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なまず 未確認物体  作者: 春原 恵志
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伊瀬知悠探偵社

 3月下旬。世間は春の訪れを期待する時期だが、江東区は海が近いせいなのか、まだまだ肌寒い日が続く。東陽町駅から歩いて10分の雑居ビルの一室に『伊瀬知悠いせちゆう探偵社』がある。

 元々、狭い土地に、無理やり建てた鉛筆のような4階建て雑居ビルである。当然、エレベータはなく、狭い建物の真ん中に階段があり、両隣に部屋がある作りになっている。端的にいうと団地のような建物である。3階にその探偵事務所はある。

 探偵社はそれこそ団地と同じ鉄扉に、小さな表札が掛けられており、伊瀬知悠探偵社と書いてあるのだが、よく見ないと探偵社であることも見過ごしてしまう。

 二部屋あり、打ち合わせや仕事をする10畳間と、その奥に住居兼寝床兼台所の8畳間ぐらいのスペースがある。実際、伊瀬知は8畳間を居住区としている。

 その伊瀬知が忙しそうに事務所で作業をしている。いせちゆうというのが本名だが、漢字のみの名刺を出しても、依頼主が読めないことが多々ある。それで英語名を併記するようにしているが、それでもでもわからない人もいるので、今度作る時はフリガナを入れようと思っている。

 この伊瀬知、見た目は若く20歳ぐらいに見えるが、年齢は非公開、いわゆる年齢不詳である。髪は短髪でチョコレートブラウン色、身長は159㎝、体重は48㎏と、平均を絵に描いたような容姿ではあるが、運動神経がとんでもなくいい。そして実に引き締まった姿態をしている。顔も凛々しいので、よく宝塚の男役になればよかったのにと言われる。

 この東陽町に来てからは4年ほどになる。それ以前は出自を含め、謎となっている。


 伊瀬知のスマホが振動する。

「はい、伊瀬知探偵社です」声も凛々しい。

『あの、わたしはザナといいます』たどたどしい日本語だ。もしやと思った伊瀬知は英語で聞く。

「ザナ?スピークイングリッシュ?」

『はい、英語の方が助かります』ザナが英語になる。伊瀬知も英語で会話を始める。語学も堪能のようだ。

「ザナさん、どういったご用件ですか?」

『はい、実は私の父が行方不明なんです』

 父親が行方不明、伊瀬知は電話が海外からであることに気づく。

「ザナさんは今どちらにおられますか?」

『今はロサンゼルスです』

「アメリカですか、それでお父様はどこでいなくなったんですか?」

『はい、2週間ほど前に日本に行くと言って出かけました。日本に行ってからも多忙みたいでしたが、以降もメールだけはありました。それがこの三日間、なんの連絡もなくなったんです』

「それはザナさんから連絡しても、返事が無いということですね?」

『そうです。おかしいんです』

「なるほど、ただ忙しいだけじゃないですか?」

『いえ、そんなことはないです。これまでも毎日必ずメールが来ていましたし、父は律儀な性格でそういったことはあり得ないです。それと日本に行く前に、もし何かあったら、伊瀬知さんに連絡するようにと言われていました。私が思うに行く前から、何か気になることがあったんだと思います』

「私は今まで海外から依頼を受けたことはありませんよ。ザナさんのお父さんが、私を勧めた理由は何でしょうか?」

『ああ、実は父が、貴方にお世話になったことがあると言っていました』

「私と交流があった方ですか?」

『父は大森聡おおもりさとしといって、大学教授です』

 その名前で伊瀬知は気づく。

「ああ、大森さんの娘さんですか、以前、確かに依頼を受けたことがありましたね」

『私は大森とは血縁関係はありません。養女になります』

「なるほど、わかりました。それで私は何をすればいいですか?」

『私、これから日本に行きます。父の行方を捜したいです。それで伊瀬知さんに力になって欲しいんです』

「私の仕事は探偵です。教授の捜索を主目的として、あとは時間単価で費用請求しますが、大丈夫ですか?」

『わかりました。それで費用は如何ほどになりますか?』

「そうですね。当探偵社の時間単価は5000円ですので、2週間かかるとしてざっくり50万円は下らないと思いますよ」

『なるほど、50万円ですね。大丈夫です』

「ところでザナさん、日本は初めてですか?」

『はい、そうです。日本の話は聞いていますが、行くのは初めてです』

「ええと、うちの事務所の場所はわかりますか?」

『住所を教えてくれれば、行けると思います』

「わかりました。じゃあ、事の詳細はお会いしてからと言うことで」

 伊瀬知はザナに住所を教え、事務所までの交通ルートも補足した。ザナの到着は明後日とのことだった。電話を切ってから、伊瀬知は過去の資料を確認する。大森聡の依頼は10年以上も昔の案件だった。


 探偵業には認可がいる。伊瀬知も警察署経由で東京都公安委員会に申請し、許可を得ている。さらに一般に探偵の調査費用は案外高い。伊瀬知悠探偵社は真っ当な会社なので、時間単価は5000円になっているが、高いところは一万を超えたり、経費が上乗せされたりして、後から問題になったりすることもある。はっきり言っていかがわしい探偵社も多いようだ。

 伊瀬知探偵社は値段もまともであり、仕事も堅実なために結構な依頼が来る。それと通常、探偵社は数名、多いところは数十人も社員がいるが、伊瀬知探偵社は一人でやっている。よって必然的に受ける仕事にも限界がある。

 さらに伊瀬知は20歳ぐらいの容姿で、はっきりいってかわいらしいために、伊瀬知目当てで仕事が舞い込むことも多い。調査案件は、人によっては頼み辛い内容もあり、探偵が女性の方が依頼しやすいこともある。実際、仕事も問題なく成果を上げており、伊瀬知探偵社ホームページによると業務成功率は100%を誇っている。そういったこともあって、探偵社の看板は小さくて見えないぐらいがちょうどいいらしい。


 二日後、ザナが東京に到着する日になった。

 伊瀬知はあらためて大森聡について調べてみた。伊瀬知が大森の依頼を担当したのは、彼が帝都大学の学生時代、18歳の2006年だ。その案件を解決したことで彼から信頼を得たことになる。

 大森はその後、大学で博士号を取得、よりよい研究環境を求めてアメリカに渡ったのは2016年になってからだ。

 現在大森は34歳、ロサンゼルス工科大学に在籍し、研究テーマは宇宙物理学だ。ブラックホールだの、余剰次元などを研究しているらしい。これは現在、最先端の物理学で、日本よりも海外のほうが、研究が進んでいるらしい。

 大森はアメリカで研究を続けると、この分野ですぐに頭角を現していく。研究環境の良さ、現地科学者との交流、さらに研究設備や研究資料の豊富さなどが功を奏した。

 そしてこの大森が現在、時の人となっている。

 大森の研究成果がとんでもないものを生み出していた。物理学の世界では相対性理論以来の大発見とも言われており、ノーベル賞ものと評価されていた。

 大森は重力について新たな理論を発表したのだ。

 大森は余剰次元という新たな次元を見つけるための研究をしていた。余剰次元エクストラディメンジョンは、今や物理学では当たり前のように語られている理論である。我々が生きているこの世界は一見、立体的な3次元である。アインシュタインがそれに時間という概念を追加した。それが相対性理論である。

 余剰次元とはその現在の世界に、新たな次元が存在しているという理論である。それは目に見えるものではないが、確かに存在しており、この世界はブレーンというものの中にいる。

 そして現在、人類が依然としてわかっていないのは重力についてである。もちろん重力の存在は子供でも気が付いている。ニュートンはリンゴが落ちることから重力、つまりは万有引力を発見したように、だれもがその存在自体は知っている。

 ところが万有引力のメカニズムについては未だに明確になっていない。光は光子という物質があたかも波のように存在することがわかっている。これにより量子力学は発展してきた。大森は重力も同じように波であり、それが重力波グラビトンで伝達すると考えた。そしてその重力波はブレーン内で伝達できるものだと唱えたのだ。そのため存在が見えることは無い。

 大森は重力について研究を続けており、これまでも数々の論文を発表していた。それを今回、新たな理論とともに実験により証明したことが、今回の大発見となった。

 大森の実証実験とは次のようなものであった。

 重力を局所的かつ極限まで高めてやる。そしてそこにある物質を余剰次元に転移させることが出来れば、重力波ならびに余剰次元の存在を立証できることになる。研究室にて極限まで重力を高め、ダークマター、いわゆる極小ブラックホールを作り出し、そこにある物質そのものを転移、消失させたのだ。これで重力波ならびに余剰次元の存在を確かなものにした。

 しかし、相対性理論が原子爆弾を作り出したように、この重力理論はダークマターという新たな兵器を生むことになる。この発見はミリタリーバランスを崩壊させる可能性があるのだ。そういった意味もあって世界的な大反響となっていた。

 よってこれが、今回の大森博士行方不明事件と関係があることは疑いようがない。

 伊瀬知が調べた限り大森は独身で、ザナを養女にしたような証跡はなかった。よってザナが言っていることが真実なのか、この点も、ザナ本人に確認する必要があるだろう、伊瀬知がだまされているかもしれないのだ。

 伊瀬知は他の業務をこなしながら、ザナの到着を待つ。ところが時間になっても一向に来る気配がない。結局、夜になっても何の連絡もない。何か予定が変わったのかと思っていた。

 東陽町は周辺に工場などもなく、比較的静かな町である。門前仲町まで出ると下町風情もあり、人通りもそれなりに多くなるが、東陽町自体は埋立地特有の作られた町感が漂う。特に夜になると静けさは増す。

 事務所の窓から見る景色は、ビルが連なり味気ないものだ。時刻は10時近くなり、伊瀬知は今日はもう来ないと業務終了にする。

 シャワーでもあびようかと席を立った瞬間、唐突にスマホが振動する。

「はい、伊瀬知探偵」伊瀬知が応対するのを遮るように声が聞こえる。『うーうー』なにかのうめき声だ。何事かと思うが番号を見るとザナのようだ。

「ザナなの?」

『うー』

 話が出来ないのか。「ひょっとすると猿ぐつわか、なんかされてるのね。イエスって言ってるのかな?」

『うー』なるほどそういうことか。

「どこにいるのかわかる?」

『うー』これだと埒が明かない。

「わかった。じゃあ、はいなら一回、ノーなら2回、うーって返事して」

『うー』

「イエスね、誰かに拉致されたのね?」『うー』

「今はトイレにいるのかな?」『うー』

「わかった。じゃあ助けに行くから」『うー』

「犯人は10人以上いる?」『うーうー』違うようだ。

「じゃあ、5人以上?」『うー』

 これで5人以上10人未満だと理解する。

「わかった。じゃあスマホの電源は入れっぱなしにしといて、GPSを頼りにそっちに向かう」

『うー』

「それと当然、犯人にスマホは見せないでね」

 伊瀬知は通話を終了し、GPSを使ってザナがいる場所を特定する。すぐに場所がわかる。六本木のようだ。伊瀬知は艶消しの漆黒パンツと、同色のジャケットを羽織り、黒いフルフェイスのヘルメットを2個抱えてビル近くの駐車場に向かう。

 そこには彼女の愛車、真っ赤なホンダ CB400 SUPER FOURが待機していた。このバイクは、伊瀬知のような小柄な女性にとっては車高が低く、足つき性のいいバイクで、彼女は昔からこれを愛用している。さらに特別なチューンナップも施されている。

 予備のヘルメットを荷台に括りつけると、素早くエンジンを掛ける。小気味のいいエンジン音が鳴り響く。白煙とともにタイヤを空転させながら、爆音を響かせて発車していく。

 真っ赤なバイクは9号深川線から首都高を走り抜ける。今日は取り締まりが無いことをあらかじめ確認している。とんでもない速さでカッとんでいく。伊瀬知のバイクテクニックは、それこそレーサー並みである。

 首都高を走る乗用車が何かが後ろから飛んでくるのに気づく。真っ赤なバイクだ。ただ、人が乗っているようには見えない。そして凄まじいスピードで車を追い越していく。ただ、やはりバイクしか見えない。漆黒のユニフォームであるがゆえに、本人の姿が捕らえられないのだ。幽霊が乗ったかのようなバイクは、あっという間に視界から消えていった。


 伊瀬知はものの10分余りで、GPSが表示するビルの路地にバイクを停める。

 スマホを使い、該当する黒いビルをネットで調べる。7階建て地下1階のこの辺りにはよくある建物だ。表の看板を見ると、何軒かクラブが入っている。続いて建物の詳細な構成までも調べてみる。GPSの表示から判断すると別室のある3階が怪しい。ザナはそこにいるだろうと推測する。一応、そこはどこかの事務所になっているようだ。詳しく調べる時間がないが、経験上おそらく反社関連と判断する。

 ヘルメットをサイドミラーにかけると、予備のヘルメットも反対側のミラーに掛けておく。このあとの逃走用に素早く対応したいためだ。

 ビルの外側の鉄製非常階段を使って3階まで上る。

 踊り場から金属製の非常扉を確認すると、外側にサムターン方式の鍵穴がある。こういった鍵は簡単に開けることが出来る。探偵であれば必須条件のようなものだ。伊瀬知は所持した工具を鍵穴に入れると、最初から開いていたかのようになんなく開ける。そしてゆっくりと扉を少しだけ開ける。隙間から中を見て誰もいないことがわかると、素早く中に潜り込む。そこは相当薄暗い。

 奥に続く廊下と倉庫のような部屋があるだけだ。細い廊下は中に向かって5mぐらい続いており、右側の部屋の扉が開いている。そこまで行って、中を見ると荷物があるだけで人はいなかった。

 さらにその反対側にはトイレがあった。先ほどザナが電話してきたのはここからだろう。廊下の先に事務所があるようで、扉の隙間から灯が漏れている。伊瀬知はゆっくりと扉まで近づいていく。

 外から音を聞いて中の動きを探る。声が聞こえる。男が数名いるようだ。話声からすると日本語のようだ。会話の内容から中にいるのは半グレ集団かその類、いずれにしろ反社集団であることは間違いがないようだ。言葉使いが汚い。とにかくまずは中にザナがいることを確認する必要がある。さらに注意深く聞き耳をたてる。

「もうすぐ引き取りに来るんですよね」

「ああ、金主から連絡があった。もうすぐだ」金主:依頼者

「こんなスケに価値があるんですか?見たところ外人でも中東系みたいですよね」

 伊瀬知はそれを聞いて中にいるのがザナだと判断する。

 それで十分と扉を一気に開けて、中に飛び込む。

 瞬時に室内を確認する。10畳ぐらいの部屋にソファーやテーブルがある。クラブのVIPルームのような作りになっていて、やはり内装も黒を基調にしている。伊瀬知が黒づくめの格好をしてきた甲斐があった。壁には酒瓶の棚もある。

 中央のソファーには3人の男が腰かけており、その奥に、やはり3人ぐらいの男がいる。全部で6名だ。その奥の男たちに囲まれるようにして、女性が猿ぐつわと目隠し、さらにはヘッドホンをされて縛られている。彼女がザナだ。

「なんだ、てめえは?」

 手前のソファーから大柄な髭面の男が起き上がる。男は完全に油断している。伊瀬知を見て今晩のおかずになりそうだと思うのか、すでににやけている。伊瀬知は素早く近づくと、いきなり股間に下から強烈な蹴りを入れる。男は突然の急所攻撃に何もできない。目を白黒させて口から泡を吹いて倒れこむ。そして伊瀬知は左足を高く上げると後頭部延髄にかかと蹴りを入れ、とどめを指す。それでピクリとも動かなくなった。

 ソファーの残り二人は、伊瀬知のあまりの攻撃速度に呆気にとられている。部屋は黒色で伊瀬知は黒い衣装のため見づらいのもある。まるで早送りでもしているかのように感じ、速度はより強調される。しかしそうでなくても異様に早かった。ありえない速さだった。 

 伊瀬知は今がチャンスと、右の男の顔面に内側から回し蹴りを叩き込む。そのあまりの衝撃で男はソファーから飛び出し、後ろ向きにそのまま頭から落下する。それだけで卒倒した。

 残り一人が伊瀬知に襲い掛かるが、伊瀬知は天井まで飛びあがる。その高さと速さに男たちはまたも驚く。

「なんだ。こいつは」

 伊瀬知は宙返りをすると、その男の後ろに降り立つ。そしてまるでバレリーナのように右側に倒れこみながら、反動を使って回し蹴りで男の顔面を捉える。何もできないままに男は壁まで吹っ飛び、そこにあった酒瓶を凄まじい音と共に崩壊させ悶絶した。これですでに3人がのびている。

 残りの男たちはこの女がとんでもない化け物だと言うことを認識し、慎重な攻撃を考える。ナイフやメイケンサックなどの武器を持つと、ゆっくりと伊瀬知との距離を詰め、間合いを取るようになっている。ただ、男たちは伊瀬知の目的を知らない。ザナ奪還とは思っていないところが付け目だ。よってザナへの監視が緩んでいる。

 伊瀬知は素早く男たちをすり抜けると、ザナのところに駆け寄り、彼女のヘッドホンと目隠しを取り、「ザナ?」と声を掛け、さるぐつわ越しにザナが頷くのを確認する。ロープで縛られているさなぎの様なザナを自分の肩に乗せると、先ほど入って来た扉まで一気に駆けだす。

 男たちはここで初めて、この女の目的がザナの奪還であると気づくが、動きが伴わない。とにかく、逃がすわけにはいかないと「待ちやがれ」と叫び声を上げながら、伊瀬知を追う。

 伊瀬知はザナを抱えたままVIPルームから抜けようとするが、後ろから男が掴みかかって来る。伊瀬知は後ろに目があるとしか思えない動きで、ザナを抱えたまま、右足一本で立つと、体操選手のように左足を回し、かかとを男の顎にヒットさせる。蹴りをもろに食らった男は、そのまま後ろ向きに倒れこむ。抱えられているザナは後ろが見えるので、その光景に目をむいている。

 伊瀬知は再び外に向かって走り出す。男たちは信じられないものを見たことで、呆気にとられるが、すぐに気を取り直して伊瀬知を追いかける。

 伊瀬知は先ほどの非常扉を走り抜け、踊り場に出る。後ろからは男たちが必死で追って来る。

「ザナ、じっとしてるんだよ。飛ぶから」

 さるぐつわのザナは話せない。ただその言葉に目をむく。

 そして伊瀬知はその踊り場から、ザナを抱えたまま地上に向かって飛ぶ。地上10mはあろうかという場所から飛んだのだ。伊瀬知は映画のスーパーヒーローのように、ザナを抱えたままで着地に成功する。まさにソフトランディングだ。ザナに衝撃はなかった。

 3階の踊り場から、乗り出すようにした男たちが、この光景を呆気に取られて見ている。そして再び我に返ってドタバタと階段を降りてくる。

 伊瀬知はジャケットからサバイバルナイフを出すと、すばやくザナの猿ぐつわを外し、さらに後ろ手に縛られていた拘束バンドも切り捨てる。

「後ろに乗って」

 路地に置いてあったバイクから、予備のヘルメットをザナにかぶせ、素早くエンジンを掛けると、ザナを後ろに座らせる。

「しっかりつかまっててよ」

 バイクはタイヤから白煙を上げながら、いきなりトップスピードで走り出していく。そこまでものの数秒だった。

 ようやく地上に降り立った男たちは、ゼイゼイ言いながら、追いかけようとするが、バイクの後ろ姿を見ることしか出来なかった。


 あまりのバイク速度に、ザナは悲鳴に近い叫び声を上げて伊瀬知にしがみつくだけだった。これまでの光景もにわかに信じがたい。この伊瀬知と言う探偵は何者なのか、本当に人間なのだろうかと思う。一方、伊瀬知はさるぐつわを外したことを後悔していた。バイクの騒音よりも金切り声の方が耳障りだった。

 10分程度で探偵事務所に到着する。

 バイクから降りて、ヘルメットを外したザナはゼイゼイ言いながら開口一番、「あなた、何者なの?」と聞く。

 それに伊瀬知がニヤリと笑う。「伊瀬知悠よ。まずは事務所で話しましょう」

 ザナはそんなことはわかってるといった顔をするが、伊瀬知は何も言わずに駐車場から探偵社まで戻っていく。ザナは仕方なくついていく。

 伊瀬知は事務所に入り、打ち合わせ用のソファにザナを座らせると、コーヒーサーバーからコーヒーを入れて、ザナに渡す。

「コーヒーは大丈夫だよね」

「私はムスリムじゃないから食べ物は大丈夫」

 イスラム教徒のことをムスリムという。ザナは中東出身だが、イスラム教徒ではないということだ。ムスリムには宗教上の食事制限があり、豚肉やアルコールは厳禁だ。ただ、コーヒーはムスリムであっても飲む。アラビア圏からコーヒー文化が広がったとも言われている。伊瀬知が聞いたのは断食時期であるかどうかの確認のためだ。ただ、ムスリムではないので、それも関係が無い事が分かる。

 ザナは身長170㎝で痩せており、黒髪を後ろに束ねてポニーテールのようにしている。目鼻立ちがはっきりしていて、眉毛も濃く、眼も黒い。歳は18歳だがまだ幼さも残っている。

 ザナはコーヒーをすすりながら、伊瀬知に真正面に向くと、先ほどの質問を今度は丁寧に繰り返す。「伊瀬知悠さん、貴方のことを教えてもらえますか?」

 伊瀬知がコーヒーを飲みながら答える。「悠でいいわ。歳も同じぐらいでしょ」そう言うと少し考えてから話す。「探偵をやっているものよ。まあ、貴方が聞きたいのはさっきの格闘の件だよね。あれは護身術の一種で、色々な格闘技の要素を、自分なりに昇華させものなの。探偵に必要なものね」

 ザナは日本の探偵はそういうものなのかとも思うが、あの動きはどう考えても護身術とは思えない。「でも、普通じゃない。それとあの跳躍は何?10mの高さから飛び降りるなんて人間業じゃないわ」

「正確には9.6mね。あれもその一環、衝撃をうまく吸収できるのよ」

 ザナは納得していない表情である。まだまだ聞きたいことがあるようで質問を続ける。

「父からあなたの話を聞いたけど、仕事を依頼してから10年以上たってるはずだよ。なのにあなたは私と同じ歳ぐらいに見える」

「ああ、そのことね。実は伊瀬知悠っていうのは、源氏名というか探偵用の名前なのよ。世襲制のね。あなたのお父さんと交流があったのは、先代の悠なのよ。私は2代目」

 ザナが不思議そうな顔をする。

「なんで世襲制なの?」

「私が弟子入りしたのよ。探偵業をやりたかったから、伊瀬知流の探偵術があるの。さっきの格闘技もそう、まあ、そんなことより、まずはあなたの話から聞かせて」

 ザナは仕方なく手を広げる。まだまだ伊瀬知への質問が山ほどあるのだがあきらめる。伊瀬知の質問が始まる。

「大森博士と貴方の関係は、親子でいいのね」

「そう、話せば長いんだけど、私はクルド人、シリア難民なの。母と私がアメリカに渡って、そこで大森と知り合った」

 ザナの話はこうだった。2011年から始まったシリア内戦で、実の父親は4年後に殺され、ザナ母娘は難民となった。そして命からがらトルコに逃げるも、そこでも迫害を受け、米国の知人を頼ってなんとかアメリカに渡る。まさに母親と二人での命懸けの渡米だった。

 それが7年前で、その後なんとか難民認定を得ることが出来た。ただアメリカでの生活は大変だった。母親は満足な仕事に付けずに、ファストフードや配達員などの仕事で生活を支えていく。とにかく苦難の連続だった。

 そんなときに親子は大森と知り合う。

 大森もアメリカに来たばかりで、自分の境遇と母娘を重ね合わせたようだ。不憫に思い、それとなく支援をしてくれていた。特に幼かったザナは大森に懐いており、それもあって何かと面倒を見てくれた。

 ザナはこれまでは満足な教育を受けていなかったが、アメリカで学校に通うようになり、その優秀さを発揮しだす。特に数学の能力が秀でており、大森も彼女の才能に驚いていた。

 しかし、ここまでの無理がたたったのか、母親が病死してしまう。天涯孤独となったザナを、見るに見かねた大森が養女として引き取ったということのようだ。当時20代の大森が、子持ちになることに反対の意見も多かったらしい。これに対し大森はザナの才能を惜しんでのことだと語ったそうだ。それぐらいザナは優秀だった。ただ、実のところ、大森がザナを本当の娘のように大事に思っていたことが根底にはあった。

 大森自身は日本国籍であることから、米国で養女にする正式な手続き自体は行っていない。それ故、親子の証跡は無いようだ。


 話を聞き終えた伊瀬知が質問する。

「それで大森博士のことなんだけど、どういういきさつで日本に来たの?」

 その質問にザナは困った顔をする。

「それが私も良くわかってないの。急にどこからか電話がかかって来て、大至急、参加して欲しいプロジェクトがあるって話だった」

「どこから?」

「それがよくわからない。ただ、電話があった翌日には飛行機の切符も手配されてた。私には2~3週間ぐらいで戻るって話だった」

「大森博士がその内容を話せないってことだったのかな?」

「そう。ただ、私も詳しく聞こうとはしなかった。今になって見ると聞いとけばよかったと思う」

「なるほど、それで日本に来てから、当初は連絡があったのね」

「うん、最初は羽田空港に着いたってメールが来て、それ以降は日記みたいに、毎日短いメールが届いたの。それがここ数日は、何の連絡も来なくなって、こっちから連絡しても、電話もメールもつながらなくなった」

「具体的に音信不通になったのは6日前でいいのかな」

「そう6日間まったく連絡が無くなった」

「他に何か気付くことはない?」

「父はアメリカでも重要な研究をしていたから、その仕事を保留してまでも日本に行くってことは、それがよっぽど重要なプロジェクトだったのは間違いがないと思う」

「ロスアンゼルス大学の関係者には聞いてみたの?」

「関係者にも聞いてみたけど、話すことは同じで、具体的には何も聞いてないって。ただ、大学には3週間程度の休暇になるって話だった」

「日本のどこに行くって言ってたの?」

「それも教えてくれなかった。逆にそれこそ話せないみたいだった」

 伊瀬知は少し考える。「じゃあ今日の事を教えて。貴方は空港に着いた。それから?」

 ザナが今日のことを思い出す。あれも不可思議な体験だった。

「成田空港に着いたの。そこから悠に言われたように、列車でここまで来るつもりだった。まず、駅を探そうと思っていたら、若い男に英語で声を掛けられた。駅までの道がわかるかって話だったの」

「そいつは日本人だったの?」

「どうかな、私、東洋人の区別がつかない。特に英語で話されると中国人でも日本人でも同じに見える」

 伊瀬知がうなずく。「確かにそうね。それで?」

「彼も駅まで行くって言うので安心した。日本は初めてだし、一緒に行こうって話になって、自己紹介もした」

「彼はなんて言ったの?」

「ジャッキーって名乗った」伊瀬知は思う。なるほど実に胡散臭い名前だ。「そうして駅だと思ったら、なんか道路沿いの場所に出て、おかしいと思ったところでライトバンが来て、いきなり拉致された」

「その男はどうしたの?」

「わからない。すぐに猿ぐつわと目隠しをされたから」

「スマホはどうしたの?」

「取られた。ああ、あなたに電話したのは予備のスマホ。アイフォンとアンドロイド二つ持ってたから」

「なるほど、それで助かった訳ね。犯人はどんなことを話してた?」

「すぐに大音量のヘッドホンを付けられたので、何も聞こえなかった」

「そうか、そのまま、さっきの所まで連れていかれたってことね」

「そう、日本は安全なところだと聞いていたのに、どういうことなの?」

「今や世界中に安全なところなんてないってこと、その後は何か聞いた?」

「部屋に入ってもヘッドホンを付けたままだったけど、トイレへ行かせてもらって、その時に少しだけ聞こえた」

「どんなこと、あと見たものも教えて」

「基本はずっと目隠しをされてたから、トイレで外してもらった時には若い男がいた。20歳ぐらいかな。顔とか手に入れ墨があった。あと、話はほとんどわからなかったけど、なんか私を誰かが取りに来るみたいな話をしていたと思う」

「日本語だよね」

「そう、私も日常会話ぐらいはできる。父と話が出来るように勉強したの。でもわからないふりをしたけど」

「それは賢明だったね。でも随分、用心深いやつらだね。ザナはどこに連れていかれたか、分かってなかったんだよね」

「まったく、日本はわからないし、聞いてるのは父からの話だけだもん」

「そう、なるほどね」

 ここで伊瀬知が何かに気づいたように確認する。

「ああ、そうだ。電話で確認したけれど、貴方は調査費用を出せるの?時間当たり5000円になるよ」

「大丈夫。父からカードをもらってる」

 ザナは大森からは必要な時に使っていいとは言われてカードを受け取っていた。娘としてそこまで信用があるということでうれしかったそうだ。実際、無駄遣いをしたことはないらしい。

「荷物は失くしたんだよね」

「そう、スマホとカードはあるけど、スーツケースは取られた。パスポートも服もない」

「そうか、それじゃあ、ザナはここに居た方が良いね。奴らもあなたの行方を捜してるだろうから、へたにホテルに宿泊しない方が良いな。隣の部屋にベッドがあるからそこで寝てちょうだい」

「悠はどうするの?」

「私はここのソファーで大丈夫」

「でも」ザナが躊躇する。

「ああ、その宿泊費用も請求するから気にしないで」

 伊瀬知が言うことを真に受けて、ザナはそのまま隣の部屋に行く。その後も隣の部屋から伊瀬知の作業する音が聞こえていたが、ザナは疲れてそのまま寝てしまった。

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