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第二部 第二十五章 SOS

 所変わって、ここは柚月祥の家。

 その時祥は、大河原家で世話になる為、大き目のボストンバッグやらスポーツバッグやらに、色々必要なものをつめていた。

 そう、どれぐらい居座ることになるか分からないが、長期になることも考えて、学校のものやら日常のものやら、とにかく大河原淨蓮宅で使うだろうモノを、片っ端から入れていったのである。そうして準備しつつ脳裏に浮かぶのは、つい三時間ほど前までの夕食の団欒の時。どこから見ても、きっと普通と変わらない家庭だっただろう。そう、祥の食欲と、母親の行き過ぎた自然派嗜好を除いては……。

「もう、祥ちゃん。今日もこれしか食べないの!」

 母親の食事を避けるようになってから、約二週間程の日数が経っている。勿論全部避けることは出来ないから、適度に加減した日々が……。それは……そう、母親に頼み込んで昼食は学食のパンにしたり、小遣いで買ってきたインスタントラーメンで空腹を満たしていったり……。

 母親の作る料理、一つ一つが口に入るたび、自分の体が変化しつつあるのだと思うと、どうにも気持ち悪さがぬぐえなくなる。確かに、申し訳ないとは思いつつも……。

 そして今日も、ほんの少し箸をつけただけ。

 それに加えての、友人宅へ泊まりにゆくという話。

 勿論母親がいい顔をする訳もなくて……。

 だが、母親に悪気などは決してないのだ。全ては悪霊の影響下にあるが故のこと。母親は普通に振舞っていると信じており、それを悪霊に利用されているのであって……。

 胸が痛む祥。今までも、母親の料理を拒否するたびに感じていた痛みで……。

 だがこれで、とりあえずこの痛みや、自分の首を絞める料理からは解放されるのだ。

 それにどこかほっとしている自分を感じながらも、もっと早くそうすべきだったんじゃないかという思いも、少し胸を過ってゆき……。

 そして、手遅れでないことを祈りながら、黙々と家を出る準備を祥は整えてゆくと、

「はぁ」

 今の自分の状況、それを思うと、ついそんなため息なんかもこぼれたりしてくる。

 そうしてやがて一通り準備が終わり、後は家を出るだけとなった。だが、期間が不明で、長期になるかもしれないと、何でもかんでも詰め込んでいった結果、荷物は大量になってしまっていて……。よっこらしょと、荷物に祥は手をかけると、その時、

 出端を挫くよう、不意にポップな電子音が流れる。

 そう、携帯の着信音だった。

 それに祥は、携帯を取出して中を見ると、相手は黛彩花となっており……。

 なんだろうと思いながら、電話に出る祥。そして、

「もしもし?」

 そう言うと、

「ゆ……柚月君……たす……けて……」

 どこか怯えるような女性の声が聞こえてきた。

 声の調子から、これは確かに彩花のものだと察する祥だが……。

「どうした? 何かあったのか?」

 尋常でない様子から、一体何があったのかと心配して、祥はそう問う。すると、

「お兄ちゃんが……事故にあったの……。今もまだ……危ない状態を脱してなくて……」

「……」

 思わず言葉を失う祥。確かに相手は敵。だが、両親を失った彩花にとっては、彼は恐らくただ一人といってもいい肉親であろうから……。

「大丈夫なの? 彩花ちゃんは」

 心配の気持ちをこめて、祥はそう言う。すると、それに彩花は、

「う……うん。何とか……でも……助けて。由香さんが……私を……」

「由香?」

 聞き覚えの無い名前に、祥は訝しげな表情をする。そして、その者とは一体誰かと、祥が聞こうとした時、彼の声色に気付いてか、彩花が、

「あの悪霊の正体。前世で、私たちに仕えていた、使用人だったの」

「使用人……」

 呆然としてそう呟く祥。すると、その言葉にうなずくような間を開けた後、続けて彩花は、

「彼女が……怒っている。お兄ちゃんをこんな風にしたのは私のせいだって。それで……追いかけられて」

「追いかけ……。おい、大丈夫なのか?」

「うん……。何とか逃れて、今隠れてるの。でも……。このままじゃいつか見つかっちゃう。これじゃ家にも帰れないし……。どうしよう」

 それに、迫りくる彼女の危機を祥は察すると、

「待ってろ、今いくから」

「うん、ありがとう。でも……」

 感謝しながらも、少し戸惑ったような声色で、そう言葉を続ける彩花。それに祥はなんだろうと思い、

「何?」

 と、問いかける。すると、その問いに彩花はおずおずと、

「できるだけ早くきて……。そうでないと、私……。今、北松原総合病院の裏にある、駐車場に隠れているの。柚月君ちの、近くだよね……」

 よっぽど怯えているのだろう、らしくもない、懇願するような、切羽詰ったような声に、本当に彼女に危機が迫っているのだと、祥の緊張も高まってゆく。そう、これは明らかなる緊急事態。なので、それに祥は、

「ああ、そこなら近い。すぐいけると思う」

 安心を促すべく、力強くそう言ってゆく。だが彩花は、それでもまだ心細いというように、うん……と小さく呟いてゆき……。

 それは、あまりにもか細く、心もとない返事。それに心配になって、

「大丈夫、今すぐいくから。心配しないで、少しそこで待ってて!」

 再度の励まし。すると流石に、いつまでもびくびくして相手に迷惑をかけては……と思ったのだろう、まるで自分を納得させるかのように、うん、うん、と彩花は強く、何度も相槌を打ってゆくと……。

「お願い、早くね。待ってるからね」

 そう続いて、電話は切れ……。

「……」

 受話器を見つめて沈黙する祥。そして、こうしちゃいられないと、手にした荷物は置き、携帯と財布だけを持って、家を飛び出る。そうして走りながら、祥はとあるところに電話をかけると……。

 しばし呼出音が流れ、それ程待つことなく、電話が繋がる音がする。そうして出てきたのは、

「もしもし?」

 どこか硬質な若い女性の声。そう、それは……修子だった。その声を聞いて祥は少し安堵し、そして、

「俺、柚月だけど。ちょっと用事が入っちゃって、予定していた時間に行けないって、悪いけど、和尚さんに言っといてくれないか。少し遅れるって。俺、和尚さんちの電話番号知らなくてさ」

 出ていきなりの用件。すると、それに特に驚くでもなく、気を悪くするでもなく、修子は、

「それは別に構わないが……。何かあったのか?」

 どこか緊迫した声の調子から、何かを感じてかそう問うてくる。

 だがその問い掛けに……今は説明より助けにゆくほうが先、という思いからか、どこか祥は面倒くさげに、

「彩花ちゃんが、あの女性霊に追われているらしい。助けを求める電話がかかってきたんだ。なんか黛先生、事故にあったらしくって、こういう風にしたのはお前のせいだとかなんとか」

「それは……」

 大変だと、驚きの声が電話機の向こう側から聞こえてくる。そして、

「ならば、私も……。場所は一体どこだ?」

 そう申し出てくる修子。だが、それに祥は。

「いいよ、俺一人で。場所は北松原総合病院の駐車場らしいけど、そこだとお前んちから結構遠いだろ。さっきの、とりあえず和尚さんに伝えておいてくれれば」

 後は自分で何とかする、どこかそんな能天気で祥は言ってくると……。

「馬鹿! 確かに彩花殿も危ないが、外に出て、一番危険にさらされるのはお前だ。狙われているのはお前なんだから。大体、相手を見ることも感じることもできない。それで、どうやって彼女を助けるつもりだ?」

 当然とでもいうかの如く、そう怒鳴りつけてくる修子。

 するとそれに、祥はうーんと唸り、

「とりあえず、彼女を見つけたら、和尚さんの所に連れてゆくよ。それに、電話の調子じゃ、彼女は感じることができるみたいだったから、それで何とか……」

「大馬鹿! 危機感が足りなさ過ぎる! もっと自覚を持て! 何があるか分からないんだ、お前がなんと言っても、私はいくぞ!」

 修子から見たら、あまりにも呑気過ぎるように見える彼。その言動に、とうとう堪忍袋の緒が切れたとでもいうよう、修子はそう言うと、問答無用で電話は切れ……。

 それに祥は少しムッとするが、そんな場合じゃないことにすぐ気がつき、とにかく今はと気持ちを切り替え、彩花の方へと集中してゆく。そして、更に足を早め……、

 こういう時には役に立つもんだ。

 陸上で鍛えた足、全速力で走るスピード。これなら病院まではあっという間だろうと思って。

 そう、彩花が言っていた病院は、祥の家から歩いてでもいける距離にあったのだ。

 もう少し、もう少しだから、待っていて!

 そう心に強く思いながら、ただひたすら病院へと向って祥は駆けてゆく。

 そうしてそれから十分以上は走っただろうか、駆けるしばしの時の後、祥はようやく病院に到着し、早速駐車場へと入ってゆくと……。

 ぐるり見渡した限りでは、誰かがいるようには思えなかった。そう、何台かの車が置いてあるだけだ。

 そして、ここでどうするか祥は少し悩む。声を出して呼んだら敵に気付かれる恐れがある、これはやはり、まずいだろう。かといって、一ヶ所一ヶ所探していったら、時間がかかりすぎてしまうし……。ならばやはり電話か? そう思って、祥は携帯を取り出し、彩花へと電話をかけてゆくと、

「もしもし」

 すぐにつながる電話。声は潜めた感じだ。

「今駐車場についた。どこにいる?」

 そう聞いてゆくと、彩花は、

「病院側の駐車場出入り口から、向って左の、一番端で奥の車の陰」

 病院側の駐車場入り口は、祥が入ってきた入り口だった。これなら分かりやすいと、それに祥は了解と言い、電話を切ってその場所へと向ってゆく。 

 そう、病院側の駐車場出入り口から、向って左の、一番端で奥の車の陰。病院側の駐車場出入り口から……。

 そう何度も心でそう呟きながら。

 そうして、静かに、足音も立てず、その車までやってくると、ゆっくりその後ろに回り……。

「彩花ちゃん……」

 するとそこに、彩花は……いた。

 心細げに、身を縮め、体を震わせて。

「もう、大丈夫だから」

 既にとっぷり日は暮れているこの闇夜。だが、この辺り一帯は街灯がともっていて、真っ暗ではなく、ほんのり薄暗闇といった感じの明るさが二人を覆っていた。そしてそんな、ほのかな灯りの中、彩花は祥を見つめて、どこかほっとした表情を浮かべてくると、

「怖かった。怖かったの」

 不意に緊張の糸が切れたように、そう言ってぽろぽろと涙を流してくる。そして、思わずといったように祥へと抱きついてきて……。

 それは、彼女としては大胆とも思える行動。思わず驚く祥だったが、それほどまでに怖かったのだと、その行動に納得すると、彼の胸に顔をうずめ、泣きじゃくる彩花を慰めるよう何度もその頭を撫でていった。すると、それでどっと安心感が襲ってきたのか、今一度その心を確認するかのよう、更に彩花はぎゅっと祥にしがみついてきて……。

 そして、不意に、

 ぺりっ。

 背中の衣服が引っ張られる感覚と共に、そんな不吉な音が響いてくる。そして、

「ククククク」

 祥の胸で泣いていたはずの彩花、その彩花が、彼女らしからぬ、愉悦の笑いをこぼしてきて……。それにハッとして、いけない! と、祥は彼女から離れてゆくと、

 先程の涙はどこへ行ったのか、不敵な笑みを浮かべている彩花。そしてその手には、

 霊符が……。

 そう、先程の音は、霊符が剥がされた音だったのだ。抱きついたどさくさに紛れて、祥の背に回した手で、それを剥がしたのだ! 

 そして馬鹿なことに、急いで家を出てきた為、今余分な霊符は手元にはなく……。

 思わず背筋に冷や汗が流れる祥。

 きっと彼女は彩花であって、彩花ではない。恐らく……、

「由香……か?」

 先程の電話での名前を思い出して、女性霊をそう呼ぶ。すると、

「いかにも。油断なさいましたな、柚月殿」

 余裕を感じさせるその返事に、更に動揺する祥。そして、どうしたらいいのかと、祥は考えあぐねてゆくと……。どうやら彩花は憑かれたらしい。だが、憑かれたといっても、体はまさしく彼女のものであって……。

 これでは手を出すということもできず、何を、どう為せばいいかも分からず、思わず祥は唇を噛み締めてゆく。そして、

 またも無意識に動こうとする、自分の体。手が、前へと向い……。そう、このままでは、

「彩花ちゃんを……彩花ちゃんを殺させようとするのか!」

「ご名答」

 だが、それに祥は、

「くそっ! そうはさせないぞ」

 そう言って、動いてゆく体にグッと耐える。どうやら、やはり彼の中の霊が防波堤になっているようで……。

 だがそれで、祥は前にも後ろにも動くことができなくなってしまう。そう、中で行われているだろうせめぎあいの中で、祥の体は固まったようになってしまったのである。

 すると、それを見て、更に面白いように笑ってゆく由香である彩花。そして、

「そう、それでいいのです。旦那様がああいうことになってしまっては、もう計画などどうでもいいのです。あなたに復讐さえできれば!」

 そう言って、思いきり蹴りを、祥の腹に入れてゆく。それは、少女のものとは思えない程の強いものであって……。

「げぇっ!」

 うめき声を上げて、体をくの字に曲げて、痛みに耐える祥。だが、持ち直そうとしても、次、また次と、由香である彩花の蹴りや殴打は続き……。思わず堪えきれず、地面に倒れる祥。すると、

「存分に中でせめぎあうがいいのです。そうすればお前はただの木偶の坊。私のやりたい放題なのです!」

 止まない蹴りが、いつまでも続く。それに祥は、やはり動けず、ただ為すがままになるばかりで……。すると、しばしの小休止があり、なんだろうと虚ろな眼差しで祥は彩花のほうに視線を向けると……。

 愉悦にゆがんだ顔が薄暗闇の中に浮かぶ。そして、その手にあったものは……。

「……」

 どこから持ってきたのだろうか、鋭い刃を持つ銀色のナイフが、その手に握られていたのであった。用途はきっと単純。蹴りと殴打のせいで頭はぽんやりとしていたが……だが、それでもそれを察し、虚ろな目のまま祥はそれを見つめてゆくと、

 ああ、俺はここまでなのかな……。

 どこか諦めの気持ちが胸に湧き上がる。そして、

「覚悟!」

 そう言って振り上げられたそのナイフを、祥は無感動な表情で見つめていると、それが腹部に突き刺さる直前、

「ぎゃあ!」

 人間のものとは思えない叫び声を上げて、不意に彩花が弾き飛ばされる。と、同時に、自分の中のせめぎあいも少し収まったような気がして、一体何事かと周囲を見回すと、

「神谷……」

 そう、淨蓮と修子の姿がそこにあり……。

 乗り付けてきたらしい車を背後に、そこからこちらへと向って駆けてきているところであった。そう、どうやら、彼らのおかげで祥はとりあえずの危機を脱せたらしく……。

 そうして祥は、まだぎこちない動きで、ゆっくり体を由香へと向けてゆくと、そこには恨めしげな表情をした、彼女がおり、

「くそっ……本当に来たのですか……」

「ああ、呼んだつもりはなかったんだが……おかげで命拾いだ」

 すると、それに由香である彩花は鬼のような形相になり、再びナイフを振り上げるが、

「ナウマク・ サンマンダ・ バザラダン・ カン!」

 大分近くで聞こえる男性の声の真言。恐らく和尚だろう、それと共に、

「ぎゃあ!」

 再び上がる悲痛の声。

 そして、やがて聞こえてきたのは、

「柚月! 大丈夫か!」

 祥を気遣う、修子の言葉。だが、まだ体の中でせめぎあいは続いているようで、相変わらずのぎこちない動きでそちらを振り返りながら、

「とりあえず……なんとか」

 はっきり強がりと分かるその台詞に、修子は表情を曇らせると、まずはこれと、手に持っていた霊符を早速その背に貼る。

 すると、ようやく体は自由になり、祥は痛む体を抑え、立ち上がってゆくと、

「おのれ……」

 悔しげな表情の由香である彩花。

 そして三人の対決が始まってゆき……。

 そう、とにかく彩花から悪霊を追い出さねばと、

「九條錫杖 手執錫杖 當願衆生 説大施會 示如實道 供養三寳 説大施會 示如實道 供養三寳 以清浄心  供養三寳 發清浄心 供養三寳 願清浄心 供養三寳……」

 錫杖経を唱え始める淨蓮と修子。低く念のこもった二人の声が、辺りに響き渡り……。それに、こうしちゃいられないと、祥は修子から霊符を受け取ると、結界を作るべく、呪文と共に四角になるようそれを貼り付けていって……。

 悶え苦しむ由香である彩花。だが、苦しみながらも由香は不気味に不敵な笑いを浮かべ、

「これで私を封じることができると思っているのですか? まだまだ青いわ!」

 ならばとその声に、更に念を強くして真言を唱えてゆく淨蓮と修子。

 だが、それでも……冷や汗を流してはいるが、由香である彩花はクツクツと笑っており……。

 もしかしたら……駄目かもしれない!

 由香である彩花の様子から、思わずそう思ってしまう祥。すると、ひときわ大きく淨蓮が真言を唱えた途端、

 フッと彩花の表情が変わる。そう、どこか邪悪を秘めたような表情から、見慣れた、彼女本来の表情へ。

 由香が……消えたのか?少し期待を持って彼女を見つめる祥。だが……まだ、彩花は苦しんでいるようだった。まだ続く真言に身悶えながら、彩花は祥のほうを見て、

「柚月君……」

 どう見ても、これがあの由香とはとても思えなかった。そうそれは、純粋な、邪気のない表情で……。恐らく、これは彩花自身なのだろう。先程のように、装っているのではなく、きっと……。

「彩花ちゃん……」

 駆け寄ろうとする祥を、真言を唱えながら、修子が手で制する。

「まだ、危険だ」

「……」

 相変わらず、苦しんでいる彩花。そして、

「まだ……まだいる……。私の中に……何かが……」

 唱え続けられる真言。だが、いつまで経っても彩花の様子は変わらず……。

 そして、やがて憔悴した表情で、彩花は手にしていたナイフを見つめてゆくと……。それから、どのくらいの時間が流れただろうか、しばしそれをじっと見つめた後、再び視線を祥へと向け、

「柚月……君。ごめん……ね」

 最初それは、先程の彼女が彼にナイフを向けてしまったことへの謝罪かと、祥は思った。だが、あれは彼女であって彼女ではないのだ、それで彼女があやまるだなんて……。祥はそう思っていると、

 不意に彩花はナイフを振り上げ、自分の腹へと突き刺していったのだった。

 辺りに飛び散る真っ赤な血潮。それで祥の脳裏に過ぎってゆくは、何故、何故、の言葉。

 確かに以前、結界の中での憑かれた人間の死は、悪霊の死につながる、そう修子は言っていた。そう、これは、封印でなく、完全なる消滅。死した魂の、更なる死、と……。

 だが……彩花は知らないはずだ。悪霊を消滅させる、そのからくりを。なのに……。

 もしかして……もしかして……今の謝罪は、前世から今まで自分が海斗もしくは柊馬から受けてきた仕打ちへの謝罪だったのでは……? 彼の妹として、妻として。そして今、覚悟を決め、その償いの意味を込めて、こういう行動に……? 

 色々考えがめぐるが、結局は何がなんだか分からず、目の前の出来事に頭がただ真っ白になってゆく祥。そして、

「彩花ちゃん!」

 その声と同時くらいに、ナイフを腹に突き立てたまま地面に突っ伏す彩花、そして、

「あああ、あああああああああっ!」

 腹のそこからのうめき声が辺り一面に響き渡る。

「やめろよ、もうやめろよ!」

 そんなことをしてまで、人を犠牲にしてまで……霊を殺すことはない。その思いで祥はまだ真言を唱えている二人に向って必死に叫ぶ。だが……。

 流石に修子はこの惨事に真言を止め、チラリ淨蓮を見ていたが、淨蓮は止めることなく、真言を呟いており……。

 それを見て、修子も再び真言を唱え始める。

 辺りに響く、由香である彩花の断末魔といってもいい叫び声。そして、それに堪えきれず、祥は、

「なんで……くそっ! もういい!」

 そう言って、その場から駆け出していった。そう、彩花を手当てしてもらう為、病院へと。このままでは本当に彼女は死んでしまう、そう判断して。


 そうしてそれから祥は病院へと走り、飛び込んだ受付で、彩花の状況を伝えていった。

 そう、

「病院の駐車場で、腹部にナイフを突き刺した女の子が倒れているんです!」

 そんな、必死の形相で。

 すると、明らかに緊急な出来事に、その場は騒然となってゆき……。

 恐らく連絡がいったのだろう、それからすぐに医師や看護師がやってきて、必要な道具を手に、急いで現場へと駆けつけていった。そして再び戻ってきたその現場、そこで祥が見た状態は……。

 真言は、もう止まっていた。焦燥の表情で、二人立ち尽くし、とある一点を見つめている。そして、その視線の先には……。

 目を閉じ、青白い顔をして、身動きもせず血だまりの地面に倒れこんでいる彩花の姿が。

「……彩花ちゃん……」

 死んでいるのか、生きているのか、見ただけでは分からなかった。ただ祥は、最悪のシナリオを胸に描いて、呆然と立ち尽くすのみで……。

 周囲がにわかに騒がしくなる。息があるか調べたり、応急処置を施したり、持ってきたストレッチャーに彼女を乗せていったり、何人もの人間が祥の周りを行きかってゆき……。

 そうして、彩花が病院へと運ばれてゆくと、

「なんで……なんで、人が死にかけているのに、あんな真似ができるんだよ!」

 するとそれに淨蓮は、

「なんとでもいうが良い。確かにお前の言葉が正論なのだろうから」

 そう言って、祥に背を向け、病院へと向って歩き出す。

 それは、何人も近づけないような威圧感。それに気圧され、祥は怒りながらもただ見送るしかなくて……。

 すると、そんな彼に修子が近づいてきて。

「彼女のあの一刺しで、悪霊は大分弱っていた。おじいちゃんも苦渋の判断だったと思う。彼女は死んでしまうかもしれない。でも、その体から悪霊を追い出し、封じるなら今だ、と。微妙な判断だ。お前が怒るのも無理はない」

 その言葉に、当然だとでも言うようにキッと修子を睨みつける祥。そして、その怒りのまま、

「で、彼女は?」

「分からない……。とりあえず、彼女の体から悪霊を追い出し、それをこの場に封印したが……彼女自身は……。封印した時には、まだ息があったと思うが……」

「あとは……天まかせということか」

 まだ怒り収まらない調子で祥はそう言う。するとそんな祥に、修子はため息を吐き、

「分かってくれ。彼女を死なせたくないのは当然だ。だからこそ、彼女の決断を無駄にしたくなかった。真言を止めて手当てに入ったり、そのまま黙って死を待ったりするよりは……。あとは……医師の手にまかせよう」

 グッと拳を握る祥。そう、こうなってしまっては確かにそうするしかないのだ。

 そして、さあいこう、とでも言うように、ポンと修子に肩を叩かれる祥。それに小さくため息を吐き、ふざけるなとでもいうよう祥はその手を振り払うと、歩み出す彼女の後について、彩花のその先を見守る為、重い足取りで病院へと向っていった。

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