに……」


 脱水症状か、ひどい頭痛がした。喉もひりつくように渇いている。

 衣服を探ると、上着こそ脱いでいたがベルトは締まっている。裸ではない。

 少なくとも過ちは犯していない。


 安堵したところで、隣に眠る人物の確認に移る。

 貝木か、それとも小夜か――小夜だ。


 一応の確認として、小夜の掛け布団をそっと捲る。

 彼女は入浴後らしく、ホテルのバスローブをまとっていた。

 次に、枕元のアメニティを確認する。包装された避妊具は――二個、未使用。

 ほっと胸を撫で下ろす。


「使ってない……よかった……」


 心の底から安堵の声が漏れる。

 俺は、小夜を抱いてなどいない。


「ゴムを使わずに抱いた――」


「うわ」


 不意に聞こえた貝木の声に、心臓が凍りついた。


「――って可能性もあるけどね」


「……びっくりした……いたのか」


 思考が追い付かない。


「でもまぁ、その様子じゃ本当に手は出してないみたいだね」


 薄暗い部屋の隅。ソファーの肘置きを枕にして、こちらを見ている貝木の姿があった。


「寝てなかったのか……?」


「まさか。私もさっきまで寝てたよ。オトリより少し先に目が覚めた」


「昨日はどうなったんだ?」


 このホテルに入るまでの記憶がない。


「飲み過ぎて囮が歩けなくなったから、私と饗庭ちゃんでこのラブホに泊まることにしたの」


「そんなに飲んだか……ごめん。ここも俺が払うよ」


「いいよ。私も終電逃してたし、どうせ東京に泊まるつもりだったから宿代は割り勘にしよう」


 申し訳ない気持ちもあるが、実のところ財布が限界に来ていたので助かる。

 貝木も特に怒っている様子はない。


「俺がソファーで寝るよ。貝木はベッドでちゃんと休んでくれ」


「ありがと。お言葉に甘えるよ」


 そう言ってベッドへ向かうかと思いきや、貝木は急に俺を押し倒す。


「貝木……?」


 小夜が隣で眠っている。声を荒げるわけにはいかない。

 貝木の体温がしなやかに押し寄せ、思考が追い付かない。


 彼女はそっと照明のスイッチを操作し、室内の明かりを落とす。

 空気が湿り気を帯び、胸がざわついた。


「……一個、使う?」


 その意味は、すぐに理解できた。


「あんなに酔っぱらう囮は初めて見たよ。ストレス溜まってるみたいだし」


 貝木が耳元で囁く。肌が粟立つ。


「ちょっと、すっきりしてみる?」


 俺の脳が、最高回転で動き始める――いや、空転して、むしろ停止しかけていた。

 一秒にも満たぬ沈黙の間に、さまざまな葛藤が脳裏を過ぎる。


 例えば、友人である貝木と肉体関係を結ぶことへの好奇心と、自制心。

 発散しきれていない性欲を言い訳に、今の関係が壊れることのリスク。

 隣で眠る小夜の存在。そして、答えを保留している瀬川の存在――


「だめだ」


 思考が、声になっていた。

 貝木は何も言わず、ただ重みを増すように体を預けてくる。


 彼女の匂いがする。柔らかく、甘く、どこか危うい。

 思わず、このまま倒れそうになった。

 腕の中に貝木を受け入れれば――きっと、心地良いに決まっている。

 わかっている。わかっているのだ。


 ――だが、駄目だ。


 ここで受け入れてしまえば、何かを失う気がした。

 その危うさは、貝木の罠ではない。瀬川忍――あの殺人犯の気配だった。


 もし俺がここで貝木と関係を持てば、瀬川は彼女を殺すかもしれない。


「は、ははは」


 俺は笑った。

 この誘いを、冗談だと受け取ることにした。


「……俺を試すなよ。騙されないぞ貝木」


 寄りかかる重みが、ふっと軽くなる。

 魅力的な誘いだったが、俺は断らなければならなかった。


「これで分かっただろ。俺の理性は硬いんだ」


「……そうね、合格よ。これだけ堅いなら饗庭ちゃんを任せてもいいかもね」


 貝木は薄闇のなかで微笑み、柔らかな胸を健気に押し返している脈打つものを指さす。


「理性じゃない部分も硬いみたいだけど」


「……こいつには苦労をかけるよ」


「へへへ、がんばりたまえ囮君」


 貝木は俺の本能を司る器官を慰めるように撫でた。

 その甘美な誘惑に飲み込まれそうになる直前で、貝木はあっさりと手を放した。


「じゃあ、私は寝るね」


「あ、ああ……俺はシャワーでも浴びて酔いを醒ますよ」


 ソファーへ逃げて、俺は気を鎮める。

 昂ぶったその器官は熱心に抗議するように、いつまでも未練がましく脈動していた。





 一夜が明けて、チェックアウトには余裕をもって出ることができた。宿泊料金は貝木が言っていた通り折半で支払う。


「じゃあね」と新宿駅へ消える貝木に手を振り、たった一夜の出来事が面映ゆく胸に迫る。


 真夜中の誘いを俺は断った。貝木を傷つけないように言葉を選んだつもりだったし、うまくはぐらかせていたはずだ。貝木の女性としてのプライドも傷付けてはいない。と、思いたい。

 友人として、また来年も龍を見たいと俺は思う。


「さて、今は何時だ?」俺は独りごちて携帯端末を見る。


 午前の九時。イベントを楽しみ、思うさま深酒をした俺は生活リズムを狂わされ、真人間の生活リズムと一時的に同期した。


「……俺が活動する時間じゃないな。帰って寝るか」


「まだ寝るつもりなの!?」


 眠気が晴れた小夜は俺の提案に乗り気ではない。が、実際問題俺は夜勤のリズムに戻さなければならない。今夜も仕事が待っているのだ。


「今から起きてたら、夜に杵原に会えない」


「むむむ」


 小夜は一理あると口をつぐみ、西武新宿線に向かう俺の後ろをついて歩いた。


 ホテルが密集する路地から大通りに出る途中、一人の男が顔を上げ、小夜を見た。

 俺はすれ違ったまま振り返らず、数歩先を歩きながら耳を澄ませた。予想通り、男は小夜に向かって声をかけた。


「アイちゃん……?」


「えっと?」


 戸惑いはするが否定はしない。そんな小夜の反応に、俺は二人の接点を悟った。


「いや、やっぱりアイちゃんじゃん! 俺だよ、フミヤだよ」


 男が小夜の前に立ちふさがったか、歩く靴音が止まる。

 俺は振り返り、事態を静観した。


「覚えてない? この前一緒に遊んだじゃん? このあたりのカラオケでさ。その後だって――」


「あー……うん。そうだね。たのしかった」


 小夜の顔が曇る。

 男の顔を思い出せないというわけではない。

 思い出せているから、曇るのだ。

 『アイちゃん』という名前に心当たりがないならこんな返答はしない。


「今日もこのあたりで遊んでたの? てかさーマジ偶然じゃん? 連絡先交換してなかったから、正直探してたんだよ。超ラッキー」


 ちらりと小夜は俺を見る。


「なんなら今日の夜空いてる? 暇してるから遊ばない?」


「『アイさん』――」


 と、俺は小夜を呼ぶ。


「――知り合いかい? 先に駅に行ってようか」


「いやっ……」小夜は首を振り、慌てて俺の腕を掴む。


 そして男の方へ振り返り、「ごめんね」と謝った。


「私用事あるから遊べない」


 男はやや不満そうに引き下がる。追ってはこないが、吐き捨てた愚痴ははっきりと聞こえてきた。


「先客か」


 残念がる男の言葉に鋭い響きはなかった。傷付けようとする意図はなく、きちんと納得して引き下がる常識を持っている。

 しかし、だからこそ。

 小夜は俺の腕を掴んで震えていた。


 『アイちゃん』と、彼の関係は明らかだ。

 過去に体を売り、そして買ったのだろう。


 俺はこの場面に出くわしてしまったことをどう受け止めるべきかわからず、無言で西武新宿駅へ歩いた。


 三が日も終わって初の平日。ビジネスマンの姿を多く見かける駅前で、本音を打ち明けるなら、腕を放して、離れて歩いてほしいと思ってしまった。





 電車内では会話もなく、小夜が口を開いたのは俺の部屋に上がり込んでからだった。


「ごめんなさい」


「何の話だ?」


 俺はとぼける。しかし半分本気でそう思った。何に謝っているんだろう。

 小夜の過去に対して怒る筋合いはない。


「さっきの、フミヤって男の話だよ」


「謝ることじゃない。なんとなく事情は分かったしな」


「私……助けてもらえるような人間じゃない」


 落ち込んだ態度で彼女は踵を返し、入ってきたばかりの玄関から出ていこうとした。

 俺は背中を追いかけ、扉を押さえる。


「小夜。勝手に結論に辿り着くな」


「ごめんなさい……」


 小夜は泣き出しそうな顔を俯かせて隠し、再び謝罪する。

 彼女が過去に援助交際を行っていたのは知っている。俺はそれを知っているのだ。

 だからあの光景に鉢合わせたからと言って怒りはしないし、問い詰めもしない。


「謝らなくていい。俺は怒ってない」


 小夜は首を振り、俺の胸に抱きついた。


「尾鳥さんに出会ってから、『どうでもいいや』って思えなくなったの」


 小夜は言う。


「毎日、辛いことばかりだし、全部どうでもよかったはずなのに、どうでもよくなくなったの……。

 男の人からお金をもらう方法なんてあれくらいしかないし、どうでもよかったから、楽だなって思って……でも……でも……っ」


 小夜はこれ以上言葉を紡ぐことができず、声を押し殺して泣いた。

 誰にも迷惑をかけないように、泣き声を上げることはせずに涙を流していた。


 きっと俺に出会う前から、小夜はいくつもの夜を泣いて過ごしていただろう。

誰にも聞こえない声で泣いていたのだろう。


 『助けて』という叫びすら、押し殺して生きていたに違いない。


「……小夜。お前は過去を振り返って泣くことができた。それは成長しているってことだ。変われたんだよ」


「本当……?」


「いい方向に進んでいるから、自分の過ちを後悔できる。だからたくさん泣いていい。声を我慢しなくていい。これからも俺が力になる」


「変われるのかな……? 私、本当に取り返しのつかないことしたのに……許されるのかな……?」


「許されるさ」俺は断言する。まだ小夜は若い。更生の機会はいくらでもある。「小夜が人生の中で失ったものを、俺が取り返して見せる」


 俺は優しく彼女を抱き上げて、部屋に運ぶ。


「杵原がきっと会いたがってるはずだ。泣き止んだら仮眠を取ろう……あんまり思い悩むなよ」


「うん……」


 小夜をベッドに座らせて眠るように促すと俺も隣で目を閉じる。


「ごめんなさい……」


 小夜は三度繰り返す。


 ――そうか、過去の自分に謝罪しているのか。


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