春と観念
前に上げてたやつですが、何文か抜けてたので新しく上げました。
「存在するとは知覚されることだ」
そう言った彼の顔色は、昨日よりも幾分か優れていなかった。
「つまり、どういうことだ?」
僕は躊躇いがちに彼の方を向いた。彼の体を支えているのは、彼本来の力ではなく、清潔に保たれた白いベッドに他ならない。
「見て聞いて、触って。その知覚によって諸物が存在してると言えるってことだ。それ以外は存在していない。言ってみれば無意味、ナンセンスってことだ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
それ以来二人は黙ってしまった。
「桜が綺麗だ」
彼は上半身をベッドから起こして、窓で隔たった外の世界を眺めてながらそう呟いた。そうだ、世間は冬を抜け、各所に春の芽吹きが感じられるようになっていた。ベッドに面した窓の向こう側では、鮮やかな緑とともに満開の桜が道沿いに連なっている。しかし、この部屋が三階に位置することもあり、景色のうち大半の割合を柔らかな青空が占めていた。
「あそこに花をつけていない樹木があるだろう」
彼はゆっくりとした動作で、景色の隅っこの方を指さした。そこには、数多の咲き乱れる桜を横目に、黒い幹をむき出しにした木が二本、ちょうど日陰になった場所に寂しげに立っていた。
「あれも桜の木なんだが──俺は二本のうちの左の方だ。あの木は根本が腐っていて、そろそろ切り倒される。青いシートが巻き付けられているだろう。それが証拠だ」
彼は続ける。
「そして、お前は右の方だ。あれはまだ腐っていない。そればかりか、枝の先の方に蕾さえ付けている」
まだ花開く準備をしているに過ぎないのだと──そう彼は言った。
「さぁ、この時間もそろそろ終わりだ。時間切れだよ。次の友人が見舞いに来る。あいにく俺には友人が多いんだ」
窓の外を向いた彼を尻目に、僕は部屋を出た。誰ともすれ違わない廊下を進む。
外に出ると、桃色の花びらが風に巻き上げられて、春の香りがした。
次に病院を尋ねたときには、既に左の木は切り倒され、腐った切り株だけが残っていた。
あれから何度目かの春が訪れる。
あのときと同じ、春の匂いがした。
「変なことを言うから。お前はずっと存在したままだよ」
悲しげに吹いた風が、花びらを踊らせた。