祠の主
自宅の近くに、小さな祠があった。
住宅街の一角に繁る草むらに埋もれるようにして存在するそれは、緑の苔に覆われ、所々が欠けて、人々に忘れられたもののように見えた。
それが可哀想に思えて、何が祀られているのかも判らないが、その道を通る時には手を合わせるようにしていた。
ある日の朝、私は珍しく寝坊をした。昨夜、とある映画のシリーズが面白くて、三本も一気に見てしまったのが災いしたのだろう。
私は慌てて自宅を出て、ホームに滑り込んできた電車に乗ってしまってから、祠に手を合わせるのを忘れたことを思い出した。日課になっていただけに通勤中は気になったが、その日はいつになく仕事が忙しくて、祠のことは半ば忘れていた。
残業を終え、すっかり暗くなった帰路に就いてから、やっと祠のことを思い出す。
朝はバタバタしていて手を合わせられず、申し訳ないことをした。
帰りはしっかり手を合わせよう。そう心に誓って、私は家路を急ぐ。
街灯がチカチカと点滅する角を曲がった時、不意に悪寒のようなものが背筋を這い上がった。
厭な感じに足を止め、背後を振り返る。が、そこには暗い道が続くだけでおかしなことは何もない。
気のせいかと思って正面を向いた私は、思わず「え」と声を漏らした。
先ほど曲がった角は、自宅マンションに帰り着く最後の角だった。ここまで来れば、見慣れたマンションの高い影が見えるはず。
それなのに今、目の前にはマンションどころか高い建物もなく、延々と一軒家が並ぶ住宅街が真っ直ぐに続いている。主に平屋が多く、良いところ二階建てがちらほらとあるくらいだ。
途中で道を間違えただろうかと一瞬頭を過ったが、いやいやとすぐに首を振る。
最寄りの駅から自宅まで、そう距離はない。道順だって複雑ではないし、何より数年間毎日歩く慣れた道だ。
余程体調が悪いか疲れているかでなければ、そう間違えるような道ではない。
それにこんな一軒家しかない場所など、近所にあっただろうか。
道の端で考え込んでいると、再び悪寒を感じて肩を竦める。
ヒタ、ヒタ……。
背後から、何かが歩いてくるような音がする。湿り気を帯びた、耳に張りつくような不快な音。
振り返りたいが、怖くてとてもできない。私は鳥肌の立つ腕を抱え、震える足をどうにか動かした。
とにかく、前へ。少しでもあの音から遠ざかりたくて、前に進む。
しかし、音は私の願いとは裏腹に後をついてくる。
私が足を速めれば同じだけ音もスピードを上げ、反対に足を緩めると音も遅くなった。付かず離れず、こちらに近寄ってこないのは良いのだが、いつまでもついてこられると気味が悪い。
それに、先ほどから周囲の景色が然程変わっていないように思うのだ。いくら暗いとはいえ、進んでいる道の先の景色の違いくらいは判るはずだ。
また、景色どころか、道は真っ直ぐに続くのみで曲がり角の一つもないというのはどういうことだろう。だというのに、ぐるぐると同じ道を歩かされているような気分である。
もう随分歩いているのに、誰とも行き合わないのもおかしい。
考え事をしたせいで恐怖が増幅し、知らない内に足を速めていたらしい。震えていることも手伝って、足許が覚束なくなっていた。
地面に当たったヒールが滑って、足首が曲がる。
「――っ」
痛みが走って、私はその場に蹲った。見事に捻ったようで、ズキズキと鈍い痛みが足首に纏わりつく。
動けなくはないが、普通に歩くのは難しいだろう。
――ヒタ。
私が立ち止まって、同じように止まっていたはずの後方の音が動いた。
ヒタ、ヒタ、ヒタ…………ヒタヒタヒタヒタヒタ。
一歩一歩踏み締めるようにゆっくりと始まった音は、しかし途中から早足になる。
私は恐怖と痛みで動くことができず、もう何が要因なのかも判らない冷や汗を流した。
そして、音は私のすぐ後ろでピタと止まり、静かになった。
後ろに何かいる。
それも、何か良くないモノが。
怖い気配だけを背中に感じ、私は息を詰めてその場に石のように固まった。
何もできずに数分間そうしていたが、気配が何かをしてくる様子はない。
少しだけ安堵して、しかしいつまでもこうしているわけにもいかず、私は心を決めた。
ゆっくりでは怖いので、思い切って一気に背後を振り返る。
「――!」
後ろは、真っ暗だった。
何も見えない、幾重にも塗りたくったような闇の色。
通ってきた道も家も街灯も、何一つない。世界が途切れてしまったみたいな、ただの闇だった。
しかし次の瞬間、私はそれが闇ではないことを知った。
首を上げた先に見える上方――そこに鮮血のように真っ赤な双眸が浮かんで、私を見下ろしていた。
それと目が合った途端、私は金縛りに遭ったみたいに指一本動かせなくなった。
赤い目が、私を凝視している。
自分の心臓が速くなっていくのを感じる。耳元に心臓があるみたいに大きく響いて、呼吸すら儘ならなくなる。
キュ、と赤い目が笑うように細まった。
直後、その巨体が私に覆い被さるように身を大きくする。ただでさえ暗かった視界が、更に闇に染まる。
怖くて、しかし私は闇を、赤い目を、見つめることしかできなかった。
刹那。
闇に覆われた視界の中央がきらりと光った。
最初は針で刺したような点だったそれは見る見る大きくなって、闇を裂くように眩い白の光に染め上げていく。
それに驚く間もなく、気がつくと辺りは闇の一片もない光の海が広がっていた。
呆然とする私の前に、何かが立った。
〝それ〟は人の形をしているようだが、背格好や顔形、性別も判らない。〝それ〟自体が発光して、輝いているからだ。
〝それ〟がいるから、辺りがこんな光に包まれているのかもしれない。
よく見えないはずなのに、どういうわけか〝それ〟が笑ったのが判った。
――いつもありがとう。
声として聴こえたわけではない。心に直接響くような、優しい声音だ。
曖昧な印象なのに、はっきりとそう言ったような、矛盾した感覚。
呆けている私に、〝それ〟は再び微笑んだ気がした。
次の瞬間、私は夜の住宅街にいた。硬いコンクリートの道路の上に座り込んでいる。
先ほどまでいた不思議な住宅街ではない。よく見慣れた、自宅近くの道だ。現に、視線の先にはいつも見るマンションの姿があった。
まだ夢の中にいるような感覚でゆっくり立ち上がるが、捻った足はもう痛くなかった。
横を向くと、草むらの中に佇む祠が見える。
私は口元に笑みを浮かべ、祠に手を合わせて歩き出した。
(明日の帰りにお供えのお饅頭でも買ってこようかな)
会社の近くにある幾つかの和菓子屋を思い出しながら、私は今度こそ家路に就いた。