大森博士の捜索
1
警視庁公安部。公安というと刑事と公安が敵対する図式がドラマなどで見られるが、公安の仕事は警察組織の監視だけではない。外事課は海外の組織の動向を監視、スパイ行為などを取り締まることを目的としている。
外事第三課北東アジア第二係、橋爪慎吾警部38歳、妻子持ち。
一見、市役所にでも務めていそうな目立たない男である。中肉中背で身長は168㎝、体重60㎏、細面で髪はスポーツ刈り、面会した人間は、ほとんど印象が残らないといった外見である。こういう記憶に残らない人間が公安には向いているとも言われていた。
公安に配属されたのは10年前で、以前は所轄の刑事だった。英語もそこそこ出来ることから、公安外事課に異動となった。元々、刑事志望でもなかったので、公安の仕事のほうが面白いとも思った。特に外事第三課北東アジア第二係は、北朝鮮の情報活動を取り締まることを目的にした、やりがいのある仕事で、二つ返事で異動を受けた。
本日、その橋爪は警視庁の所属課にて、週一回行われる二係連絡会に参加していた。野中課長以下、本日は所属の8名で打ち合わせがおこなわれていた。
野中課長は大卒キャリア3年目の27歳、橋爪よりはとんでもなく年下ではある。独身、イケメン、高身長とエリートを絵に描いたような男である。その野中が話す。
「じゃあ、各自、定時報告をお願いします。まずは木次さんから」
木次は橋爪の先輩だが、階級は同じ警部である。いかにもたたき上げといった風情の武骨な男である。
「このところ北の動きが活発になっています。人の出入りが激しいです。私がマークしている崔も頻繁に動き回っています」
「マークしているのは崔ミョンイルでしたね。具体的に何か掴んでいますか?」
木次も含め、この2係がマークしているのは崔である。国籍は韓国となっているが、実際は北朝鮮の諜報員である。年齢は40歳で、元々、タイで貿易商をやっていた。2年前に来日し、表向きは東京で貿易商を営んでいる。主に中国やロシア相手に取引をしているようだが、裏では北朝鮮諜報員の元締め的役割を果たしていると睨んでいた。
「それなんですが、崔は何かを調べようとして頻繁に動いています。それがどうやら日本政府内の事案を探っているのではないかと思われます」
「どういうことですか?」
「はい、何度か政府関係者から情報を取ろうとしています。課長、逆に聞きたいのですが、今、政府の方で何か動きがあるんですか?」
「いや、特に聞いていませんね。何だろうな。それはいつごろからですか?」
「先週のミーティングでは、はっきりしていなかったので言わなかったんですが、特にこの数週間にわたって動きがあります」
「ということは、約1カ月ぐらい前からですかね」
「そうですね。概ねそのぐらいかと思います。それが特にここにきて、より活発に動いています」
「何かあるな」
「それと付随して、国内の反社集団にもアプローチしている形跡があります。いわゆる半グレです」
「チャイニーズマフィアですか」
「そうです。そっちは国際犯罪対策課担当になりますので、そこと情報共有はしています」
「何を探ってるんですかね。木次さん以外にも誰か掴んでますか?」
橋爪が手を上げる。
「橋爪さん、何かありますか?」
「こっちも木次さんと同じです。俺がマークしてるのは朴という人間なんですが」
「たしか中国系の日本法人商社の支社長でしたか?」
「肩書はそうです。その朴なんですが、このところ政府関係者との面会を画策しているきらいが在ります」
「実際は動いていないんですね」
「というよりも、政府関係者の方が、面会できないぐらい忙しいという感じですか」
「やはり政府内に大きな動きがあるってことですね」
「外事課に降りてない案件なんですよね?」
「そうですね。ちょっと探ってはみます。その件はちょっと預からせてください。他に何かありますか?」
野中課長にとって、部下はみんな年上で、ややちぐはぐした組織ではある。以降は各自の業務内容報告があり、ミーティングは終了となった。
会議室脇のコーヒーサーバーのある休憩室で、会議を終えた橋爪と野中がコーヒーを飲みながら話をしている。野中は橋爪とは話がしやすい。橋爪はあまり毒のある人間ではないので、そう言った点も野中には好印象である。
「橋爪さん、これはオフレコなんですが、一応、耳に入れておきますね」
「何でしょう?」
「はっきりした話ではないので、ミーティングでは言いませんでしたが、実は二係だけではなく、他の外事課からも同じような報告が上がっているようです」
「政府内に動きがあるって話ですか?」
「ええ、管理官からの情報ですが、外事課の全体会議で似たような報告が相次いだそうです。つまりは、北朝鮮だけじゃない」
「世界各国が、政府関係者から情報を取ろうとしているってことですね」
「そうなります。ところが管理官レベルでもその事実を知らない」
橋爪の小さい目が大きく剥かれる。
「どういうことなんでしょう?」
「政府の上層部しか知らない動きなんですかね。で、何だと思います?」
「いやあ、野中さんもわからないんじゃ、俺にはわからないな。世界が興味を持つ案件ですよね」
橋爪にはまったく思いつかない。今の日本に世界が興味を持つような事案があるのだろうか。
そこで橋爪が何かを思い出したように話をする。
「野中さん、俺も会議では話しませんでしたが、情報があります」
「何でしょうか?」
「ここに来て北の連中の会話や連絡の中に『なまず』という隠語が出てきます。朝鮮語なんでそれが本当にナマズのことなのか、何なのかがわかりません。イルダンと言ってるんですが、何か知ってますか?」
「いや、わからないですね。もちろんナマズは向こうにもいるでしょうが、隠語となると何ですかね」
「そうですか、まあ、大した話じゃないと思いますけどね」
2
朝。まだ、時差ボケもあるのか眠そうな顔でザナが起きてくる。伊瀬知を見ると朝からデスクワークをしている。昨晩同様にパソコンの前にいる。ひょっとすると徹夜だったのだろうか。ザナが挨拶する。
「おはよう」
「おはよう、眠れた?」
「はい、ぐっすり眠れました。悠は眠れた?」
「うん、大丈夫」
「朝から調べものなの?」
伊瀬知が顔を上げてザナを見る。ザナは朝の光の中で伊瀬知を始めてしっかりと見た。
すっきりとした顔立ちで、とてもチャーミングだと思った。日本人はみんな子供っぽい印象があるが、特に伊瀬知は10代にも見える。増々昨日の活躍が信じられない気がする。
「大森博士の足取りを追ってた」伊瀬知が言う。
「それで何かわかったの?」
「飛行機はJALね。ロスアンゼルス空港12:30発、羽田17:30着の便で来日している」
「確か、そうだった」
「それで、到着した羽田空港内の監視カメラの画像を探ってみた」
「え、そんなことが出来るの?」ザナが驚く。
「こういうシステムに組み込まれているカメラ画像はなんとかなるよ」
ハッキングしたということだろうか、信じられない気がする。
「それでこれが大森博士」
伊瀬知がノートパソコンを見せる。監視カメラの映像だろうか、確かに大森が写っているのがわかる。空港前の道路のようだ。そこに黒い高級車が到着する。車から二人降りてくる人間がいる。一人は大森とは旧知の仲のようで、握手をしながら互いに再会を喜んでいる。男の歳は大森よりは上に見える。
「ザナはこの人がわかる?」
「いいえ、見たことないです。誰なんですか?」
「検索するとすぐに分かった。彼は帝都大の教授、池内正人。大森とは交流がある」
そして、車からもう一人が降りてきて、大森に挨拶している。高級そうなスーツを着た男性で、歳は50歳代だろう。
「この人も知らないよね」
「わからない」
「まだ調べてないけど、雰囲気からしておそらく公務員ね。それも高級官僚の匂いがする」
見ただけでわかるのだろうか、ザナにはまったく意味不明だ。
「まずは、この池内に会いに行こう。ザナも付いてきて」
「はい」言ったはいいが、ザナがたじろぐ。「え、またバイク?」
「東京見物も兼て、地下鉄で行こう」
ザナはほっとする。また、ジェットコースターみたいな乗り物には乗りたくない。
3
探偵事務所近くの東陽町駅から地下鉄に乗る。ザナは地下鉄など初めてだ。券売機前に掲示された路線図を見て驚く。
「すごい、迷路みたい。東京中を地下鉄が走り回ってるの?」
「そう。同じ区間を走ってるのも多いけど、ほぼ都心の全域を網羅してる」
「日本人は地下が好きなのね」
「そうみたいね」伊瀬知がにっこりと笑う。
ホームにある時刻表を見ると電車は10分刻みに到着する。そして正確に運行されている。ザナは増々驚く、銀色の電車に乗りこみ伊瀬知に確認を取る。
「時間通りに来るのね。すごい」
「そう?日本の電車は遅れることはあんまりないよ」
日本人は律儀だと聞いたけど、電車もきっちりしているんだと勝手に判断する。
「それで池内教授のアポは取れたの?」
「アポ?取ってないよ」
「え、アポがなくて大丈夫なの?」
「大学の先生が探偵風情に会ってくれるわけないじゃない。さっき調べたら、今日は授業があるみたいだから、学生に紛れてアポなしでインタビューするの」
「まじ?そんなこと出来るの?」
「なんとかなる」伊瀬知はそう言ってにやりと笑う。
大手町で乗り換え、丸ノ内線で大学の最寄り駅で降りる。地上に上がるとすぐに大学が見える。帝都大学だ。ザナは校舎を見てつぶやく。
「へー、歴史のある学校なのね」
「そうね。ここは大森博士の母校でもあるの。日本では権威のある大学ね」
「父の母校か、なるほど」
そして正門まで来る。侍でも出てきそうな建物だ。
「すごい。やっぱり歴史的な建物だ」
「この門が作られたのは江戸時代だから、200年ぐらい前に建てられたのよ」
「その頃から大学があるの?」
「いいえ、大学はその後に、ここに作られたの。明治時代だから、約100年前かな」
「へー歴史があるのね」
「この門からは入れないの。ここは参考に見せただけ、さっきの所まで戻ると、ほんとの正門がある」
地下鉄の駅近くに戻り、そこにある門から学内に入る。伊瀬知は東京見物もかねて見せてくれたのだろう。
「ちょうど、理学部はこの近くにある」
伊瀬知が門からすぐの建物まで歩いていく。ザナは若干おどおどしながら付いていく。外部の人間が構内をウロチョロしてもいいのだろうか。その様子を見て伊瀬知が言う。
「ここは留学生も多いから、ザナは学生みたいな感じで歩いてれば問題ないよ」
そういえば、確かにキャンパスには外国人もいる。なるほどそんなものかと安心する。
「ところで、ザナは大学で何を勉強しているの?」
「私は数学に興味があって、それを専攻してる。ただ、具体的に何を研究するかはこれから考えるつもり」
「そうなんだ」
伊瀬知はあらかじめ調べてきたのか、どんどんと進んでいく。そしてある教室の前に着く。「池内はここで講義中だね。もうすぐ終わるけど、覗いてみる?」
「大丈夫なの?」
伊瀬知はうなずくと扉をそっと開けて中に入る。昔ながらの割と大きな教室のようで、椅子や教壇も木製でここにも歴史を感じる。黒板の前には教壇があり、学生が座る席はコロシアムのような半円形で、後ろに行くにつれて徐々に高くなっている。
今、その教壇で講義をしているのが、池内正人のようだ。なるほど先ほどの画像の人物だ。講義内容は物理学のようで、黒板にはその数式が書かれている。
「ザナはあの数式がわかる?」
「ええ、多分、惑星の軌道を説明していると思う」
伊瀬知はなるほどと言った顔をした。ザナはこの探偵もそれが分かるのかなと思った。
しばらくするとチャイムが鳴り、講義は終了となった。池内教授が教壇を降りていく。そこに伊瀬知がすばやく取りつく。ザナもつられて付いていく。
「池内教授」
池内は伊瀬知を見る。はてこんな学生がいたかなといった顔だ。
「素晴らしい講義でした」
講義をほめられて悪い気はしない。池内は思わずにこりとする。
「少し質問があるんですが」
「何かな?」
「先日、大森博士に会われましたよね?」
突然、まったく関係のない質問に躊躇するが、気を取り直すように話す。
「君は誰なんだ?」
「はい、すいません。実は彼女はその大森教授の娘さんです」
後ろにいるザナを池内に紹介する。池内はザナを見るが、判断に迷っている顔をする。「えーと、それで何の用ですか?」
「はい、現在、その大森博士の所在がわかっていません」
池内が驚く。教室にはまだ数人の生徒が残っている。ここで話すのはまずいと思ったのか、「ちょっと、私の研究室まで来てくれるか」そう言うと歩き出す。
「はい」伊瀬知とザナは教授の後に付いていく。
隣の建物の3階にある研究室に行く。入口には池内研究室という看板があった。
学生たちが数人、教授とその後から入って来た伊瀬知とザナを見て、何事かといった顔をする。宝塚の男役と中東系外国人である。得体が知れないとでも思っているのだろうか。教授はそのまま無言で自室に入る。
縦長のうなぎの寝床の様な部屋である。両隣には本棚があり、本がはみ出すように溢れている。まさに所狭しと言った感じだ。机の前に来客用のソファーがある。
「そこにかけてくれ」
ソファーを薦められ、伊瀬知とザナが座り、その向かいに教授が座る。
「あなたが大森教授の娘さんだという証拠はありますか?」
池内は単刀直入に話をする。ザナが答える。
「私はザナと言って、ロサンゼルス工科大学で学んでいます。大森博士の戸籍上の娘ではありません。ただ、博士と一緒に暮らしています」
そういいながらスマホを出し、ザナと大森が映っている画像を見せる。ロスアンゼルス工科大学の構内で二人が笑顔で映っている。
「なるほど、いつから一緒に暮らしているのかな?」
「2017年からです。私が12歳で母が亡くなったときからです」
池内はその話を大森から聞いていたようで、ザナの言うことをある程度、信用したようだった。
「大森博士からクルド人の娘さんがいることは聞いています。そうか、貴方がそうなのか。それであなたはどなた?」池内は伊瀬知に質問する。
「はい、ザナに依頼されて、大森博士の捜索をしています。伊瀬知悠という探偵です」
「探偵さんか」ここで池内は少し悩むような顔をする。そしてしばらくしてから、おもむろに話し出す。
「大森博士はアメリカに戻っていないんですね」
「そうです。もう1週間も音沙汰がありません」
「そうですか、1週間か」再び、黙り込む。「いや、私も詳しい話を知ってるわけではないんです。ただ、この話は絶対に外部に漏らすなと言われている。国の根幹を揺るがす事案のようです」
国の根幹を揺るがすとは尋常な話ではない。一体、何の話なのだろうか、伊瀬知とザナの顔が強張る。
「ですから、ここだけの話としてください。私が話したことは内密でお願いします。貴方が娘さんだから話すことです」
ザナがシュアと了解を告げる。
「実はひと月ぐらい前に、日本政府からの依頼で、宇宙物理学についての権威を紹介してくれと言われました。元々は私にその依頼があったのですが、宇宙物理学だと、私は違うかなと思ったものですから、他の方を検討するようにお願いしました」
「宇宙物理学ですか」
「はい、具体的な話はなかったのですが、とにかく日本人の方がいいという話でした。それで何人か候補者を上げました。もっとも今の物理学の世界で、大森博士を超える人材はいませんがね。結局、政府関係者も大森博士が適任だという判断になったようです」
「選別理由については、具体的に何か聞いてはいないんですか?」伊瀬知が質問する。
「宇宙物理学について知見のある方ということでした。また、柔軟に物事に対応できる人間をとのことでした。私も大森博士を候補には上げましたが、多忙で無理かなとも思ったんですよ。でも博士は了承し、急遽、来日することになりました。最終的に私が彼らに引き合わせました」
「ということは大森博士にとっても、それが最重要だと判断したということですね」
「そうなりますね」
「どなたに引き合わせたんですか?」
「内閣府の人間です」
「お名前は?」
「清水と名乗っていました。ただ、名刺交換をしたわけではないので、それが本名かどうかはわかりません」
「すみませんが、内閣府の人間だと判断できる材料は何だったんでしょう?」
「その前に林首相から電話がありました」
「総理大臣ですか?」
「そうです。以前、お会いしたこともあるので間違いはないです。内閣府の清水を向かわせるとおっしゃっていました。さらに他言無用との念押しもありました」
間違いなく国家的なプロジェクトのようだ。総理自ら話をするほどの、さらにその機密性の高さも伺い知れる。
「実際は1カ月もかからないような話だと聞いていました。私も機密事項というので、博士はそのままアメリカに帰ったものだとばかり思っていました。忙しい人なので、挨拶がなくても当然だと思っていたんですが」池内が悔やむような顔をする。
「そうですか」
伊瀬知が質問する。「再度の質問になりますが、今回の件で池内教授の方で、何か思い当たるようなことはありませんか?なんでもいいんですが」
「うーん、それなんですが、検討がつかないというか、そういった事象に思い当たることはないですね」
「逆に大森博士が最も適任だというような事案って、何だと思いますか?」
「さあ、何でしょうね。博士が最近発表した論文は、物理学の中でも重力波や余剰次元についてです。しかしそれに該当するような事件があったという話は聞いてはいません。まあ、そんなことが起きるとは考えづらいですがね」
ザナはうなずく。大森は重力波について新たな論文を発表したばかりだった。それも世界を揺るがすようなものだった。それに該当するような事件が発生したとすればそれこそ大騒ぎになるはずだった。
池内教授との打ち合わせはここまでとなる。伊瀬知が言う。
「池内教授、突然、おじゃましてすみませんでした」
「心配ですね。大森博士が見つかったら、私にも連絡してください。また、こちらからもわかったことがあれば、連絡しますよ」
「はい、ありがとうございます」
伊瀬知とザナは大学を後にする。
駅に向かう道すがら伊瀬知がザナに聞く。「ザナは大森博士の研究内容を知ってるのよね」
「ええ、宇宙物理学の中でも、重力波と余剰次元について研究していた」
「余剰次元、エクストラディメンジョンね。今、我々の世界には目に見えない新たな次元が存在しているって理論ね」
「悠も知ってるんだ。そう、今では理論としては疑問の余地はないみたい。世界の理論物理学者が、色々な論文を発表している」
「そういった理論を必要とする事案が起きたってことか、それも政府が秘密裏に進めるような」
「うーん、そうなのかな。でももしそうだとしたら、大騒ぎになってるはずだよ」
「秘密にしてるのかもしれない。公開できないような内容でね。そう考えるとザナが誘拐された理由も、それが関係しているのかもしれない。ザナを使って博士と取引したいとでも思ったのかな」
ザナはまさかとは思うが、伊瀬知の話で辻褄は合う。
「じゃあ父は、まだその案件に携わってるということかな?」
「それは違う気がする。そういった案件だから連絡が出来なくなったとは考えられない。だって6日前には連絡してたんだもんね」
それから伊瀬知は考え事でもしているのか、無言で歩いていく。そしてしばらくしておもむろに話し出す。
「あとは内閣府の清水という人間を当たるしかないね。空港で面会したやつが、名前はともかく、内閣府の関係者だと言うことは間違いがないはずだから、素性を当たってみるしかないな」
4
内閣府の清水は、伊瀬知がハッキングで調べるまでもなく、内閣府のホームページ上であっさりと特定出来た。内閣府政策統括官、清水裕一郎52歳がその人物だった。内閣府で政策を担当するトップである。今回は首相からの特命事項で本名で動いたことになる。なるほどそういう人物が大森博士を迎えに行ったことからも、案件の重要性が伺える。
そして翌日。
ザナと伊瀬知は永田町のカフェにいた。伊瀬知は何か策を考えついたようでザナには事前の準備が施されていた。ただザナにはその細かい話をしていない。とにかく伊瀬知は忙しいようで、ザナには構っていられないといった感じだった。はたしてここで説明するのだろうか、ザナが聞く。
「悠、政府が絡んでいるとしても、父が連絡できない理由がわからないよ」
「確かにそう思う。大森博士が行方不明になったら、政府がザナに連絡しないわけがないよね」ここで伊瀬知が気付いたような顔をする。「ザナのことを大森は秘密にしていたの?」
「それはないよ。だって池内教授も私の事を知ってたよね。政府にも最初にその話はするよ。緊急時の連絡先は私のはずだもの」
伊瀬知はうなずく。「やっぱりそれが言えないような事態が起きたということか」
「どんな事態だろ?」
「それは何とも言えない。とにかくまずはその清水とコンタクトを取るしかない」
「悠、それでどうするの?そんな人物に、おいそれと会えないよね。それとどうして私がこんな格好になるの?」
伊瀬知はにやりと笑みを見せる。
「清水に会うのは、大学教授以上に難しいね。探偵風情がアポ取って会えるような人間じゃない」
「でもここは永田町だよね。まさか、いきなり内閣府ってところに乗り込むつもり?」
本来、伊瀬知は単独で探偵作業をするのだが、拉致される恐れのあるザナを一人にしておくわけにはいかない。それで連れてきていると言っていた。今日は珍しく伊瀬知はスーツを着ている。さらに、荷物類を全て失くしたザナにも同じようなスーツを着るように言い。先ほど量販店で購入してきた。ザナはスーツ姿の自分に情けないものを感じてしまう。なんか、取って付けたような服装だ。日本で言うリクルートスーツだそうだ。どうしてこんな服なのと聞いたら、日本では就職面接用にみんながこうゆう服を着るそうだ。一般的にもっともありふれた恰好らしい。ザナは思った。日本人って不思議で仕方が無い。なんで同じ格好で就職試験に臨むんだろう。
「じゃあ、行くだけ行ってみようか」伊瀬知が言う。
ザナはきょとんとしている。こんなスーツを着せられた理由もよくわからないし、行くだけ行くって、この服装だと内閣府ってところに入れるのだろうか。
伊瀬知はカフェを出るとどんどん歩いていく。仕方なくザナは付いていく。
日本の政治の中心地、永田町内閣府庁舎、まさに内閣府の本丸である。入口ロビーは全面ガラス張りで実に広々としている。フロアには大勢の来訪者がいる。奥に受付フロアがあり、受付の女性が二人で入門者を割り振っている。そこから少し離れたそれこそ、入り口付近に伊瀬知とザナは立っていた。伊瀬知はそれとなく人を待っている風である。
はて、これからどうするのだろうとザナが思ったところ、伊瀬知はザナにそこに待機するように言うと、自らは人混みに紛れるようにして受付付近に近づいていく。何をするのだろうとみていると、何故か何もしないでそのまま戻って来る。ザナは不安で仕方がない。
「悠、ほんとにどうするの?」
「ちょっと待って、考えがあるから」
いったい、何をする気なのか。ザナが再び質問する。
「だってセキュリティゲートがあって、簡単には入れないじゃない?入門証がいるみたいだよ」
先ほどから見ていると、内部に入るためには駅にあるようなゲートが数か所あり、そこに入門証をかざすことで入館できる。職員は入門カードを持っているが、外部の人間はアポイントの確認を受付でおこなった上で、名簿に名前を記載し、ゲストカードを入手できるようだ。この状況でどうやって入館するというのだろう。
ちょうど受付で二人組の男性が、ゲストカードを入手していた。その男たちがゲートを通過していく。そのタイミングで伊瀬知がザナに言う。
「じゃあ、ザナ、ちょっとここで待機ね。変なおじさんが来ても付いて行ったら駄目だからね」そう言ってウインクする。
ザナが返事をする間もなく、伊瀬知はイヤモニを外して受付に行く。あれ、いつの間にイヤモニしてたんだろ、何を聞いていたのかな。
伊瀬知はそのまま受付に行く。
「すいません、リンクウェーブのものなんですが、私の連れはもう来てますでしょうか?」
伊瀬知の話に受付嬢が名簿を確認して、「ああ、今、入って行かれましたよ」そう言って、ゲートの方を見る。先ほどの男たちはすでに中に入ったようだ。
「え、そうですか、私と一緒に入るはずだったんです。どこではぐれたんだろ、今ですか?田中昭ですよね」
「はい、そうです。田中様です。たった今なので追いかければ間に合うと思いますよ」
「わかりました。名前はこちらに記入すればいいんですよね」
「はい、そうです」
先ほどのゲストに合わせて、名簿に名前を追記する。受付嬢は疑いもせずに入門カードを伊瀬知に渡す。
「どうもありがとうございます」
伊瀬知はそう言うと、受付の机の裏側に付けた小型マイクをすばやく回収する。さきほど、フラフラ歩きながら設置したのだ。そして追いかけるように走ってゲートを通過する。
離れて見ていたザナは、伊瀬知がどうやってゲストカードを手に入れたのかが、全く分からなかった。そしてますます得体が知れないと思う。
伊瀬知はエレベータで三階まで行く。そこに内閣府政策統括官室がある。まさに清水の部屋だ。伊瀬知は迷いなくその部屋に向かう。
周囲を伺うこともせずに、伊瀬知がドアをノックする。返事が無いことを確認し、中に入る。部屋は結構広い。伊瀬知の事務所をすべてでも足りないぐらいの広さだ。床は絨毯張りで、さすがは政策統括官だ。税金を使ってる感が半端ない。
部屋の奥には大きな机があった。統括官が作業をしているだろうそれを調べる。
机の端に書類受けの箱があり、決裁済とそうでない書類が分類されている。そこにある文書類をざっと確認し、次に机の中を確認する。普段は鍵をかけるのだろうが、今日の様に、ちょっとした会議で離籍するようなときは何もしないようだ。簡単に開いた。
ちなみに伊瀬知は統括官のスケジュールは確認済だ。それで安心して家探しできるのだ。約1時間は会議で席を離れるはずだ。
書類がファイリングされている文書ホルダがあり、中身を確認するが、伊瀬知が知りたい情報はなかった。次にパソコンを操作しようとする。統括官の個人情報などから、推定できそうなパスワード類はすでに押さえてある。パソコンを触ろうとスリープ解除して驚く。画面が簡単に開くではないか、スクリーンセーバーだけしか機能させていないとは、これでこの国の機密情報は大丈夫なのかと要らない心配をする。
すばやく該当しそうなファイルを検索する。
するとすぐに大森博士の情報が見つかる。そのホルダは『江東幹線工事未確認物体』とあった。すばやくそのホルダごとUSBメモリーに保存する。とりあえず、ここはこれで終了だと思った瞬間に扉が開く。
そこに清水政策統括官がいた。伊瀬知を見てぎょっとしている。
「君は誰だ?」
清水は年齢52歳のはずだが、見た目はもっと若く見える。すっきりとした顔立ちで40代前半といってもいいぐらいだ。統括官として現内閣からの起用となったが、政治家出身ではない官僚育ちのエリートである。
伊瀬知は至極冷静に答える。
「宇宙開発戦略推進事務局の小林と申します。統括官に承認をいただきたい文書を持ってきました」そう言いながら先ほどの未処理の書類入れを指さす。先ほどの未決裁文書の一番上にあった書類部署を適当に答えたのだ。
「そうか、そこに置いたのなら出ていきなさい」
「はい、失礼します」
伊瀬知は何食わぬ顔でそのまま出ていく。統括官はパソコンをロックし忘れたことを思い出したのか、急いでパソコンを操作している。それをしり目に伊瀬知は悠然と去っていく。
ザナは手持無沙汰に、一階フロアで伊瀬知を待っていた。ゲートに伊瀬知が見える。よかったと安心する。伊瀬知は受付に入門証を返還すると、ザナのところまで来る。
「とっとと逃げるよ」
伊瀬知は平然と出口から出ていく。ザナも慌てて追従していく。いったい、探偵って何でもできるものなの、ザナは不思議で仕方がない。
伊瀬知たちは永田町に長居は禁物とばかりに、東陽町の事務所に戻る。
そして先ほどのUSBデータを確認する。その内容から判断すると、江東幹線工事中に未確認物体が発見されたとある。その正体が判明しないために工事は停止し、色々な学者を当たって大森博士の出番となったようだ。
ザナが質問する。
「これじゃあ、内容がよくわからないよ。核心部分が何も書かれていない」
「情報の漏洩を気にしてるから、曖昧な表現しかでてこないな」
「でも、どうして父なんだろ?」
「大森博士を担当にした理由も書いてないね。そういった内容については記録を残さないようにしているみたいだ。候補者名簿はあるけど、選定理由についてはまったく記述がない。特に未確認物体についての記載が何もない」
「父は今もその未確認物体の所にいるのかな?」
「そうね。まずはそこを探るしかないな」
「どこを当たるの?江東幹線工事ってどこなんだろ、悠は当てがあるの?」
「江東幹線工事はこの近所でやってる、地下下水道工事のことだね。地下に下水用の大型トンネルを掘ってるの。最近この辺りは集中豪雨で川が氾濫する危険性が高まってるから、大きな下水処理施設を作って洪水対策をしようってわけね」
「そうなんだ」
「そこで未確認物体が見つかったのはわかるけど、どうして大森博士なのかな」
「隕石みたいなものが見つかったんじゃないの?ネットに情報はない?」
「ネット情報なんてあまり当てにならないのよ。いい加減なデマも多いしね。うーん、まずは情報収集か」
きょとんとするザナに対して、伊瀬知はにやりと笑う。何か当てがあるようだった。
5
そしてその夜になって、早速伊瀬知が出かけるという。
「どこに行くの?」
「うん、晩飯がてらに人と会う」
そういうと伊瀬知は事務所を出て歩いていく。問答無用でザナは付いていく。基本的にザナは伊瀬知と行動を共にすることが義務付けされている。
「近いの?」
「うん、歩いて10分ぐらいかな」
事務所から歩いていくと、確かににぎやかな繁華街らしき場所に出てきた。
東陽町の人工的な空間から、なにやら風情のある日本的な場所に出てくる。店らしき明かりが道路わきに広がっている。
「ザナは社会見学を兼てだな。ここは門前仲町って言って、いわゆる下町って言われてるところなの」
「ダウンタウンね」
「アメリカのダウンタウンとは、ちょっと違うかもしれない。昔ながらの町ってところかな。江戸時代だから300年前からあるんだよ。お寺を中心に発展した町だね」
「へー、お寺、歴史があるんだ」ザナは素直に感心する。
その繁華街の昔ながらといった居酒屋に入る。もちろん最近建てられた店だが、作りがそういう風情になっているだけである。入り口に暖簾がかかっており、扉や外観も燻製された木材で出来ている。
扉を開けると中もアンティークな雰囲気で、いかにも日本の居酒屋といった感じである。中央に厨房があり、料理人が作業している。それを真ん中に囲むようにカウンター席があり、さらにその周囲にテーブル席が用意されている。テーブルも同じような木で出来ている。
魚でも焼いているのかいい匂いがする。ザナは興味深そうに店内を見ている。
奥のテーブル席で男性が手を上げている。40歳は越えているだろうか、がっちりした体形で髪型は角刈り、口の周りに髭も貯えていて、ポパイに出てくるブルートを思わせる。
「ご無沙汰してます」あいさつした伊瀬知に男はおうと答える。
「こちらがザナさんです。こちら村上さん、刑事さんなの」
刑事さんと聞いてザナは驚く、そして日本語で挨拶する。「ザナといいます。初めまして」
「村上保だ。伊瀬知とは飲み仲間だな。まあ、座りなさい」
伊瀬知とザナが向かいの席に座る。伊瀬知がザナに英語で説明する。
「所轄の刑事さんなの、警察も非公式だけど探偵を利用することがあるんだ。それで彼と知り合った。こっちも警察情報を入手できるんで、持ちつ持たれつってところかな」
「所轄って何?」
「ああ、この地域の警察署ってこと」
「へー、そうなの」
ここまでの二人の会話は英語だったので、村上が面食らっている。
「なんだ。秘密の話か?」
「いえいえ、ザナは英語の方が理解できるので説明したんです」
「そうなんだ。でも日本語も出来るんだろ?」
「はい、日常会話程度ですけど」ザナが日本語で話す。
「今、いくつ?」
「18歳です。もうすぐ19歳ですけど」
「じゃあ、アルコールはまだ早いな。何にする?」
「オレンジジュースはありますか?」
「あるよ。伊瀬知はどうする?」
「村上さんと同じもので」
村上は手に大ジョッキを持っている。それがすでに残り少ない。
「すみません」伊瀬知が店員に声を掛ける。
店員がおしぼりを持って席に来る。「いらっしゃいませ、何にしましょう?」
「生大二つとオレンジジュースをお願い」
注文を受けた店員が自分で酒類を作るようだ。厨房の裏に消えていく。ザナはおしぼりを不思議そうに見ている。伊瀬知は再び英語で話す。
「これで手を拭くのよ。おっさんは顔も拭くんだけど、我々は手だけね」
「じゃあ、彼は顔も拭いたのね」
ザナは村上の前においてあるおしぼりを警戒している。そんなことを言われたことも知らずに、村上は日本語で話し出す。
「伊瀬知からザナさんの話は聞いた。大森博士の娘さんなんだね」
「大森を知ってるんですか?」
「もちろん知ってるさ、今や時の人だからね。ノーベル賞間違いなしって聞いてるよ」
その話にザナは笑顔になる。「戸籍上はまだなんです。養女になる予定です」
「うん、そうか、それでクルド人なんだって?」
「そうです。でも10歳からアメリカで暮らしてます」
「そうか、クルド人ってのはよくわからないんだけど、中東のほうだよな」
「そうです。ただ、クルド人は自分の国がありません。色々な国に住んでいます。私はシリアから来ました」
「そうなのか、国が無いってのは大変だな」
「はい、何度か国を設立できそうにはなったんですが、今は難しいです」
「そうか、俺は政治的な話はそれほど詳しくないが、今はどこの国でも民族間紛争が激しいからな。俺も含めて、日本人は世界の紛争の本当の意味まではよくわかっていない」
「そうですね。まだ、日本に来たばかりですが、この国は平和です。日本人しかいないし、逆に外国人が目立ちます」
「そうか。そんなものか」村上が残ったビールを飲み干す。伊瀬知に向き直って話す。
「それで、大森博士の失踪だが、それは俺たち警察の仕事だと思う。ただ、伊瀬知から聞いて初めて知った。当然、被害届も出てないしな。だから実態がよくわからない。そうなると動くに動けない。まあ、それで聞いた話を元に俺なりに調べてみた」
「江東幹線工事ですね」伊瀬知が話す。
「ああ、確かにおかしな動きをしているな。工事自体はもう最終工程に入っていて、年度内には完成するはずなんだが、ここにきて遅れが出ているようだ」
「これは江東区の案件なんですか?」
「自治体の主体はそうだが、東京都が管轄している。まあ、何か刑事事件が起きれば、うちの管轄になるんだけど、ああ、俺は木場警察署に勤務している」
木場はこの地域の所轄警察署だ。
「工事が進んでいないのと同時に、何故か違う団体が入るようになっている」
「違う団体?」
「落盤対策チームって言ってるがね。どうも嘘っぽい。防衛省じゃないかって噂だ」
「なんでまた、防衛省が出てくるんですかね?」
「その辺がよくわからない。今は工事の停止と共に、内容変更も実施されているようだ」
「変更って?」
そこに店員がお酒類を持ってきたので、会話が中断される。適当に食べ物を注文し、ひとまずグラスを当てて乾杯をする。そして再び、話に戻る。
「今回の工事は下水道の新規増設工事が目的なんだが、予定のルートを変更するそうだ」
「たしかトンネル工事でしたよね」
「そうだ。下水と言うか、豪雨時の雨水を流すための大型の下水管といったところだな。最終的には荒川に流す。そのルートが変更された」
「つまりその変更前の最終箇所に、何かがあったということですね」
「そういうことだな。ただ、そこは立ち入り禁止だ」
「そうなんですか?」伊瀬知が驚く。
「表向きには地盤に問題が見つかって、工事ができないということになっている。それで立ち入り禁止だ」
「本当の理由は?」
その質問に村上が頭をひねる。
「それがわからねえんだ。工事関係者も地盤の問題だとしか聞いて無いんだな。落盤の危険性があって入れないらしい。ただね。シールド工法でそんなことはないと思う」
「シールド工法って言うのは、大型の掘削機でトンネルを掘りながら、同時にコンクリートの壁を設置していくやり方ですよね」
「そうだ。だから落盤する危険性は低い。それにここいらは海だった場所だ。そんな落盤するようなものはないはずなんだが。地盤が弱いとかはあるかもしれないがね」
「現場の人間は何か言ってないんですか?」
「それなんだが、トップダウンで話をされているみたいで、現場の人間には細かい話は降りてこない」
「そこに入れないんですかね?」
「下水道にか?まず、無理だな。防衛省がガードしてるからな」
「そうですか、場所はどこら辺か、わかるんですか?」
「大島小松川公園ってあるだろ、あそこの地下だという噂だ」
「荒川沿いですね」
「そうだな」
伊瀬知は考えこむ。
村上が生ビールをあおって言う。「まあ、そんなところだ。じゃあ飲もうか」
それを受けて、伊瀬知もにやりと笑うと「そうしましょう」と追従する。
そこから日本流の宴会開始となる。ザナは日本語が飛び交う宴席は当然初めてで、二人がする会話の半分も意味が分からなかった。ただ、日本ではパパ活なるものがあり、若い女性が中年男性に奉仕して、金銭を授受することが流行ってるらしい。伊瀬知も村上に同じようなことをやっているといったジョークで盛り上がっていた。
さらにこの宴席の代金は伊瀬知が払っていた。伊瀬知曰く、これが持ちつ持たれつということらしい。
夜も更けて、村上との情報収集会を終えた、伊瀬知とザナは事務所に戻ろうと歩いていた。ザナはソフトドリンクのみだったが、伊瀬知はしこたまアルコールを摂取していた。それでもまったく酔ってるように見えない。村上はろれつが回らないほどの泥酔ぶりだったが、伊瀬知はこれからジョギングでもできそうな感じだ。ますます、この伊瀬知という女性の得体が知れないと思う。
ザナが話す。「悠、これからどうやって父を探すの?」
「そうだね。まずは大森が調査していた現場を見ておきたいな。ただ侵入するのは難しそうだね。探りを入れてみるかな」
「探りを入れる。何か方法があるの?」
「まあね」そういって愉快そうにステップを踏む。
「何とか言う公園だったよね」
「大島小松川公園、ここから近いよ。目の前が海になるな」
「でも、入れないって言ってた」
「うん、防衛省が絡んでるって言ってたから、機密事項なんだろうね」
「防衛省って何?」
「簡単に言うと軍隊だよ」
「それじゃあ、どうしようもないじゃない」
「そうだね。でもちょっと考えてみるよ」
伊瀬知は歩きながら、考えているようだ。ここでザナは聞きたかったことを言う。
「村上は所轄の刑事だと言ってたけど、日本の警察はどういう組織になってるの?」
「ああ、これが難しいんだよね。まずは警察庁っていう省庁があってさ、それは国の管轄なんだよ。その下に都道府県があってそれぞれ警察機関を持ってる。東京都は警視庁ってのがある。それでその下に所轄の警察署が存在してるんだな。わかる?」
ザナはきょとんとしている。「よくわからない。ロサンゼルス市警察みたいなものかな?」
「所轄はそんなものだね。でもロス市警みたいな独自性はないよ。常に本庁が主体で動くから、所轄は面白くない部分も多いみたい」
「また、不思議な言葉が出てきた。本庁って?なんか難しい」
「とにかく警察に限らず、日本の公共の組織体系は複雑なんだよ。あえて整理しようとするつもりもないのかもしれないね」
「そうなんだ。父も日本の大学では研究しづらいって言ってた」
「そうか。アメリカのほうがあらゆる面で合理的だもんね。資金面の融通も利くしね」
二人が探偵事務所の建物付近まで歩いてくる。この付近は明かりも少なく、薄暗い。
伊瀬知の顔色が急に変わる。ザナを手で制する。そして小声で言う。
「ザナ、ちょっと待って」
「何?」
伊瀬知が口に人差し指を立てて黙るように指示する。
ザナは周囲を見るが、そんな警戒するようなものは見当たらない。伊瀬知は何を言ってるのだろうか。
ザナをその場に留めて、伊瀬知一人で事務所のビルに入ろうとする。
するといきなり物陰から何者かが襲い掛かる。伊瀬知はそれを避け、不審者の後ろに回り込むと後頭部を殴打する。鈍い音がしてそれだけで不審者は崩れ落ちていく。その一連の動きの早さにザナは驚く。まるで瞬間移動したみたいだ。
さらにもう一人が襲い掛かる。伊瀬知は跳躍する。その高さがありえない。男の頭に手をのせて、跳び箱のように飛び越えると背後に回り、強烈な足払いをする。男はそのまま倒れ、後頭部に蹴りを入れられる。それで失神する。
「動くな!」
物陰から声がして、そこを見ると、別の男が拳銃らしきものを伊瀬知に向けている。全部で3人もいたのか。それにしても拳銃とは物騒な話だ。日本は銃器が持てない国ではなかったのだろうか。
伊瀬知は手を上げて降伏のポーズを取っている。
拳銃を構えた男がじりじりと迫ってくる。伊瀬知は周囲を伺い、今回の襲撃者がこの三名だけであることを確認している。次の瞬間、男の前から姿を消す。いや、消えたように見えた。あまりの速さに男の目が追い付いていかないだけだった。あっという間に男の右手を掴むと後ろに回り、拳銃ごと男のこめかみに持って行く。
「撃ってみれば?」
伊瀬知の力は女性のものではない。男はまったく手が動かせない。なんとか逃げようともがくが、反対側の腕もがっちりと掴まれており、両腕の自由が利かない状態になっている。こんなかよわそうな女なのに、まったく身動きができないのだ。そして、伊瀬知の指が男の拳銃の人差し指を押し込む。伊瀬知が言う。
「撃つよ。この状況わかるよね。あんたは自殺することになるね」
男が青くなる。「あああ、待ってくれ。押すな、押さないで」
「お前次第だな、何者なんだ?」
「俺たちは頼まれただけなんだ」
「だから、誰なんだよ?」
「そこの外人を拉致するように言われた」
伊瀬知は指に力を入れる。
「お前は頭が悪いな。主語と述語が無いんだよ。誰が誰に何を頼んだんだ?」
「言うから指を離してくれ」
伊瀬知が指を離す。もう男に逆らう気力はなかった。圧倒的な力差があるのだ。男の前には仲間二人が完全にのびている。
「俺たちはヘチって言うグループだ」
「ああ、中華系の半グレグループだな」
「そうだ。それで今回、チャイニーズマフィアから依頼を受けた。そこの女を拉致して連れて来いってな」
「そのわけは何だ。どうしてザナを拉致する」
「それはわからねえよ。ただ、すげえ金がもらえるんだ」
「そのチャイニーズマフィアが拉致すればいいだろ?」
「そうなんだけど、その辺は俺たちにはわからねえよ。ほんというとマフィアがどうかもわからない。顔も見てねえしな。スマホで指示されただけだ」
「ここはどうやって見つけた?」
「それも連絡があった。女は東陽町の伊瀬知悠探偵社にいるって」
「マフィアの連絡先を教えろ」
「無理だよ、こっちからは連絡出来ないようになってるんだ。連絡先は教えてくれないんだ」
「よく信じたな」
「前金が出てるんだよ。それも破格の」
「よし、わかった。もういいよ」
男は拍子抜けする。「もういいの?」
「ああ、でも、もうこれで終わりにしろよ。今度やったらお前たちの組織ごと粉砕するからな」
「ああ、わかった」
六本木での行動も含め、この女には勝てないと心底思ったようだった。男は倒れていた二人を起こして、そのままそそくさと消えていった。
ザナがこわごわ伊瀬知の所に近づく。
「もう大丈夫なのかな?」
「どうかな。また、襲ってくるかもしれないな」
「うそ、勘弁してよ」
「まあ、しばらくは大丈夫かな。それにしてもやつらに依頼したのは誰なんだろうな。私がザナを解放してから、二日しかたってないよ。その間に私の居場所まで掴むのは尋常な早さじゃない」
「どういうこと?」
「チャイニーズマフィアじゃないね。国家的な組織じゃないと、ここまでの情報収集は出来ないってことだよ。どこかの国が動いている」
「国家レベルの犯罪組織?」
ザナには何のことだか全くわからない。伊瀬知は再び考え込む。
6
公安外事第三課の橋爪慎吾は尾行を続けていた。
今朝からずっとある男を尾行している。通常、公安は2名体制で尾行する。すでに一人は気づかれそうになり、公安用語でいう消毒されたようにふるまっている。ちなみに消毒とは尾行をまくことを言う。よって今は橋爪一人で行動している。
今日の行確対象は、公安第三課が以前からマークしている貿易商を装った北朝鮮の男で、崔という。
崔は江東区の家具量販店にふらりと寄った風を装っていたが、明らかに目的をもって、そこにいた男と言葉を交わしていた。橋爪は初めてこの男を見た。一見、普通の会社員風で、取って付けたような量販店スーツを着込んでいた。人種についても東洋人であること以外は良くわからない。男の画像は公安本部に送って確認してもらっているところだ。
二人はそこで別れた。橋爪は崔の尾行は諦め、もう一人の新顔の男を追うことにする。おそらく崔から何らかの指示を受けたものと思われるからだ。
男は量販店を出てから、目的も無く歩いていくが、明らかにプロの動きだった。注意深く尾行に目を光らせているのがわかる。この状況だと一人でどこまで追えるのかは不透明だ。そして周囲にひとけがなくなり、さすがにこれ以上は無理かと思ったところで、目的地らしきものが見えてきた。
大島小松川公園だった。
公園で誰かと待ち合わせするのかと思ったが、そのまま通り過ぎていく。橋爪は公園入口で煙草を吸うふりをしてそこで待機する。すると男は近くの小松川第2ポンプ所まで行き、その中に入って行くではないか。
一体こんな場所に何の用があるのか、ここから先には東京湾があるだけだ。ただ、これ以上の尾行は困難なので、仕方なくそこで待つことにする。本部にはさらなる応援要請も行った。
しばらくそこで待っていると、ポンプ所から出てくる人間を見て驚く。あれ、何故、あいつがここにいるのだ。それは知ってる顔だった。伊瀬知悠という探偵だ。後で彼女に確認することにする。それにしても不思議なのは、探偵と北朝鮮スパイが同じ場所にいることだ。いったいどういうことなのだろうか。
数分後、橋爪は応援に駆け付けた同僚と交替する。尾行していた男はそれから30分後に再び現れ、交代要員が尾行を続ける。
橋爪は男が探っていたポンプ所を訪れることにする。いったい、ここに何があるというのだろうか。現場は入れないよう周囲をフェンスで囲ってあった。隙間から中をのぞくと工事中で、作業員が所狭しと動き回っていた。入口に回り、そこにいた作業員に声を掛ける。
「すみません。こちらの責任者と話がしたいんですが?」
「え、今、立て込んでるんだ。ちょっと無理かな」
若い作業員が、忙しいのにこのおっさんは何を言ってるんだと言う顔で答える。
「ああ、警察です」そう言って警察手帳を提示する。
作業員が驚き、「ちょっと待ってください」と現場監督を呼びに行く。
少し待つと責任者らしき50歳代の恰幅の良い男性が出てきた。
「ええと、警察の方ですか?それで何でしょうか?」
「すみません、お手間は取らせませんので、先ほどスーツを着た男性がこちらに入って行くのを見たのですが、どなたでしょうか?」
「さきほどですか?」
「ええ、女性のあとに来た男性です」
「ああ、あの人ですか。彼は親会社の人間です。元受けの建設会社の担当だそうで、現場を確認したいと、見学していきましたよ」
「失礼ですが、名刺か何かを貰いましたか?」
「いえ、もらっていません。でも事前連絡もありましたので、アポ済です」
「名前はなんと言ってましたか?」
「小林さんとおっしゃってました」
間違いなく偽名だ。北のスパイが何を確認に来たのだろうか。
「それと今、ここではどんな工事をやってるんですか?」
「ここは下水処理工事の最終工程で、川に下水を流す場所になります。今は支流の中川に流してるんですが、それを本流の荒川に変更する工事をやっています」
「下水道ですか?」
「そうです。地下に大型の下水道を作ってるんですよ」
「へー、すごいな。地下ってどのくらいの深さですか?」
「地下30mです」
「ほう、で、どうやってそこまで行くんですか?」
「ああ、立坑って言って、そこへ降りるための井戸みたいなものがあるんですよ。ここがそうです」
「ここですか、なるほどね」
すると現場監督が興味深い話をする。「あと立坑は江東幹線もここで工事中ですね」
「江東幹線?」
「ええ、先ほど話した下水の処理能力の江東区側の工事も同時にやってます。そういえばさっきの女性ディレクターもその取材で来たんですよ」
女性ディレクターとは多分、伊瀬知の事だな。
「男性の前にいた短髪の若い女性ですよね」
「そうです。テレビ局の取材です。こちらもアポ済案件でしたので応対しました」
伊瀬知のやつ、ディレクターを語ったな、またまた違法行為だ。
「彼女は何を取材していたのですか?」
「江東幹線工事を取材しているそうで、彼女は結構詳しかったですよ。工事区間の変更の話も知ってたし、シールド工法自体もよくご存じでした」
相変わらずそういったところは抜け目がないやつだ。
「そうですか、じゃあ、立坑内部にも入ったんですね」
「ええ、立ち入り禁止区間があるんですが、それについての取材もしてましたね」
「立ち入り禁止区間?」
「そうです。落盤の恐れが大きい箇所が出てきたんで、一部、工事個所が変更になったんですよ」
「工程変更ですか」
「ええ、そこに落盤対策チームも入ってるみたいです」
「チーム?」
「ええ、あれ、さっきの小林さんもそれを気にしてましたね。専門の対策チームです。社外秘らしいですけど。ああ、ところで何の事件ですか?」
「いえ、事件性はないんですよ。警視庁の予防措置ですね、単なる確認のためです。それでディレクターはその禁止区域にも入ったんですか?」
「あそこは無理です。危険性が高いそうでチーム以外は立ち入り禁止です」
「じゃあ、先ほどの小林さんも無理ですか?」
「そうです。管轄が落盤対策チームになっていまして、部外者は立ち入り禁止です」
なるほど、ただ、これではっきりした。やつらの目的はどうやらそこにあるようだ。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
橋爪は礼を言って現場から離れる。公園まで戻ると早速、伊瀬知に電話をする。
「もしもし、公安橋爪だけど」
『橋爪さん、お久しぶりです。お元気でしたか?』
「今、何してるんだ?」
『今も探偵さんやってますよ。何かご依頼ですか?』
「ちょっと電話じゃあれなんで、今からそっちに行っていいか?」
『うちの事務所ですか、大丈夫です。橋爪さんは今どちらですか?』
「小松川第2ポンプ所だ」
一瞬、伊瀬知が固まる。そして話す。『あら、見られてましたか、わかりました。お待ちしています』
相変わらず物事に動じないやつだ。電話を切る。
7
公安はすべての業務を自部署だけでやるわけではない。事実、チヨダ、サクラなどと隠語で呼ばれる外部の委託部門がある。情報収集には外部機関も利用しているのだ。そんな絡みで橋爪も伊瀬知に依頼したことがあった。
とにかく伊瀬知の仕事には無駄がなく。あまりに完璧なため、空恐ろしく感じることもあった。公安でもそれとなく伊瀬知自身を探ったことがあったが、彼女の素性はおろか名前や戸籍も含め、ほとんど分からずじまいだった。
探偵事務所までは近いのだが、時間も惜しいのでタクシーを利用した。運動不足で歩くのがしんどいというのが本音だ。公費も出るのでそういうことにする。
橋爪が雑居ビルを見上げる。さて、あの女、どこまで追求できるのかな。
エレベータはないので階段で上がる。たったそれだけでも息が乱れる。いよいよ中年まっしぐらだ。少しは運動しないと仕事にも支障が出るかもしれない。そんなことを思いながら事務所の扉を開ける。
伊瀬知悠と見かけない外国人がいた。
「お疲れ」橋爪が手を上げて挨拶する。
「いらっしゃいませ」伊瀬知が妙に慇懃無礼に挨拶を返す。
「こちらはどなたかな?」橋爪がザナの事を聞く。
「はい、紹介しますね。橋爪さんは大森博士をご存じですか?」
橋爪が記憶をたどる。大森博士、記憶にないな。
「いや、すまないが、覚えがないな」
「そうですか、帝都大学出身で、今はロスアンゼルス工科大学に在籍されています。宇宙物理学の権威です」
宇宙物理学とは橋爪にはほとんど縁のない話だ。ただ、その話でふと思い出す。最近、新聞で見た物理学の世紀の大発見という記事だ。そうだ、あれが大森博士だったかもしれない。
「彼女は大森博士の養女になります。ザナさんです」
「ザナといいます」ザナと橋爪が握手する。
「そのザナさんが、どういういきさつでここに居るんだ?」
「はい、話せば長いことなのですが」
伊瀬知はこれまでのいきさつをあらかた話す。当然、差しさわりのない部分だけである。
「なるほど、大森博士の行方が分からないと言うことか」
「はい、それで橋爪さん、ここからは仕事の話です。お互い、協力できる部分は協力しませんか?」
「というと?」
「私がこれまで仕入れた情報を提供します。その上で橋爪さんがお持ちの情報も教えて欲しいんです」
なるほど、そういうことか、橋爪にとっても異存のない話だ。いや、むしろこれまでの事案、橋爪には何も材料がない。そして伊瀬知の方が情報を持ってる可能性が高い。有益な提案かもしれない。
「いいだろう。情報共有といこう」
「それでは、こちらが入手した情報から話します」
橋爪は伊瀬知にわからないように録音を始める。
「大森博士は、日本政府からの依頼で未確認物体の調査を行っていました。約3週間前からです」
「ちょっと待て、未確認物体って何だ?」
「それは我々にもわかりません。ただ、それがある場所が、先ほどの江東幹線工事の小松川エリアのようです」
「ひょっとして落盤があったって場所か」
「そうです」伊瀬知が続けて話す。「そして来日以降、大森博士の消息は秘匿事項になっていました。ザナへの博士の連絡は一日一回のメール連絡のみで、その中に来日目的に関する記載はありません。これについては外部との連絡を遮断するという、政府側の目論見だったと思っています」
「最重要機密事項と言うわけだな」
橋爪は公安で話題になった政府の機密案件が、これではないかと思い当たる。
「そうです。しかし、当初、博士は2週間ぐらいで終了する案件だと言っていたことから、その後、予期しないなんらかの事件に巻き込まれた可能性があります」
「事件?」
「そして未確認物体の管理が、今は防衛省管轄になっているようです」
「防衛省か」橋爪が考えるに、先ほどの建設会社が言っていた落盤対策チームのことだと思い当たる。防衛省という肩書を隠して作業しているわけだ。
「それで、橋爪さんはこの件をどこまでご存じなんですか?」
「ああ、そのことか、実はほとんど情報を得ているわけではないんだ。俺は北朝鮮諜報員を追っかけて、ここまで来ただけなんだ。つまり北朝鮮はこの事案に興味を持っているということだけだな」
「北朝鮮ですか、他はどうです?」
「情報をもらった手前、教えるが、この動きは北だけじゃない。中国、ロシア、イギリス、アメリカも動いているらしい。事実、そういった話も聞いている」
「そうですか」伊瀬知は少し考え込む。そして話をする。
「橋爪さんのほうで防衛省の動きを追えませんか?そうすればもう少し中身が見えてくる気がします。おそらく世界がこの事案に大きな関心を持っている。つまりすでに情報が漏れている気がします」
「そういうことか、やはりな。俺が言うのもなんだが、日本の機密情報なんぞ、ザルに近いからな。相当数、洩れているだろう。それにしてもやつらがそこまで躍起になる情報って何なんだ?」
「軽々に話は出来ませんが、大森博士の研究テーマは宇宙物理学です。そこから類推すると、未確認物体は宇宙から来たものではないかと思っています」
「隕石、あるいはUFO?」
「ありていに言うとそうなります」
実際、そんなものがあるのか、俄かには信じられない気もする。ただ各国の情報機関の動きを見ていると、あながちあり得ない話でもないのかもしれない。
「よし、わかった。俺の方で防衛省の動きを探ってみる。それで伊瀬知はこれからどうする?」
「橋爪さんからの情報を待っています。それから考えます」
「うん、いいだろう。じゃあ、早速、こっちも動いてみる」
そういうと橋爪は事務所から走るように出ていく。その姿を見送ってからザナが話す。
「悠、ほんとに橋爪の情報を待つの?」
「あれは担保とでもいうべきものかな、橋爪情報なんかあまり当てには出来ないからね。何か掴めたら、それはそれでラッキー程度だから」
「じゃあ、これからどうするの?」
「今日、現場に行って、未確認物体の場所は特定できたから、今晩にでも忍び込んでみるよ」
「ええ?入れるの?」
「大丈夫、私に策がある」
「さすが悠、じゃあ、いよいよ、未確認物体と遭遇するのね。父はそこにいるのかな」
「大森の行方もはっきりさせるよ。それが目的だからね」
伊瀬知が力強く言う。ザナは思った。今までの動きを見ると、確かにこの探偵ならなんとかなりそうだ。
8
さっそく橋爪は本部に戻る。まずは野中に緊急の会議開催を提案し、それはすぐに開催された。
会議室には北東アジア第二係のメンバー8名が集合し、野中が議事進行する。
「橋爪さんから、会議開催の申し出があり、急遽、集まってもらいました。緊急事案が発生しました。それじゃあ橋爪さんお願いします」
橋爪が先ほどの伊瀬知と話した内容をメンバーに伝える。その内容に一同が驚く。
「このところの諜報員の激しい動きの原因はそれだったのか」木次が言う。
「そのようです。それで大森博士が拉致されたことは間違いないように思います」
野中課長が話す。
「防衛省が動いてるって話でしたね。それは私のほうで調べてみます。知り合いもいますから。ただ、そこまでの機密事項だと、どこまでわかるかは明言できませんが」
橋爪はうなずきながら言う。「大森博士の入国記録を取ってみます。それから、防衛省が明らかにしないにしても、現場周辺の宿の聞き込みをすれば、大森博士の宿泊先は分かるのではと思います」
橋爪の意見に全員が納得する。野中が言う。
「そうですね。付近を当たれば何か見えてくるはずです。博士ぐらいの要人であれば湾岸のそれなりのホテルでしょうから、ある程度、絞れるはずです。まずはみんなでそこを当たってください」
全員が了解する。野中が話を続ける。
「それと大森博士の件ですが、私が調べた限り、拉致されて当然の発表をしていますね」
「年明けすぐのビッグニュースですよね」橋爪が言う。
「そうです。重力波と余剰次元です。私も理系ではないので明確に断言できませんが、この理論は新たな兵器開発に結び付く可能性が高いようです。それも桁違いの威力です。まさにミリタリーバランスが根底から覆る話です。世界が躍起になる理由もわかります」
「それと未確認物体がどう絡むんですかね?」
「それはわかりません。しかし、何かあることは間違いないと思います。まずは博士の足跡を当たるしかないですね。じゃあ、皆さん捜査をお願いします」
それを合図に、全員がそれぞれの仕事を始めようと離籍する。
出かけようとする橋爪に、先輩の木次が声をかける。
「橋爪、ちょっといいか」
「はい、なんでしょう」
「さっきの話で見えてきたんだが、北からと思われる諜報員が続々と来日しているみたいだ」
「そうなんですか?」
「ああ、密入国もいるみたいだ」
「どこからの情報ですか?」
「新潟の外事課からの情報だ。向こうでも動いてくれているが、ここまでの動きはこれまでなかったと聞いている」
「新潟か」橋爪が遠い目をする。