一本角の救世主
国外追放。まさか、そんな事になるなんて。
きっかけは、婚約者の浮気だ。本人に言わせれば真実の愛であり、私はその邪魔になる障害。王国法においては私に理があるはずの状況にありながら、相手が王太子であるという一点のみで非は認められなかった。
対外的な体裁を保つため、私には思いつく限りの罪が着せられる。全て濡れ衣である事は言うまでもないが、彼らにとって事実か否かは関係がない。
王太子が浮つき、婚約者ではない女性と密通した。この不名誉を包み隠すための隠れ蓑が私である。
公には、罪人である婚約者を追放したのちに新たに出会ったとされているはずだ。
リドリア・アイゼンバック侯爵令嬢。それほどの立場にありながら、私は一晩で全てを失ったのだ。
せめてもの救いは、家族にまでは被害が及ばなかった事。これからは私という醜聞を背負っていかなくてはならないものの、裁かれる事のみは免れたのだ。
しかし、私はそれを喜べるほど余裕があるわけではない。
喉が渇いた。人の世から遠く離れた荒地に放逐され、荷物も碌には与えられない。私への罰は国外追放とされてはいるものの、実質的な死刑宣告に相違なかった。
お腹が減った。温室育ちの私では、時折見つける植物が口に含んでも問題ないかどうかも判断がつかないのだ。
ああ、死ぬ。苦しんで死ぬ。国のために尽くすのだと生きた十四年が、こんな形で終わってしまう。
涙が流れないのは渇いているからか、それとも意外に悲しくないのか。苦しい事だけは確かだが、その判断はどうもつきそうになかった。
瞼が閉じる。耐えきれない。
世界が、どこにもなくなってしまう。
「……?」
目が開いた。
理由は分からないが、生きているらしい。
とても不思議だ。何とも不思議だ。死ぬと信じて疑わなかった事もそうだが、今いる場所が信じられない。
私はベッドで眠っていて、丁寧に布団もかけられている。部屋は貴族である私から見ても上等であり、大きな窓やテラスから光が存分に取り込まれていた。
いったいどこだろう。どうやら私の国の城ではないようだが、それでも一貴族の屋敷とは思えなかった。
「起きましたか」
「!?」
いつの間にか部屋の隅にいた(始めからいたのに気付いていなかった?)女性の言葉に驚いてしまい、危うくベッドから落ちてしまうところだった。
いや、驚いたのは言葉にではない。不意に声をかけられたのは本当ではあるが、何よりその女性の姿に驚いたのだ。
その女性は、頭から角が生えていた。
「あ、ああ、あな、あ、あなたま、まま、魔……っ!」
「魔族です。貴女は人間ですね?」
魔族。
生まれながらに魔力を纏う魔法生物の中で、知性を持った者。多くは角や尻尾などの身体的な特徴を有している。
長く非魔族の多くと敵対関係にあり、私の国においても昨年大規模な衝突があった。
人類の大敵と称される種族である。
「た、助けてください! し、死にたくない!」
「ご安心ください。危害を加えるつもりはございません」
その女性は、どうやら使用人のようだった。白と黒を基調としたエプロンドレス。その装飾は少なく、機能美ともいえる無駄のないデザインだった。しかし、その裾の端に小さく花柄の刺繡がされている。きっと、本人の性格の表れなのだろう。
彼女は私に近付く。かつてこれほど魔族と接近した事がなかったので、正直驚いてしまった。
危害は加えない。その言葉が、いったいどれほど信用できるというのか。
何せ私は信頼していた婚約者に裏切られ、あまつさえ魔族の前に無防備を晒す事態にまで陥っているのだから。
怯える。震える。身構える。
その細く長い指が自分に伸びるところから、目を離す事も出来なかった。
「……悪いところはなさそうですね」
「え?」
彼女の指が、私の額に触れる。ほんのわずかに撫でただけだが、どうやらそれだけで私の体調を把握したらしい。
魔族が不思議な力を使うというのは、どうやら本当らしい。
「あ、あの……」
「問題がなければ、急ぎご支度を。魔王様がお待ちです」
「……? ……?? っ!?!??」
聞き違いだろうか?
魔王。
人類の大敵。邪悪。死の権化。力の象徴。言い表す言葉は無数にあるけれど、そのどれもが人間の恐怖を掻き立てる。
私が生まれた時から、母が生まれた時から、祖母が生まれた時から人類国家のほとんどと敵対してほぼ常に戦争状態にある魔族の国の王だ。人間は全て、魔王の恐ろしさを聞かされながら暮らす。
無論、私も怖くて仕方がない。
会うなどもってのほかだ。待っているなど冗談じゃない。急ぐなどできるものか。
私にできる事など、肩を振るわせ首を横に振る程度がせいぜいだ。
「そ、そんなに震えなくても……」
「だ、だって魔王って……!」
「人間とお話がしたいだけですよ。この国では珍しいので」
「ぅう……」
悩む。
助けてもらい、看病してもらい、その上で怖いから顔も合わせないでは、確かに無礼がすぎるだろう。人間の国であったなら追い出されても仕方がない。もしも逆の立場であれば、間違いなく気分を害されていたはずだ。
ならば、せめて顔くらいは見せるべきだろうか。
それに、この命は一度失われたものであると思えば、何も怖いものなどないではないか。
「わ、わか、わっかり、わ、かりま、した!」
「落ち着いてください」
やっぱり怖い……
だって魔王だ。何せ魔王だ。
私の体なんて紙細工のように破り、野草のように裂いてしまうに違いない。そんな相手の前に身を晒す事が、恐ろしくないはずないのだ。
「……実は、人間とお話がしたいのには理由がありまして」
「? り、理由ですか?」
「はい。疑わしいかもしれませんが、我々魔族は人類との和平を望んでいるのです」
「はあ……」
一拍。
「はぁ……?」
もう一拍。
「はぁ???」
「驚くのも無理はありません。人魔の歴史は、記録されているだけでも千年間、常に争いの只中にあったのですから」
「そ、それがなんで和平なんて……」
「おかしい事でしょうか? 人類は他国と同盟関係にある場合も多いと聞きます。ならば、我々が同じ事をしてもよいではありませんか。人類に倣い、我々も一つの国として政を行おうというだけの事です。その一環として、人類の事をよく知りたいと思いまして」
なるほど聞けば、そうおかしな事もない。むしろほとんどの国と敵対していた今までがおかしいのだ。ようやく収まるところができたと考えれば、それは喜ばしくはあれど疑問に思うような事ではないのかもしれない。
「そ、そういう事なら……」
「魔王様にお会いしていただけますか?」
「はい。……少し怖いですけれど」
「感謝いたします」
魔王の城は、思ったよりも人間のそれと大差はないようだった。
なんでも、人間との外交に備えて人間らしい建物にしたようだ。絵画や飾り鎧などは意味も分からないのにとりあえず飾っているらしい。
ぎこちなくはあるが、確かに人間の事を知ろうとしている。使用人も、王という立場も、元はといえば人間のそれから学んだのだという。
ただ、ところどころに少しちぐはぐな部分が見て取れる。室内にたたずむガーゴイル、窓の外にかけられているカーテン、あまりにも不気味な絵画はそこにあって当然という様子で飾られているし、明らかに小さすぎる扉などがいたるところに見受けられる。
ちょっと変だと、あとで教えてあげよう。
「こちらです」
「あ、はい。ここが玉座ですか」
「ぎょくざ、というのですね」
「え? あ、はい」
門。見るからに門。扉ではなく。
ただ、作り自体は見事なものだ。建物の中にあるにしては重すぎるが、魔族の腕力ならば問題にはならないらしい。使用人の女性でも、簡単に開けられるのだから。
流石はというべきか流石にというべきか、玉座の間は美しく絢爛だった。おかしな装飾はないし、飾られている絵画も悪趣味ではない。
まるで、私が元々いた国のそれと変わらない荘厳さである。
そして、その主人として君臨する魔族。なるほど強大で、恐ろしく、禍々しい存在だ。
体のほとんどが黒々とした鱗で覆われ、人相は蜥蜴によく似ている。ただし全体的に骨太で、神話に聞く龍と言われれば想像される姿のおおよそがそこにあった。頬はなく、避けた口には牙が並ぶ。手には人間のような細い指が五本あるが、いずれもその爪は太く強い。
そしてその巨躯は、人間の玉座に収まりきらずその隣に佇んでいる。
「来たか」
「ご、ご機嫌麗しゅう……」
「いや、待て。人類の礼をするのならこちらも記録を取りたい」
「え、は、はい」
部屋の隅、小鬼のような魔族が右往左往と駆け回る。何やら魔法道具を用意しているらしい。赤青黄色の肌色が入れ替わり立ち替わり動き回っているところは、正直少し可愛いと思えた。
「あの、人間の習慣を学んでいると聞きました」
「む? いかにも。この記録もそのために活用したいのだ」
「王や使用人も、人間のそれを参考にしたと」
「そうだ。各々で調べて情報を共有してな」
「なるほど。なら元々は魔王という役職ではなかったのですか?」
「そうだな。決まった呼び方はされていなかったが、『長』と呼ばれる事が多かったように思う。人類の文化を学ぶうちに魔王と呼ばれている事を知り、収まりが良いので使わせてもらったのだ」
「そうですか。ところで、あなたの役職は何でしょう?」
「……ほう?」
相手は目を細める。とはいっても、元々目はかなり細いが。
「この我が魔王ではないと? 一体なぜそう思う?」
「拙いからです。役作りが」
「なるほど。後学のために我の何が拙いのか聞きたいところだ」
「いいえ、あなたではありません」
そう言い、振り返る。背後にいるのは、私をここまで案内してくれた使用人のお姉さんだ。
「あなたは、使用人としてあまりにも中途半端です。格好は完璧なのに行動は拙く、所作は美しいのに礼節は目も当てられない。使用人にしては堂々としすぎなのです。例えば、“魔王なのに違うフリをしているかのような”」
「……驚いたな」
「ま、魔王様!」
使用人——魔王は、先ほどまでとは全く異なる様子で私の傍を通り過ぎる。堂々とした、支配者然とした態度である。その響く足音すら、あまりに雄々しく跪きそうになる。
人間の国では女性の国王は珍しいが、その様子を見て彼女が生まれながらの王である事を疑うものなどいまい。
「気を悪くしたなら謝罪しよう。少し悪戯をしてみたくてな」
「……いえ、滅相もありません」
これが、魔王。
人類が何百年もの間、その姿を見る事も叶わなかった敵の当代。恐らくどんな戦士より、私が魔王に肉薄している。
「どうやら準備ができた。話の続きをしてくれるか?」
魔族の国での生活は、意外にも心地よいものとなった。
歪ではあるが人間に合わせようと努力する魔族達は、私の記憶にある最も親しいと思っていた人間よりもはるかに思いやりに満ちている。
私の話を聞いてくれる。私を信じてくれる。なにより、私に笑いかけてくれる。たったそれだけではあるものの、私にとっては得難いものだったのだ。
「なるほど、いつも希少な話をありがとう」
「いや……そんなお礼を言われるほどの事では」
「いいや、助かっているさ」
魔王の言う通り、どうやら私の助言はある程度の助けになっているらしい。もう魔王城には、ヘンテコガーゴイルも裏表カーテンも意味不明な扉もない。
今は、礼節について教えている。
「私は一応貴族だったので、市井の常識はわからないのですけれど」
「それは仕方あるまい。一人に全てを求めるのは酷というものだろう」
優しい言葉だ。話に聞いていた冷血無比の魔族とは思えない。
私は魔族に学びを与えたが、さらにそれよりも大きな学びを魔族から得た。彼らにとって人間の常識が興味深いように、私にとっても魔族の常識は大変興味深い。
知らない食べ物の名前を聞くたび、初めて見る生き物見つけるたび、思いもしなかった習慣を目の当たりにするたびに心が踊った。
中でも一番驚いたのが、魔族の増え方についてだった。
「え? 男女で子を成すのではないのですか?」
「違うな。魔族によって違うが、大体は血ではなく肉を分ける。むしろ男女でどうやって子が成るのだ?」
「いや、そ、それは……」
彼らに全てを話すと誓った私でも、こればかりは恥ずかしさが勝ってしまう。
「あ、愛する二人が夜に、その……と、共に過ごすと、女が母となって胎に子を宿すのです……」
「腹? それはすごい。男女でなくてはならないのか?」
「それは、はい。一応王国法には男女とは書かれていませんけれど、夜を共に過ごすには……えっと、異性でなくてはいけなくて……」
「ふぅん。まあ、言いたくないなら構わんが」
魔族にとって、子を成す行為は恥ずべき事ではないようだった。いや、人間も概ねそうだが、他者に知られる事すらも気にしないのは意外だ。
魔王がここまで堂々としていると、恥ずかしがる自分が急に子供になったような気がする。
「しかし、不思議だな」
「? 何がでしょう?」
「人間の子供を見た事があるが、魔族のそれと変わらないように見えた。子供のでき方が違うのに、育ち方は大した差がないとはな」
「た、たしかに! 神秘ですね!」
「そうだろう? 面白いよな。違う種族なのにみんな脱皮するなんて!」
「え?」
時として会話が噛み合わない事もあったが、それも楽しく代え難い思い出だ。
魔族と私は確かに違う姿をしているが、それでも最も信頼できる相手だ。まるで家族のように。まるで親子のように。まるで恋人のように。
そして、それはきっと魔族も——魔王も同じように思ってくれていた。
それが、この後の事件を引き起こすのだ。
「今日は、お前の話を聞きたいな」
「はい。何についてお話ししましょう」
「人類の話ではなく、お前自身の話を聞きたいのだ」
「え?」
それは、この国に来て初めての言葉だった。
「言いたくないのなら構わない。だが、そういえば何故人里離れて倒れていたのか聞いていなかったと思ってな」
避けていた話題だ。
思い出したくないから。辛いから。忘れたいから。
もしも初めて会った頃であれば話せなかったろう。
ただ、私と彼女はもう赤の他人ではない。
「捨てられたのです」
「ほう?」
その言葉は、思ったよりも軽く感じた。
もっと苦しく、悲しく、吐きそうになりながらでなくては話せないと思っていたのに。
「私は、王太子妃になるはずでした。そのために産まれ、そのために生きた。しかし、殿下は私ではない女性を好いて、私は謂れのない罪で罰せられたのです」
「…………」
「邪魔、だったのでしょう。彼と彼女の間に、私のような存在は。そして、私は国外追放。王国法において、与えられる罰の中で最も重いものです」
「打首よりもか?」
「断頭よりも遥かに、ですね。貴族が野に放逐されて生きていけるわけがないのです。人知れずに何処かで野垂れ死にする、人の尊厳を踏み躙る極刑と言えるでしょう」
「なるほど……」
「でも、私は気にしてません! 追放処分にされたおかげで魔族の皆さんに会えましたから!」
「…………」
魔王が、私の顔を見る。覗き込むと言ってもいい。それほどにまじまじと、私を観察しているのだ。
そして、ため息をついた。
「どうしました……?」
「リドリア、お前はとても感情豊かで、よく笑い、よく驚き、そして私をよく笑わせて、よく驚かせてくれる」
「え? は、はい」
「初めて会った時も、愛らしく怯えていたな?」
「あ、あの時はまだ魔族がどんな方々か知らなかったので……」
「ああ、そうだな。しかし、今はどうだろう? お前には何の感情もないように見える。淡々と、あった事実を述べるのみだ」
一呼吸置き、魔王は続ける。
「違えば違うと言ってくれ。お前、まさか人類の国ではいつもそんな調子だったのか?」
「…………」
驚いた。その言葉は、全くその通りだったからだ。
故郷において、私は未来の王太子妃だった。それは一個人でなく、いわば象徴。感情を持つ事など、許されなかったのだ。ただ完璧に。ただ完全に。そうでなくては、相応しくない。
それが癖付いてしまったがために、無感情で気持ちが悪いと王太子から嫌われる事になってしまったわけだが。
私の無言を、魔王は肯定と捉えたらしい。
「そうか」
そう一言。そして、わずかに目を伏せる。
そして——
「手を取れ」
「は?」
「私の手を取れ。これから人類と和平を結ぶ」
「こ、これから!?」
魔王は笑う。歯を見せる満面の笑み。かつての私であれば、はしたないと否定しただろう笑み。
その笑顔が美しいと感じた瞬間に、私の手は魔王の手の上に乗っていた。
少し、体温が暖かい。
次の瞬間。
「着いたぞ」
「え? は!?」
周りの景色は、見覚えのある場所になっていた。
絢爛豪華な絵画と飾り鎧。絨毯は赤を基調に金の刺繍がされている。ところどころに下がる垂れ幕は一つ残らず王家の家紋が描かれており、その意向を存分に見せつけていた。
そして、玉座。そこに君臨する人物。全てを知っており、忘れてしまいたいとすら思っていた。ただ唯一、その場にいる誰もが驚愕の表情を浮かべている事だけが記憶と違う。
ここは、故郷だ。その城だ。私は、意図せずして帰ってきてしまった。
「こんにちは、諸君。魔王である」
「何だ貴様ぁ!!?」
「……魔王であるっ」
声を荒げる王に反応し、周りで控えていた兵士が私達を取り囲む。
「ま、魔王さん! これは一体!?」
「驚いているところを見るに、これは人類なりの歓迎というわけではないのだな?」
「違いますね!」
魔王がふざけている間に、兵士達の槍がじわじわと私達ににじり寄る。
「お前はリドリア・アイゼンバックだな! 魔族など率いて復讐のつもりか!」
「い、いや、私は……」
「勘違いするな。我々は貴様らに謝罪を要求しにきたのだ」
「和平は!?」
王の目が鋭く光る。あれは怒りの目だ。
かつて誇った威光の残り香。あるいはいまだに王として君臨する理由。私を追放した時と同じである。
しかし、この場にいるのは同じく王。それも、魔族唯一の国王。とてもではないが、たかだかその程度で萎縮してしまうはずもないのだ。
「何が謝罪だ! 魔族を前にして口を聞いただけ寛大というもの。者どもよ! 殺せ!」
王の言葉は傲慢であるように聞こえるが、相手が魔族であるならばこの世界で一般的な意見だ。それが分かるので、私は目を伏せた。兵士達は何一つの躊躇もなく私を殺すだろうと理解したから。
しかし、本当ならばその必要はない。
「リドリア、もう目を開けても良いぞ」
私の隣にいるのは、人類史の中でただの一度もその姿を見せた事のない魔王。どれほどの多勢であろうと、どれほどの豪傑であろうと、彼女を害する人間などいるはずがないのだ。
言葉通りに目を開けると、屈強な兵士などどこにもいなかった。いるのは、体をくの字に曲げて横たわる怪我人だけだ。
そして、最も驚くべきは、誰一人命に別状はないという点である。
全員がうめき声をあげて起き上がれないというのに、大量の血を流していたり腕や足が折れている者が一人もいないのだ。
圧倒的な実力差がなければこうはならない。
私を含めて、この日人類は、魔王という脅威の一端を初めて垣間見た。
「謝罪だ、王よ。そして心的賠償」
その堂々たる姿は、まさしく王である。
私の肩が抱き寄せられる。たったそれだけで、何があろうとも自分が害される事はないと確信できた。
王が狼狽える。
それもそうだろう。王は今、その言葉を選ばなくてはいけないのだから。
魔王は、考えなしに力を振るったわけではない。彼女は気づいているのだ。玉座に王が座っていた理由を。私達が現れた途端に壁際へと逃げた人物を。
その人物は、明らかにこの国の兵士とは違う格好をした人間に守られている。つまり、この国の人間ではない。
王は、その人物と謁見していたのだ。
つまり、この場にはこの国の人間ではない人物がいる。王の言葉は全て聞かれ、おそらくは隣国の何処かに余す事なく流れるだろう。
そして、言葉を翻したならば信用を失う。これは確かに言える事だ。
だから、簡単には謝罪などしない。
「一体何を言っているのかさっぱりだ。謝罪だと? 何に対して?」
「無実の罪でリドリアを罰した事だ」
「無実? 何を証拠に。貴様こそその女に謀られているのではないか?」
「果たしてそうか? 私はこの国の者が王太子の罪を有耶無耶にするために虚偽を働いたのだと見ている」
「それこそ馬鹿な! 我が息子が何をしたというのだ!」
「密通だ」
「世迷言を! 確かに息子は現在別な令嬢と婚約関係にあるが、それは追放騒動の後の話だ! 密通などありえん!」
「なら、本人達に聞いてみるか?」
魔王がそう言うと、私達の目の前に黒い煙が立ち込めた。それは床から湧き出るように昇り、腰ほどの高さからは逆に床へと飲み込まれた。そして、そこには殿下と相手の令嬢が床に寝そべっている。
服をはだけさせて。
「きゃぁ!?」
「な、なんだぁ!?」
「ほう、これが人類の生殖行為というやつか。興味深い」
「お、お前ら昼間から何をやっとるか!」
きっと、私たちもこのように現れたのだろう。その場の誰も、二人が現れた事には驚いていないらしかった。
状況が分かっていないのは、こんな場面で服を着ていない二人くらいのものである。
「もうよい! 貴様らはさっさと六度目の満ち月の日の事を話せ!」
「おっと」
「!」
王の言葉は、混乱した彼らに対しても的確に作用した。
察したのだ、状況を。今年六度目の満月は、彼らが出会った事になっている日だから。
二人が完全に状況を飲み込むのはまだ少しかかるだろうが、何を取り繕うべきなのかは把握した。おそらく魔王は二人に何らかの質問をして矛盾を引き出すつもりだったのだろうが、それはもう叶わないという事だ。
流石に王。
しかし、相手はどう足掻いても魔王だ。
「貴様、子を成しているな?」
「は?」
魔王が指をさす。
「弱々しいが、確かに一つの命を感じる。人類が胎で子を成すと知らねば気が付かなかったろうな」
「ま、待て! それは関係なかろう!」
「大アリだ。そうだろう?」
魔王の不敵な笑みに、王が唾を飲んだ。その音が、私にまで聞こえてくるようだ。
「人類は月の満ち欠けが十度繰り返したのちに子を産むと聞いたぞ。間違いないな?」
「はい、間違いありません」
「だろうな。ならば予言するが、この女の子供は今年中に産まれ落ちる」
今年の月は、もう半分しか残っていない。私が追放処分となったのは、四度目の月だ。もしもあと半年以内に産まれるというのなら、私の追放処分よりも前に身籠もっていなければ辻褄が合わない事になる。
紛れもない、密通の証拠である。
「言っておくが、堕すなよ? それではまるで証拠隠滅のようだからな。この場にいる全員が証人だ。全員、がな」
全員。すなわち、謁見に訪れていた人物もだ。
こればかりは、流石の王も顔を歪める。
しかし、当然簡単に負けを認められない立場である。
「この者どもには追って沙汰を言い渡す。しかし謝罪と賠償など知らん! そもそもなんで魔王なんぞが我が国の問題に口出しをするのだ! 門違いであろう!」
「この者は私の友だ。彼女の扱いに腹を立ててもおかしくあるまい」
「ほう、そうか? ならばその辺におる貧民を連れて『こんなに虐げられている事は我慢ならん! 私はこの者の友だ!』と言えば私から無限に謝罪を引き出せる事になるな? 賠償も貰い放題だ。冗談ではない!」
王の言葉は、ある意味では正論だ。あくまで部外者である魔王は、私の件に口出しをする権利がない。ただの親切心では、守れないものもあるのだ。
しかし、私はその優しさが嬉しかった。このまま魔族の国に帰ったとしても、私はずっと彼女の友人だ。
そう、思っていた。
「関係があればいいのか?」
「ふん! そんなものがあればな!」
「私が邪険にされるのは、彼女と繋がりがないからだと?」
「その通りだ! さっさと帰れ!」
王の言葉を無視し、魔王は私の方を向いて跪く。
何をしているのかと混乱する私の手を取り、彼女はうっとりとしてこう言った。
「私と結婚してくれ」
「……は、はい!」
混乱した。混乱して、そんな風に返してしまった。顔が熱い。
魔王は、私の手の甲に口付けをした。
「これで繋がりができた。我が妻への謝罪と、心的賠償を要求する」
◆
「王国法において、結婚の条件に男女である事はふくまれていないのだろう? だから通ると思ったのだ」
「かなりの力業ですね」
「仮に通らなかったとしても、こちらの法を適用するとでも言えばいい。この国の法律は人類との婚姻を想定していないが、そこはどうとでもなる。魔王だからな、私」
その後私は、魔族の国で暮らしている。魔王の伴侶として。人魔友好の象徴として。
人間のそれを真似た城の、人間のそれを真似た寝室。そして同じくテラスに出て、人間が飲むような紅茶を人間が食べるようなお菓子と共にいただいている。
魔王は、どうやらこの時間が好きなようだった。いつも同じ時間に、私のお茶に付き合ってくれている。
王は結局のところ魔王の要求を飲んだ。正式な謝罪と、私がこの国で暮らす上での支援を約束し、現在では人類初の魔族友好国として良くも悪くも世界の話題の中心にいる。
王太子とその相手は、相応の罰が下された。外科処置によって子を成さない体にされてしまう、王族が受ける中では最も重い刑罰である。
その体では後継ぎを残す事ができないので、王太子の座は弟の第二王子に譲られたらしい。
「魔王陛下、とってもご機嫌に見えますわ」
「そうかな? そうだな。全て私の思うままだ。今のところは、だがな。これ以上の幸福は中々ないよ。いつかはきっとうまくいかなくなる時が来るだろうから、今のうちに噛み締めておかなくては」
「そうですね。私も、幸せです。ようやく私が、誰かの役に立った」
「ふぅん?」
「もう私は、生きていく意味なんてないんじゃないかとすら思いました。むしろ邪魔者扱いされて、とてもではないですが生きる気力を失いかけたのです。でも、あなたのお陰で私は魔族達の役に立てた。嬉しい限りですよ」
「……何か勘違いしていないかい?」
「え?」
魔王が、テーブルを回って私に顔を近づける。
「それでは私がお前を利用するために告白したみたいじゃないか」
「ち、違うのですか……?」
「全然違う」
魔王の両手が、私の頬に添えられた。全く力を入れていないのに、彼女から目が離せない。吸い込まれそうな眼というものを、私は初めて見た。かつて見た黒い真珠より、黒曜石より、魔王の黒い瞳の方が遥かに美しい。
暑いと感じた。それがなぜか分からないまま。
「愛しき人よ。私は、結婚をするのだからせっかくだし利用したのだ。もしも利用できなくとも、間違いなくお前に告白していた。この違いは大きいぞ」
「は、はい」
「それとも、お前は私が嫌いか? あの時承諾してくれたのは私を利用するためで、初めから私の事など好きではないのか?」
「そ、そんなまさか!」
「そうか、安心した。私はお前を愛しているから」
暑い。
汗をかいていないだろうか。肌が光を反射していないだろうか。もしもそんなところを見られたら、恥ずかしさのあまり死んでしまう。
初めての経験だった。少なくとも、王太子の婚約者時代には知らない。知らないが、不思議と不快とは思わなかった。
私がその感情の名前を知るのは、あとほんの少し先の話だ。