雨宮未夢: 魂の契約
静まり返った回廊に、足音はたった二つだけ。
第一王子に手を掴まれたまま、目を見つめられる。その瞳は少し動揺しているように揺らいでいた。
「……君は、“セレーネ”ではないな」
第一王子エルネストの言葉は、まるで絹の裏に刃を忍ばせたような静けさと鋭さを持っていた。
未夢――セレーネの体に宿る異邦人は、言葉を失う。彼の目は、飾られた微笑の奥でまるで獲物を値踏みするように、じっとこちらを見据えていた。
「……なんのことでしょう?」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出たが、その内心は激しく波立っていた。
「王族である僕のの継承魔法、“過去視”は触れた相手の記憶……魂の記憶を見る力だ」
その一言が、胸の奥に冷たい氷を落とす。
エルネストの目は笑っていた。けれど、それは人を安心させるための笑みではない。真実を突きつけた上で、相手の出方を楽しむような――まるで盤上の駒を見ているかのような視線だった。セレーネとしての記憶がないわけではないが、かなり朧げだ。彼とセレーネの関係性がいまいち思い出せない。
「魂……の?」
未夢はようやく声を出した。問いかけながら、頭の中では別のことを考えていた。
絵美里のマシンガントークを思い出す。彼女が熱っぽく語っていた“推しキャラ”たちの設定、その口調、その熱量。全部聞き流して、スマホをいじっていたあの時間。
まさか……その“推し語り”の世界に自分が入るなんて。
おかしいとは思っていたのだ。見慣れぬドレスの重さ、香料の混じった風の匂い、誰かのささやくような視線。五感すべてが、“これは夢ではない”と訴えてくる。
「君の中にある記憶は、この世界のものではなかった。まるで、別の時代、別の場所で生きていたかのような……異質な感覚だったよ」
その言葉に、未夢は小さく息を呑んだ。
「魔法にはね、“体”に作用するものと、“魂”に干渉する魔法がある。姿を変えたり、足を速くするのは体に作用する魔法。だが、記憶や感情に干渉する魔法は、より深く、より危うい。洗脳や呪いも含めて、ね」
エルネストはその言葉をどこか愉快そうに口にする。まるで未夢の反応を観察し、楽しんでいるかのようだった。
「僕の“過去視”は後者。魂に触れたとき、君の中の“セレーネ”にはない記憶が流れ込んできた。これは、見間違えようがない」
未夢は、視線を落とす。このまま逃げられないのはわかっていた。
「……あなたが視たのは、“セレーネの体の過去”じゃない。“私――未夢”の、魂の記憶」
「そう。ようやく名前を教えてくれたね、“ミユ”」
皮肉のような、からかうような言い方だった。けれどその目は、試すように光っていた。
「君の記憶には、驚きと混乱、そして――この“セレーネ”という名前に対する敬意があった。君はただの乗っ取り屋ではないらしい」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。僕は“真実を隠さなかった者”には寛容だ。むしろ歓迎するくらいにはね」
その口ぶりには、どこかしたたかな響きがあった。
「この件、僕の中だけに留めておこう。今のところは、ね」
「“今のところ”……?」
「条件次第では、切り札にもなる」
悪びれもせず言ってのける彼の笑みは、まるで絹に包んだ毒針のようだった。確か彼とセレーネは同い年……12歳のはずだ。しかし、彼の達観的な喋り方は幼い見た目に反して、全くそれを感じさせない。
未夢はごくりと唾を飲み込む。
「ただ、君の中にセレーネが“まだいる”というのは本当だ。魂の奥底に、消えずに、静かに……ね」
未夢は目を見開いた。セレーネが消えていない。自分がこの体を奪ったのではない――その事実が、ほんの少しだけ未夢を救った。
「殿下は私に何を求めているのですか」
「そんなに怖がらないでよ。僕もいまだに動揺しているんだ。誰だって突然友人が中身だけ別人になっていたら驚くだろう」
そう微笑むエルネストの顔は、まさに“完璧な王子”そのものだった。だが、その奥にある冷たい企みの気配を、未夢はもう見逃さなかった。セレーネの記憶では彼と彼女の関係は顔見知り程度だ。しかし、彼はわざと友人という言葉を使い脅しているのか?それとも未夢とセレーネの記憶が混ざって思い出せないだけなのか、彼女にはまだその判断はできなかった。
「……話はわかった。君が“セレーネ”ではないことも、僕の過去視で確かに見た」
低く、抑えた声音。けれどその奥には、冷たく研がれた刃のような怒りが潜んでいるのがわかった。
セレーネ――いや、未夢はそっと唇を噛んだ。
「……本当に、ごめんなさい。私も、どうしてこうなったのか……」
「乗っ取りが君の意思じゃないなら謝る必要は無い。けれど......僕にとって彼女は……大切な友人だった。そんな彼女の体が、見知らぬ“魂”に乗っ取られていると知った時の気持ち、君には想像できる?」
エルネストは微笑すら浮かべていた。けれどその瞳は凍りつくように冷たい。怒鳴り声など上げず、ただ淡々と、静かに、彼の怒りは刺すように未夢を貫いた。
その時だった。
――これは...…夢じゃない
彼の言葉も表情も、痛いほど現実だった。どんなに夢だと言い聞かせても、心の奥に突き刺さるこの感情の重さが、夢の中ではあり得ない鼓動の高まりがそれを証明していた。あの日の絵美里の早口の説明や、ぼんやりとしか知らなかったゲームの設定すら、今ではまるで自分の記憶のように馴染んでいる。
……本当に、ここは現実なんだ
そう、確信した瞬間だった。
「……けれど、君にしかできないこともある」
「……え?」
「僕がこの件を黙っている理由、君に元の世界へ戻る“道”を提供する条件。それはひとつ――君の未来視の力だ」
エルネストは淡々と続ける。
「過去視と同じで“未来視”は魂に宿る力だと思っていたが……体に宿る力だったらしい。セレーネの体に触れた時、魔法は彼女の記憶ではなく、“君の魂”に干渉した。それで全てを見通した。つまり、君が今セレーネの能力を扱えるのなら、それを使ってもらう。僕のために」
「……私に?」
「協力してもらう代わりに、僕は王宮魔導士たちの知識も力もすべて動員して、君が元いた世界へ戻る方法を探そう。フェアな取引だろう?」
「でも……私の未来視は万能じゃない。私自身が経験する未来しか見られないし、他人の運命には干渉できないの」
「知っているとも。だが“君”が見る未来にこそ、僕が求める“答え”がある」
その言葉に、未夢ははっとした。
エルネストの瞳はどこか切実だった。怒りの奥にある、焦りとも言える感情――それが一瞬、垣間見えた気がした。
「……なぜ、そこまでして? あなたは……セレーネのため?」
彼は静かに首を横に振った。
「違う。これは僕自身の目的のためだ。けれど――」
ほんのわずか、彼の声が震えた。
「……君に、あの子の力を“借りさせて”もらうことで、少しでも……報われると思いたいだけだ」
沈黙が落ちた。けれど、その静けさは、たしかに“共犯関係”の始まりだった。
「これは君と僕の――魂の契約だ」
エルネストは指先を軽く振り、空間に淡い光の文字が浮かび上がる。それは彼の魔力の象徴。流麗な古代文字が光の輪となって、未夢の胸元へとすうっと吸い込まれていった。
“Animae pactum, in vinculofloris, ego et tu—uniusvoluntate stringimur.”
「っ……!」
一瞬、胸の奥が熱く脈打った。
「安心して。君の意思を縛るような術式は使っていない。ただ……僕と君が、この“取引”に同意したという“証”を残しただけだ」
彼の瞳が、まっすぐに未夢を射抜く。
「これで君は、正式に僕の“協力者”だ」
未夢が言葉を返す間もなく、エルネストは背を向けて歩き出した。そして、何でもないことのように続ける。
「君も、今年の秋から“王立フロリアノ学園学園”に入学する予定なんだろう? ……僕も同じく、その学園に入学する。プリンシパルの座を狙っている」
「……プリンシパルって、生徒会のことですよね?」
「この国の次代を担う者が集う場所だ。“ただの生徒会”などという認識では務まらないよ」
そう言って、彼はふっと微笑んだ。
「君には、共犯……」
わざとらしく咳払いを挟んでから、言い直す。
「僕の右腕……嫌、左足首として、勤勉に働いていてもらうよ。この国の秩序と平和のためにね」
「左足首……」
絶妙なポジションだ。中心部である心臓部とは1番離れている。足首ということはせかせかと働かされる予感しかしない。
未夢は戸惑いながら問いかけたが、エルネストはその声を遮るように振り返り、低く囁いた。
「君が見える未来は、誰の目にも届かないものだ。だからこそ、君の在り方ひとつが、王国の運命すら左右する。――その重みを、忘れないことだね」
未夢は思わず息をのんだ。少年の姿をしていながら、エルネストの言葉には、王子という肩書きだけでは説明のつかない冷静さと覚悟があった。
魂の契約――その響きが、胸の奥に重くのしかかる。
私は、本当に、とんでもないところに来てしまったのかもしれない。
けれどもう、引き返せない。そんな選択肢は最初から与えられてないんだ。
未夢は、彼の背中を見つめながら、小さくうなずいた。
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