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エルネスト・ロゼリス:反撃

フロリヴェル王国の朝は、澄んだ鐘の音とともに始まる。だが王宮の一角、行政庁舎の一室では、すでに新しい一手が静かに放たれていた。


「……証拠が揃い次第、すぐに報告を」


 エルネスト・ロゼリスは淡々と告げた。執務机の前に立ち並ぶ部下たちは、王子の命を背負う覚悟で深く一礼し、音もなく部屋を出ていく。


 彼の声音に感情の揺れはなかった。だが、背後に積まれた書簡の束には、幾晩も眠らぬまま思考を巡らせた痕跡が残っていた。


「お茶のおかわりをどうぞ」


「ありがとう」


ノエル・アネモネはお茶を注ぎ、執事としての仕事を淡々とこなしている。しかし、時には補佐官として彼の情報収集を手伝っている。


 扉が閉まり、静寂が戻る。エルネストは静かに椅子に身を沈め、掌に置いた茶杯を見下ろす。


「ま光の献身会……随分と動きが鈍くなったな」


 紅茶の表面に映るのは、自身の微笑。だがその目は、冷ややかに細められていた。


 数日前、未夢とノクスが持ち帰った帳簿。それを元に調査を進めた結果、「光の献身会」と呼ばれる過激な神聖派との資金の流れが浮かび上がった。


 表向きは慈善団体。だが、実態は王国の秩序を乱しかねない神聖至上主義を掲げる過激派の温床。かつてノクスがすべてを失った、その思想だ。


「……敵に情をかける必要はない」


 エルネストの手元には、すでに数名の内部証言が集まりつつあった。名を伏せた修道士、かつて孤児院で働いていた給仕、そして秘密裏に動く情報屋たち。


 王族の名を使わず、あくまでノエルに『第一王子付きの補佐官』という立場で情報を収集させたのは、表に出るにはまだ早いと判断したからだ。


 だがその裏で、もう一つの布石をエルネストは打っていた。


 貴族社会に通じた顔の広い商人たち。その一人と湾口の取引契約をまとめあげた際、「新たな過激派が活動を始めたらしい」という噂をさりげなく添えた。


 真偽よりも、噂が動くことに意味がある。それが情報戦の本質であり、政治の水面下で生きる者の常識だった。


 数日も経たぬうちに、各貴族の社交界では「近頃、礼拝堂に顔を出さなくなった者がいる」「慈善団体に名を貸していた公爵家が不穏だ」といった声が飛び交うようになる。


 まるで火に油を注ぐように、噂は尾ひれをつけながら王都全域に広がっていった。


 そして、それは当然——仕掛けられた当人にも届く。


「……っ、どういうことだ」


ギルベルト・エルスは、王都近郊の支援施設で副責任者として働く男だった。市民の中では温和で評判の良い人物として知られていたが、その裏で彼はある男の庇護を受けていた。


「……どうして今になって、こんな話が広まるんだ……!」


 狭く質素な執務室。彼の額には脂汗が浮かんでいた。机に乱雑に積まれた帳簿の一部が震える指によりめくられていくが、答えはどこにも書かれていない。


 ギルベルトの目は泳ぎ、口元を強張らせながら執務椅子に沈み込んだ。書類に紛れて届いた一通の手紙——それが決定的だった。


 差出人の名はなかった。ただ、そこに記された内容は明確だ。


 ——『貴方が支援施設の資金を一部、光の献身会に流している証拠を握っている。手を引かない限り、この事実は公になる』——


 ギルベルトの呼吸が浅くなる。思わず立ち上がると、背後の棚から鍵付きの箱を引き出した。中には、侯爵家から受け取った複数の領収書と、私的にやり取りされた金銭記録の写し。


「……こんなもの……見つかれば、私は……!」


 だが、彼は処分しようとはしなかった。それは彼がただの傀儡ではなかった証拠でもある。ギルベルトはその箱を見つめたまま、低く呻くように呟いた。


「ロア=バルク侯……貴方が私をここに置いたのに、今さら切り捨てるつもりなのか……!」


 記録を燃やせば、自分が捨て駒にされたと証明する術を失う。だが、持ち続ければいずれ命取りにもなる。


 その葛藤の中で彼が選んだのは、逃げでも反撃でもなかった。ただ、震える手で電話石を握り、侯爵に繋がる専用の回線を呼び出すことだった。


 やがて通話が繋がると、冷たい声が返ってきた。


『……ずいぶんと、無様な声だな、ギルベルト』


「あなたが、私を売ったんですか……?」


『何を言っている? 私が命じたのは、黙ってやり過ごせということだけだ』


「でも……噂が広がっている……調査が始まっている……!」


『なら、始末しろ。記録でも、関係者でも、証拠になるものは全て燃やせだ。さもなくば——』


 言葉が途切れる。その一瞬の沈黙が、ギルベルトの背筋を凍らせた。


『——君の“養女”について、少しばかり情報が集まってきてね』


「……っ……!」


 侯爵の言葉に、ギルベルトは顔色を変えた。震えが全身を貫く。


 彼には、かつて引き取った一人の少女がいた。血の繋がりはないが、彼が唯一家族と呼べる存在だった。その存在すら、侯爵の掌の中にある。


「……わかりました。言われた通りにします。……どうか、彼女には——」


『君が役目を果たせば、私も面倒は避けよう。期待しているよ、副責任者殿』


 通信が切れ、静寂が戻る。ギルベルトは力なく膝をつき、震える手で魔導記録の束を抱きしめた。


 その背には、もはや公正さも理想もなかった。ただ、恐怖と責任と、消せない罪だけが重くのしかかっていた。


 火がつけられたのは、紙だけではない。王都に眠っていた陰謀の焰が、静かに燃え上がり始めたのだった。

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