雨宮未夢: 噂の中の真実
花の季節が過ぎ、若葉が生い茂りるようになった。夏に近づき爽やかさに満ちた昼下がりだった。ハイドレンジア家の中庭には、花壇の彩りとともに、鳥達の歌声がこだましていた。しかしその華やぎの裏では、得体の知れぬ緊張感が少しずつ広がっていた。
「ねえ、お姉さま……最近、変な噂を聞くの」
そう切り出したのは、未夢の義妹であるソレイユだった。艶やかな黒い髪を揺らしながら、遠慮がちに視線を泳がせる。
未夢──正確には、セレーネという名を借りた異邦の魂は、彼女の言葉に静かに耳を傾けた。
「“光の献身会”っていう団体が、どうやら裏で良からぬことをしているらしいの。最近、港町で物資が流れなくなったのも、その関係なんじゃないかって」
「誰がそんなことを?」
「……商人派の人たちがささやいてたわ。お父様の知り合いの家でもその話が出てたの。きっと誰かが意図的に流してるのよ」
ソレイユは唇を噛み締めたまま、瞳を伏せた。
未夢はその言葉を聞きながら、心の中でため息を吐いた。
エルネスト殿下……本当に噂を動かしたのね
真実に肉薄するには、時に世論という刃を使う必要がある。だがそれは、誰かの信仰や善意を踏みにじることでもあった。セレーネという仮面をかぶっていても、心はやはり未夢として痛んだ。
一方、王宮の兵士たちは水面下での動きを強めていた。貴族社会に流れた“新しい過激派神聖主義の影”という噂に反応した一部の男たちが、慌てて情報を処分しようと動き出したからだ。
王宮内の一室、作戦室のような空間にエルネストは立っていた。窓からは午後の光が差し込み、卓上には施設関係者の一覧が並べられている。副責任者・ギルベルト。その名が、まるで浮かび上がるように記されていた。
「ロアバルク侯爵に金を握らされていたか……」
エルネストは低く呟いた。既に兵士たちによって、献身会に関わる複数の男が確保されつつあった。だが彼らの口は重く、ようやく捕らえた一人が発した言葉は、耳を疑うものだった。
「……全部、侯爵の命令だった。俺たちは、ただ従っただけだ……あんたたちみたいな高貴な人間に逆らえるわけが、ないだろ……」
その直後だった。
男の体が、異様な光に包まれた。まるで炎のような魔力が、体内から逆流するように溢れ出し──次の瞬間、彼はその場で息絶えた。
「……契約魔法、か」
エルネストの口元が引き締まる。契約に背いた代償。その非情な終わりは、彼にとっても他人事ではなかった。
廊下を歩きながら、未夢はそれを聞いた。
「魔法で……命まで縛るなんて」
「それが、あの男たちが信じた“神の意志”の末路だ」
エルネストは肩をすくめながらも、目は鋭かった。
「……だが、俺たちも他人事じゃない。未夢、君との契約も、そうだ」
彼の声には珍しく陰りがあった。未夢は彼の横顔を見つめながら、決意を口にする。
「私はこの世界に来た時から、あなたに頼ってばかりだった。けれど、もう逃げるつもりはない」
足元に差し込む光は、微かに揺れていた。未夢の瞳には、覚悟が宿っていた。
「だから……ノクスに話したい。私は、本当はこの世界の人間じゃないって。彼に魔導士として力を借りたいから」
エルネストはしばし沈黙した。長い間、己の胸にしまってきた疑念と信頼の狭間で、心を測るように。
「……わかった。だが、それは一連の騒動が落ち着いてからにしてくれ」
「……ありがとう」
短い言葉に、感謝と信頼が込められていた。
そして、その夜。未夢の前にノクスが現れた。
「……終わったのか」
「大体はね。まだ残党がいるかもしれないけど」
彼の口調は淡々としていたが、瞳には疲労と警戒が宿っていた。未夢はその顔を見て、ふと思い出した。
──ノクスは、過去に神を信じ、そして裏切られた人間だ。
だからこそ、過激な神聖主義に対して、あそこまで強い敵意を向けるのだ。
「ありがとう、ノクス。あなたのおかげで、道が開けた」
「……俺は、命令に従っただけだ」
そんな二人を見守るように、エルネストが一歩近づいた。
「……誕生日会には、王族から正式な護衛部隊が派遣されることになった」
「じゃあ、もう……」
「まだ終わっていない。黒幕は、姿を現していないからな」
「わかってる、気をつけるわ」
ノクスの言葉には、冷たさではなく、真っ直ぐな願いが込められていた。
──事件は、確実に核心へと近づいていた。
そしてその向こうにあるのは、彼女が見た“火に包まれる未来”──まだ誰も知らない真実だった。