雨宮未夢:噂
街の朝は、王都の上層とはまるで空気が違っていた。
日が高くなる前、二人は支援施設に向かう道すがら、市場通りの裏手にある小路を抜けていた。軒を連ねる屋台からは、焼き菓子の甘い匂い、香辛料の香り、鉄と油の混ざった鍛冶場の気配――下町の喧騒が、むしろ生き生きと肌に染み込んでくる。
「ねえ、エル。あの焼き立てのパン、すごく美味しそう。少し寄ってもいいかしら?」
低めに抑えた声で未夢はきらきらと目を輝かせていた。彼女の髪は栗色の癖毛、瞳は澄んだ藍。仕草まで自然に素朴な市民の娘らしくなっているのは、ノクスの魔法だけでなく、元の世界で体を使っていた感覚を取り戻していた。
「今は任務中。……でも、一つだけならいいだろう」
そう返す“エルネスト”も、今は「エル」という偽名を使っている。だが、やはりどこか隠しきれぬ気品が滲んでいたのだろう。焼き菓子屋の老婆が、彼の手に品を渡す時にふと首を傾げた。
「……兄さん、あんた、どこかで見たことある顔だねぇ」
その瞬間、未夢は息を呑んだ。エルネストは動じることなく、少し背を丸める仕草で答えた。
「よく言われますよ。市場の手伝いに出てるんで……目立たないつもりなんですけどね」
「ああ、そうかい。ま、あんたみたいな顔は、忘れられないもんさ。ふふ」
老婆は冗談めかして笑い、彼の手に包み紙を押し付ける。未夢はほっとしたように笑ったが、視線の端でエルネストを見ると、その眉間にはうっすらと皺が寄っていた。
「危ないところでしたね、“エル”」
「……まったくだ。“平民の青年”としては、まだまだ修行が足りないらしい」
そう言って、彼はパンをひと口かじると、苦笑を浮かべた。その素朴な仕草すら、どこか洗練されているのが逆に目立ってしまう――未夢は思わず吹き出しそうになり、そっと唇を噛んだ。
「気を引き締めないと、仮面が剥がれますよ。殿下」
「“エル”だ。」
そう返す声は芝居がかっていて、だが少しだけ柔らかい。そんなやりとりの向こうで、町の時計塔が九時を告げた。
二人は視線を交わし、小さく頷いた。
支援施設は、煉瓦作りの古びた建物だった。表向きは孤児たちの学習と給食の場。壁の一部には修復の痕があり、鉄の扉には何度も取り替えられた形跡があった。だが、その玄関先には子どもたちの笑い声が響き、鉢植えの花が細やかに手入れされていた。その扉の奥には、都市の闇と、暴動の火種が隠れている可能性がある。
エルネストは、用意していた配給用の袋を片手に持ちながら、やや控えめな表情を作る。未夢はその横顔に一瞬目を奪われた。
こんな顔、できるんだ。子供には優しいのね。
市場での視察の時とは違う。王子としての仮面を脱いだ彼は、あくまで市井の青年として、子どもたちの目線に合わせて笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃん、だれー?」
「配給のお手伝いに来たんだ。お腹、すいてる?」
「うんっ!」
子どもにそう言われると、エルネストは柔らかく笑いながら、彼の手にあたたかいスープパンを渡した。その仕草は実に自然で、少しの迷いもなかった。
未夢が驚いたように目を細めると、彼はこっそり小声でささやいた。
「……そんな顔で見るなよ。たまには人並みに振る舞えるんだ」
「人“並み”ですか? ずいぶんハードルが低いんですね」
「不敬だな。君こそ、そんなに眉をひそめて。惚れそうになったか?」
「いえ、変装が想像以上に効いてるだけです。あなたが人に優しくができるなんて、世界の終わりかと」
「いい線いってる。終末の兆しだよ」
冗談めかしながらも、エルネストの視線は常に周囲を見ていた。職員、通りすがりの男、掲げられた張り紙の一枚一枚。そんな中、一人の少年が食事の列から外れ、壁にもたれて座っていた。
未夢は彼に歩み寄り、そっと問いかける。
「……体調、悪いの?」
少年はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……どうせ、また“あいつら”の取り繕いだ」
「“あいつら”?」
「貴族のやつらさ。昨日まで見向きもしなかったくせに、最近になって施設の名前を使って“支援してます”だのなんだの……」
未夢は静かに目を伏せ、そして再び彼を見た。
「……何かあったの?」
「ここ最近悪い噂ばかりだ。働き者の若者が働いてた市場だった。何日も賃金を出さず、寒い倉庫で倒れて……助けも呼ばれなかった。新聞に出たけど、“労働者の怠慢による事故”って書かれて……」
それは、未夢が未来視で垣間見た炎の夜と通じる、抑圧の断片だった。
「……それが本当なら、ひどい話」
周りで話を聞いていた子ども達も続々と話に混ざってくる。
「ここ最近は“貴族が見て見ぬふりをした”っていうのが広まってるよね。」
「どこの貴族がとか個人名は聞いたことはない?」
「確か……グラなんとか見たいな、ドラゴンみたいな名前だったはず」
その瞬間、未夢の背筋に冷たいものが走る。
グラジオス家は基本的に軍事事業以外は携わっていない。それに市場なんて殆どが貴族では無く、商人が管理するのが主流のはず。
誰かが、意図的に“憎しみ”を誘導してる……
ただの偏見や誤解ではない。感情を焚き付けるために“作られた話”が拡散されている。ならば、その発信源を突き止めることができれば、暴動の根を絶てるかもしれない。
その時、施設の中から声がかかった。
「すみません、そちらの方々――よろしければ、中へ。代表が会いたがっております」
未夢とエルネストは視線を交わし、うなずいた。
支援施設の奥に案内されたふたりは、簡素な応接室に通される。そこには、年配の女性と中年の男性が待っていた。どちらも穏やかで、慈愛すら感じさせる雰囲気の持ち主だった。
「ご苦労さまです。わたくしはこの施設の管理責任者、ナディアと申します。そちらは副責任者のギルベルトです」
「初めまして。私はエル、彼女はミユ。少しでも手助けができればと、紹介を受けまして」
エルネストが偽名で応じると、ナディアは微笑んでうなずいた。
「ええ、事情は伺っています。私たちは、街が混乱に向かうことを望んではおりません。皆、ほんの少しでも安心して眠れる場所があればと……」
その姿勢に、未夢は一瞬困惑した。未来で見た“暴動”と、目の前のこの人々の“温和さ”が結びつかなかったのだ。
だが、それこそが、真に恐るべき構図――
“温情を盾に、裏で何かが進行している”のか。
それとも“外部からの歪み”が、この場所すらも飲み込もうとしているのか。
エルネストがふと目を伏せ、未夢にささやく。
「どうだい? “善人”の顔に弱い方だったか?」
「まさか。むしろ、こんなに“完璧に優しそう”な方々ばかりなのが怖いです。……あなたと違って」
「手厳しいな。これでも頑張ってるのに」
「ええ。子どもに笑顔を向けてる時は、別人かと疑いました」
「……変装、効きすぎたかな」
囁き合うふたりのやり取りに、ギルベルトが気づいたようににこやかに言う。
「ふふ、仲がよろしいんですね。どうぞ、気を張らずに。ここは安全ですから」
未夢とエルネストは、笑顔を返しながらも、内心ではそれぞれ異なる緊張を抱えていた。
この穏やかな顔の下に、真実は隠れている。
本当に守るべきものは何か。歪められた“正義”の形を暴くには、まだ、ここでの滞在が必要だった。
――そして、少年が呟いた“誰か”の存在。
それは、遠くない未来に起こる炎の夜を引き寄せる「鍵」かもしれなかった。