憎たらしいのに憎めない
「黒崎。課長が呼んでる」
チーフの声に、わたしは睨んでいたパソコンの画面からハッと顔を上げ、向い側のデスクで同じくパソコンを覗き込んでいた黒崎玲を見る。彼の表情は落ち着いていた。彼はいつもクールな顔をして何を考えているのかわからない。
また何かやらかしたのかな。でも最近は自分の判断だけで先走ることはなくなったはず。
「黒崎くん。わたしも行こうか?」
「いえ。呼ばれたのは俺ですから」
心配そうな声を出したわたしに向かって、彼は短く答えてから立ち上がり、そして何とウィンクをした。
コイツ…オフィスでは慣れ慣れしくするなって、あれほど言い聞かせたのに。
睨みつけるわたしの横を通り過ぎるとき、
「ご心配かけてすみません、七尾先輩」
小さな声が降ってきた。その声は本当に微かなものだったから、他の社員には聞こえなかっただろう。
はあ…まいったな。
生意気なのと、しおらし気な態度のミックス攻撃なんてずるい。ましてや普段はクールなイケメンくんがわたしだけに見せる弱さなんて、ボクシングのボディブローのようにジワジワ効いてくる。
きっと計算してわざとやっている。それがわかっていても、女心がキュンとしてしまうのは止められない。
ああもう、憎たらしくて、でも憎めなくて…。彼の術中にどんどんはまっていく。
今年のお正月に、紋付袴姿の彼となぜか二人だけで初詣に行くはめになり、そしてわたしの人生初の壁ドン告白で彼のわたしへの思いを情熱的なキスとともに打ち明けられた。
「あなたを俺のものにしたくなった」「あなたが欲しい」
飾りなど一切ないストレートな言葉はわたしの心にもろに突き刺さった。
彼の真剣なまなざしと黒く深い瞳に捕まり、危うく落とされそうになった崖っぷちで踏みとどまり、性急な愛の要求をやっとの思いで押し返したけれど、あの時、自分でもよく靡かなかったと思う。
「俺のこと嫌いですか?」
彼は単純な質問をした。
しかし好きか嫌いかなんて恋人になる条件ではない。好きでも付き合わないことはあるし、嫌いだったのに愛してしまうことなんて別に珍しくもない。恋に落ちるのに理由なんていらないのだ。
セックスは別。
好きでもなく愛してもいない相手とでもセックスはできる。でも彼がわたしに求めているのは、そのあからさまな男の欲望を吐露した言葉とは裏腹に、もっと純粋なものだ。
言葉にしないと気持ちは伝わらないけれど、しばしば言葉は心を裏切る。あの時、吸い込まれそうなほど近くで見た彼の瞳の中にあったのは、セックスへの渇望ではなく、わたしへの愛だった。
でもまあ…男は愛とセックスが直結しているから、壁ドン告白されたのが神社の境内なんて罰当たりな場所でなく、もっと人気のない所だったらそのまま抱かれて押し倒されてしまったかもしれない。それほど彼の勢いは激しかった。
女は一途な押しに弱い。それをうまくかわせるほどの恋愛経験をわたしはまだ積んでいない。
彼への好意は認めるけれど、わたしの気持ちは好意の範疇を出ていない。
次のレベルに進むためにはどうすればいい?
彼の出方次第なのか。
それとも…
いずれにしても、わたしの恋は急がないと決めているから。
それにしても課長に呼ばれるなんて何だろうか。
広いフロアの中央。彼が課長のデスクの前に立っている。課長は椅子の背もたれに寄りかかり黒崎くんを見ている。わたしの席から離れているので何を話しているのか聞こえないが、主に喋っているのは黒崎くんのようで、課長は時々頷きながら彼の話を聞いているみたいだ。
何を話しているのかな。
二人の雰囲気から察するに、とりあえず怒られてはいないようだけど。
何だろう。
知りたい。
もっと近くに寄って…。
「やめておけ」
「えっ」
「七尾は黒崎の教育担当だが、子守じゃないんだから放っておけ」
そっと席を立とうとしたら金村チーフに止められた。一般企業なら係長的なポストだろうが、うちの会社ではチーフと呼んでいる。
金村さんは二十八歳。わたしの元教育担当で同じ大学の先輩でもあり双子のパパでもある。
「わたしは別に…ちょっとトイレに行こうかなあって」
「嘘つけ。ものすごく心配そうな顔をして、さっきから課長と黒崎を見てるじゃないか」
「そ、そうですか?」
「近くで盗み聞きしようと思ったんだろ。七尾はわかりやすいんだよ」
わかりやすい女なんて…ちょっと心外だわ。
「表情を読まれるようじゃ悪女にはなれないな」
「悪女ですか?」
「そう。男を手玉に取るちょっといい女」
「悪女なんかになれなくてもいいです。"いい女"にはなりたいけど。それにそれってセクハラですよ」
と、口では言いつつも、セクハラなんてこれっぽっちも思っていない。チーフも課長もそんなものには無縁の上司だ。五十嵐課長は厳しい人だが理由なく部下をいじめたり、女性社員が嫌がるような性的な事は言わないし、まして迫ったりしない。それは金村チーフも同様。他のセクションにはいるらしいが。
パワハラもセクハラもどこからがアウトなのか線引きが難しい。内規では「当人が不快に思えばセクハラ(パワハラ)」となっているけど、勤務態度が悪いとか仕事において本人の不注意が原因のミスなどは上司が改善指導しなければならない。常識だ。でもその常識が分からず、いじめられたと思う人もいると聞く。
それに、同じ言葉でも、それを言われた相手によって感じ方が違ってくる。黒崎くんに言われたら腹が立つ事もチーフだったら軽いジョークで済んでしまうとか。
人間関係って難しい。その先にある恋愛感情はもっと難しい。
赤の他人同士が相手のことを何も知らない状態から親しくなって好きになって恋人同士になる。滅多にないケースだが、そんな段階を踏まないで、会った瞬間にズキンと恋に落ちるケースもある。わたしも一度だけあった。終わってしまった恋の苦い記憶が…。
「まあ、黒崎のことはそんなに心配しなくていい。彼も以前とは違う。七尾の教育の賜物だな」
「そんな…わたしのおかげだなんて…(そのとおりだけど)」
「ん?何か言った?」」
「いいえ。それで課長の用って何か知ってます?」
「ほら、やっぱり黒崎のこと心配してるじゃないか」
「あ、しまった」
「お、戻ってきた」
「えっ」
ゆらっと音もなく背後に立った長身のイケメンを見上げる。軽口を叩こうとして、その顔に浮かんだ暗い表情に、思わず言葉を飲み込んだ。
「黒崎くん…課長に何か言われたの」
心配しなくていいなんて、嘘じゃないかチーフ。
何か怒られたんだ。
こんなに落ち込んじゃって…。
この前のデンタルの件かな。でもあれはわたしがフォローして、というか彼が一人で片付けて何の問題もなかったはず。
もしかしてクライアントからクレームがあった?
本人は笑顔のつもりでも、未だにこの子はにこやかには程遠い表情しか作れないから。ちょっと無愛想な所をそのイケメンでカバーしてるけど、それが通じない相手もいる。
「ねえ…この前の件?課長のところにクレームでもあったの?わたしも絡んでるから一緒にクライアントに謝りに行くよ」
「先輩。俺…」
彼の重い声に、わたしまでつらくなる。しかし…
「いい加減にしろ黒崎」
チーフの笑いが混じった声にキョトンとしてしまう。
「えっ?なに?」
「七尾はおまえのことを本気で心配してるんだ。あんまりからかうな」
「は?からかう?」
えっ?
どういうことなの?
すると、さっきまでの今にも死んでしまいそうな表情からパアッと明るい笑顔になった彼がわたしに言った。
「課長に褒められました」
「…はあっ?」
「褒められて激励されました。この前のデンタルの院長先生からお礼の電話があったそうです」
「…こっ、このぉ…」
怒りで目の前が真っ赤になった。腹が立ち過ぎて言葉が出てこない。
馬鹿やろう。
人の気も知らないで。
「黒崎。七尾に謝れ」
「あれ?ほんのジョークのつもり…」
「早く!引っ叩かれる前に謝れ。おまえが悪い。七尾も堪えろ。ここはオフィスなんだぞ」
チーフの声を耳にしつつ無意識に立ち上がり、デカイ男に詰め寄る。握り締めた拳に力が入り過ぎて震えている。
その拳をパッと開いてテイクバック!生意気な横っ面にビンタをかまそうとした瞬間、静かな声が降りてきた。
「全部、七尾先輩のおかげです」
「え…」
驚いて白い頬に手のひらが届く寸前で凍りついた。
「課長に言われました。おまえがクライアントに褒められるような仕事が出来るようになったのは七尾先輩のおかげだと。先輩に感謝しろと言われました」
「…ずっ」
「本当にありがとうございます。でも俺はまだまだ…先輩の足元にも及びません。今年もこんな俺に仕事を教えてください」
「当たり前だ黒崎。七尾は優秀な社員なんだ。入社一年目のおまえが…」
「ずるいっ!ずるいよきみっ!」
金村チーフの声はわたしの叫びに飲み込まれてしまった。オフィスの視線が集まるのを感じたが、魂の叫びを止めることは不可能だった。
「そんなしおらしいことを言ってさ!馬鹿にされたり生意気だったかと思うといきなり可愛くなったり感謝されたり。わたしはどうしたらいいのよ!」
「馬鹿になんかしてません」
「もうもう、もうっ!ほんと頭に来るっ!」
「すみません」
「あー。どうにかして」
「えっ」
「このモヤモヤした気分をどうにかして。全部きみのせいなんだからね。責任取ってよ」
ドサっと椅子に座り、突っ立ってわたしを見下ろしている長身を見上げて睨む。
さっきまでの怒りはどこかに行ってしまった。あんな可愛い気な台詞を言われたら憎むことなんか出来っこない。
憎たらしいけど…憎めないわ。
「俺はどうしたらいいですか」
「知らない。自分で考えて」
「そうですね。俺とデートしましょう」
「なっ!?…」
ば、馬鹿…会社でそんなこと言うんじゃ…。
「って言うのは冗談です。先輩のためにパパドールを買ってきました」
「は?ぱ、ぱぱどーる?」
「先輩好きじゃないですかパパドール。暮れに家族で旅行へ行ったのでお土産に買ってきました」
確かに…確かに大好物だけど…。
パパドールというのは福島県の銘菓である。中に白あんが入ったほっくりと甘い舌触りが堪らない…。
でもなぜ?
なぜ今ここでパパドールの話題が出て来るの?
ああ、混乱した。
何の話だったっけ。
「七尾先輩、パパドール好きですよね」
「うん。好き…ってさ、きみっ!」
「うるさいっ」
よく通る声がオフィスに響き渡り。わたしも黒崎くんもビクッとして口を閉じた。
「さっきから仕事に関係ないことばかり喋って。いい加減にしなさい」
「すみません…森野さん」
怒鳴ったのはわたしのはす向かいの森野さんという、いつも髪を後ろでキュッと束ねている女性だ。三十三歳のベテラン。薬剤師の国家資格を持っている。
「今は仕事中でしょう。それなのにデートとかお菓子とか、それに痴話喧嘩なら外でやってね」
「ち、ちわげんか?」
「七尾さん、さっき彼のこと可愛いと言った。はっきり聞こえたわよ」
「えっ!いえ、それは森野さんの聞き間違いじゃあ…」
しまった。
口が滑った。
わたしそんなことを口走ったか。
黒崎くん…コイツ…黙ってないでフォローしなさいよ。
しかし彼の次の一言でまた頭に血が上り、そして恥ずかしくなって下を向いてしまった。
「すみません。今度から痴話喧嘩は外でします」
もう何も言えない。
憎たらしいのに。
ああ。
でもやっぱり憎めない。