エピローグ:セレーネ・ハイドレンジア
目の前で微笑む少女は、黒髪に結ばれた大きなリボンを揺らしながら、小さな手を差し伸べてきた。
「セレーネお姉様、起きてくださらないと、また作法の先生方に叱られてしまいますよ?」
その声に、未夢は再び鏡を見た。映るのは、現実の自分とはまったく違う少女――
銀色の巻き髪、透き通るような白い肌、虹色を含んだオパールの瞳。まぎれもなく、ゲームに出てきたサポートキャラクター、セレーネ・ハイドレンジアだった。
「え、えっと……あなたは……?」
戸惑いながら問うと、少女はぱちくりと瞬きをした。
「もう、寝ぼけてるんですか? ソレイユ・ハイドレンジア、あなたの妹ですよ!」
ソレイユ。その名前を聞いた瞬間、未夢の記憶に絵美里の声がよみがえる。
――「ソレイユって子がいてさ~、まだメインで関わってくる章じゃないんだけど〜、たぶん悪役令嬢なんだよね~」
ちょっと待って、これ……本当にゲームの中なの?それともただの夢?
目の前の少女は幻でもCGでもなく、確かな体温と存在感を持ってそこにいた。
差し伸べられた小さな手に触れた瞬間、未夢――いや、今の彼女はセレーネとして、その世界の空気を吸い込んでいた。
これはおそらく明晰夢だ。そうじゃないと困る。
自分の意識ははっきりしていて、状況を理解している。でも、これは明らかに現実じゃない。
ゲームの世界に入り込むなんて、そんな非現実的なことが本当に起こるわけがない。
……なら、これは夢。もしかしたら、自分が夢の中だと気づいている“明晰夢”。
だったら、いつかは覚める。……なら、せめてその時までは。
そう思って、彼女はふっと息を吐いた。
せっかくなら、夢の中くらい――楽しんでみよう
「今日は、“薔薇の間”で開かれる公式なお茶会ですからね! 王族直々のご招待なんて、本当にすごいんですから!」
ソレイユは黒髪を揺らしながら、興奮気味に話し続けている。
同じオパールの目はくるくるとよく動き、まるで現実世界の絵美里のように元気で、夢見がちで、お転婆で――見ているだけで笑みがこぼれる。
「お姉様の未来視があれば、きっとたくさんのお友達ができますよ!」
“未来視”――それがセレーネの紋章魔法だった。
この世界では、紋章魔法は生まれた時から使える家系固有の力であり、セレーネの母は隣国の王族の血が流れているため、希少な未来視の力を継いでいる。
ただしその力は万能ではない。彼女自身が経験する未来しか見通せず、他人の運命には干渉できない。
妹のソレイユは異母姉妹でありながら、この紋章魔法を持たない。
だが、そんなことは関係ないと、セレーネ――未夢は思った。
「王子様も、お姉様の力を高く評価されているんですって! もしかしたら……“選ばれる”かも……なんて!」
「えっ、選ばれる……?」
「ふふっ、秘密です。でも、もし“そう”なったら、わたくし……舞踏会でタンゴを踊ります!」
スカートをひるがえしてくるりと回るソレイユ。その笑顔に、セレーネは思わず目を細めた。
こんなに無邪気で可愛い子が、悪役になるなんてありえない。
たとえゲームのシナリオがそうだとしても、こんなふうに人をまっすぐに慕い、夢を語る子が闇に堕ちるなんて信じられない。
ソレイユが……悪役に?
おそらくこれはゲーム開始数年前といったところだろう。今目の前にいる彼女とオープニング映像の彼女はまるで別人だ。
例えこれは夢だったとしても。セレーネは胸の奥で、確かにそう思った。未夢はそっと差し出されたソレイユの手を取りながら、ベッドの端に腰を下ろした。足元に触れた絨毯の柔らかさに、またひとつ現実味が増す。
ソレイユは嬉しそうに微笑むと、クローゼットへと軽やかに駆け寄った。
その背にはふんわりとした赤いドレス、揺れる白いリボン。どこか絵美里を思わせる元気な後ろ姿に、未夢は胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「今日は、“薔薇の間”で茶会がありますから、フォーマルなドレスにしましょう。あ、でも……セレーネお姉様は青の方が映えるかも……!」
「え、ええと……おまかせする……わ……」
口から出た自分の声にも驚いた。澄んだ、やや低めのトーン。
耳慣れない言葉づかいも、なぜかスムーズに出てきた。
……まさか、キャラの性格まで入り込んでる?嫌、そういえば私たちが話してるのは明らかに日本語ではない。でも自然と理解できる。まるで昔から話していたみたいに。それだけじゃない。この世界の知識がまるでセレーネとして生きてきたかの様に残っているんだ。
「あの……お姉様、また“鏡の夢”を見たんですか?」
くるりと振り返ったソレイユの顔に、不安と心配の色が浮かぶ。
鏡の夢――その言葉が、未夢の胸を締めつける。
画面の中で最初に目を奪われた、破れた鏡を睨む黒髪の少女。そして、鏡に微笑むセレーネの姿。
「……たぶん。ちょっと変な夢、見ちゃって」
「大丈夫です。私が、ちゃんと傍にいますから!」
ソレイユはそう言って、胸を張るように笑った
知らない世界、知らない自分。これは夢だ。でも、誰かが傍にいることに、少しだけ安心してしまう自分がいる。
やがて、ソレイユが選んだドレスがベッドにそっと置かれた。
淡いラベンダー色の生地に、星を象った刺繍。静かな輝きが、セレーネの銀の髪によく映えそうだった。
「それじゃあ――変身、ですね!」
「……うん。行こうか、“お茶会”へ」
未夢――いや、セレーネとしての1日が、静かに始まろうとしていた