雨宮未夢: 胸のざわめき
護衛が王族から正式に派遣されると聞いた時、未夢は安堵した。背後を包み込んでいた薄い膜のような不安が、一枚だけ剥がれた気がしたのだ。
春の終わり。陽射しにはもう夏の気配が混じりはじめ、石畳には木洩れ陽の影が落ちている。未夢はその柔らかい光の下で、淡い藤色の薄手のドレスの裾を指先で整えながら、敷地の中庭を歩いていた。
風が吹き、髪が揺れる。だが、どれだけ日差しが穏やかでも、胸の奥にはまだ小さなざわめきが残っていた。
「……ノクス、いる?」
小さな温室の奥、書類の積み重ねられた木製の作業机の近くに、ひとつの気配があった。
返事はない。けれど、足音がした。
すり……すり……
それは床を擦るような足取り。まるで自分の存在を隠そうとするかのように、臆病に、静かに動く足音だった。未夢は、少し微笑んだ。ノクスのそういうところが、彼の性格を物語っている。
やがて、小柄な少年が机の影から顔を出した。
「……どうしたの?」
低く、けれど耳を澄ませれば柔らかさも混じった声。
未夢は少し戸惑いながらも、胸の中の不安を押し出すようにして言葉を紡ぐ。
「……なんとなく、落ち着かないの。護衛が決まって、安心したはずなのに……身体がずっと緊張しているような気がして」
言いながら、自分でも説明が難しいことに気づく。だけど、それを伝えられる相手がここにいることが、どれほど心強いか。
ノクスはしばらく何も言わなかった。ただ視線を落とし、胸元から何かを取り出す。
それは、小さな銀のペンダントだった。中央には、淡い青色の宝石のような魔石が埋め込まれている。透明感があり、光を受けて微かにきらめいていた。
「……これ、持ってて。通信型の魔法石。いざというとき、僕に呼びかけて」
「ノクス……」
未夢が驚いた声を漏らすと、彼は少しだけ視線を逸らし、ペンダントを差し出したまま言った。
「……あんまり使わないけど、母さんが昔、作ってくれたものと同じ。声を届けるのは、きっと、すごく大事なことだから」
その口調に、何か特別な想いがあることが感じ取れた。彼の事情はエルネストから聞いている。
「……お母さん?」
未夢が問い返すと、ノクスはゆっくりとうなずいた。
そして、視線を落としながら、ぽつりと呟いた。
「……お母さん、ね。僕がまだ……家にいたころの話」
彼の肩が微かに震えた。けれど、それは寒さでも怯えでもなく、記憶の底から浮かび上がる感情のせいだと、未夢には分かった。
「母さんは……バカだった。僕も……子どもだった。だから、信じちゃった。『信仰に救われる』って言葉を」
ノクスの言葉は乾いた声だった。けれど、その裏には、剥き出しの痛みがあった。
「全部、持っていかれた。母さんも、家も。僕は……売られたんだ。捧げられる“神の道具”としてね」
未夢は何も言えなかった。ただ、彼の言葉を聞くことしかできなかった。
「それでも、母さんの最後の声だけは、忘れられない。“逃げて”って言ったんだ。だから、逃げて、ここに来た。……あれが、母さんの本当の言葉だったって、今なら分かる」
その声が震えた。ノクスは顔を上げた。まだ幼さが残るその目には、強さと、深い孤独が入り混じっていた。
「会いたいな」
未夢は、受け取ったペンダントを両手で包み込んだ。
「ありがとう、ノクス。……あなたの大切なものを、預けてくれて」
彼女の声は穏やかで、けれど心の底からの感謝がこもっていた。
「私にも、会いたいけど会えない人がいるの。……家族みたいに大切な人。……ううん、本当の家族なんだけど……。上手く言葉で説明できないや」
未夢は、遠い空を見上げる。
それは、自分のいた世界。まだ名前のない、けれど確かに存在する過去への想い。
「どこにいるの?」
ノクスの問いに、未夢はそっと笑った。
「すごく遠い場所。――きっと、今はもう手を伸ばしても届かないようなところ」
ふたりの間に、言葉では形にできない絆のようなものが、静かに生まれていた。
そして、夕暮れの光が差し込む頃、未夢は屋敷に戻った。
部屋の机の上に、一通の手紙が置かれていた。
――セラフィナからだった。
『セレーネ様へ。明後日の誕生日会、きっとたくさんの人に囲まれて忙しくなってしまうと思うの。だから前の日、二人だけでお茶でもどうかしら』
セラフィナらしい、丁寧な筆跡。柔らかな香水の香りが封筒からほのかに漂ってくる。
未夢は微笑んだ。そして、胸の奥にずっと渦巻いていたざわめきが、ふと波打った。
予知は未来を映す。だが、それをどう読み取るかは、常に自分次第なのだ。彼らの屋敷の下見をすれば火事が起きたとしても、抜け出せる可能性は高くなる。
未夢は、ペンダントを胸に当てた。
あの未来を変えるために。
そして、守るために。
夜風が、薄手のカーテンをふわりと揺らした。セレーネの髪もまた、淡く波打ち、決意とともに静かに揺れていた。