第二部 第二十一章 疑惑
その頃、一方の海斗は家に戻ってきており、まだ彩花はいないことを確認すると、不機嫌そうな表情で、荒々しく居間のソファーに座っていった。そうして、テレビでも見るかと、リモコンを手に取った時、
「旦那様……」
耳元で聞こえる、どこか不気味な、女性の声。
それに、海斗はその声の方向を見やると、そこにはあの女性霊がぼうと立っており……。
「何だ」
彩花のことで苛立っていた海斗、どこか不機嫌そうにそう言ってゆく。すると、
「はい……柚月祥が、またも霊符を貼ったようで……」
それに海斗は、またか、と思わず笑いそうになって、不意に止めた。そして、過ぎっていった違和感に、訝しげに眉をひそめ……、
「それは、今日のことか? 今日なら、奴は彩花と出かけているはずだが……」
そう、今祥は彩花と一緒のはず。だから、今日のことならば、そんなことはできないはずであり……。だが、
「はい、ついさっきのことでございます」
無常にも、目の前にさらされた現実は、これで……。そして、そんな女性霊の言葉に、更に海斗の表情は厳しくなると、
「……どういうことだ、一体……」
そう問うてゆく、海斗。
そう、もう二人は別れて、その後に霊符が貼られたのか、それとも二人が会う以前に、霊符が貼られた時間があったのか、そんな淡い期待を胸に抱きながら。だが……。
「それが……どうしてだかは分かりませんが、その場に、彩花殿もいたようで……」
小さな希望も打ち砕く、女性霊の言葉。それに海斗は唖然とすると……。
「そこで何が行われたかは……」
「いえ、やはり分かりません」
「なら……」
もしやの念が胸に渦巻いて、海斗はまたも眉をひそめる。
そう、もしや。もしや……彼女は彼から我々の何かを聞いたのか? それとも、前世に関する何かを思い出してしまったのか……? と。
すると、そんな海斗の疑惑に女性霊はうなずき、それが貼られる以前の、彩花の不可解な行動も説明していって……。
それは、祥とのデートの場での、あの彩花のおかしな行動。そう、突然の帰宅の……。それに海斗の疑惑は、更に拍車がかかってゆき……。そして、
だとするとやはり……これらの黒幕は誰だか知っての、今回の霊符の件という可能性も高くなる。いや、それ以前の、祥が母親の料理を避け始めている感じがするという報告からも、その可能性はかなり高くなっていたが。
「旦那さま、一体どういたしましょう」
すると、それに海斗はコクリとうなずき、
「こうなっては、もしかしたらぐずぐずしていられないのかもしれない。当初の予定だった、奴の記憶を取り戻す、それは達せられてないが、計画は実行した方がいいような気がする。まぁ、できれば一緒に事は成し遂げたかったが……記憶を取り戻すのはその後でもとりあえず問題はないのだから……。ならば、向うに何らかの手を打たれる前に、こちらから手を打ったほうが……」
「はい。ではすぐに?」
「いや、計画を実行するには、彼の体が操れなくては意味がない。今度は祥の中の悪霊を使って、もう 一度どのくらいまで操れるようになったか確かめよう。それで体の自由が奪えるのなら、計画を実行してしまおうか。そう……」
すると、そこで海斗は言葉をとめ。
「そう、まずは……学校で」
どこかもったいぶったようにそれを言い、ニヤリと笑う海斗。そしてそれにつられるよう、女性霊もフフフと笑い、コクリとうなずいてゆくと、
「面白うございますね。奴の反応が楽しみです」
「だな、神谷修子の反応も楽しみだ」
長い年月をかけて目指していた日、その日がもう間近に迫ってきたことに嬉しさが隠せないのか、それとも、計画の成功を既に確信してのことなのか、お互い目を見合わせて、思わずといったよう二人はほくそ笑んでゆき……。
そうして二言三言、そのことについて二人は話し合うと、「では明後日」と意味ありげに言って、その場から女性霊は消え失せていって……。
その姿を海斗は見送ると、
はぁ、と、どこか疲れたように、座っていた居間のソファーにその身を投げかける。
そうして目を瞑ってゆくと、海斗の脳裏に浮かぶのは……。
「きさま、芙美子の気持ちを知っていてのあの言葉か!」
日記を盗み見て、芙美子の気持ちを知っていた柊馬。不義があって故意にそれを隠して書いているのか、本当に日記に書いてあるモノだけが真実なのかは分からなかったが……とにかく、奴の無責任な行動が彼女を苦しめたのは事実だった。そして、彼女の心に裏切りが……そうその心にあるのは自分ではなく、別の者だということも……。
恐らく奴は、彼女の気持ちを知っていながら……。
それに、頭にきて、そして不倫と言ってもいい出来事にも腹が立って、そうして柊馬は二階堂邸へと乗り込んでいったのだ。そして……。
「何度も何度も二人で会ってたんだろう! 知ってるんだぞ!」
「芙美子がどれだけ傷ついたと思ってるんだ!」
奴の胸倉をつかみ、そう詰め寄ってゆく柊馬。だが、それに佑はただキョトンとするばかりで……。
その態度に、更に腹が立って、もっと詰め寄ろうとすると、
「やめ……て!柊馬さ……ん……やめて!」
柊馬が案内されたのは二階堂邸の居間。そこで繰り広げられる修羅場に割って入るよう、不意に芙美子の悲痛な声が響き渡る。
だが、頭に血が上った彼の耳にそれは届かず、やめるどころか、更に彼に殴りかかろうとして、
「駄……目!」
慌てて抑える芙美子。
そう、息を切らせながら、つらい体に鞭を打ちながら……。
だが、そんなことも頭から飛んでいた柊馬、思わずその口から出た言葉は、
「いいのか、芙美子。こいつはお前を裏切った男だぞ。お前の心を知っていながらすっとぼけて、お前の心を弄んで……」
「違う……の、そうじゃ……ないの……。これは……」
必死で止める芙美子。すると、それに怒りを向けられていた佑は、困惑の表情をしながら……。
「すみません。僕にはよく事情が……。さっぱり飲み込めなくて……」
「きさま!」
すっとぼけやがってと、今度こそは本気だぞと、またも殴りかかろうとする柊馬。すると、何が何でも止めねばというように、芙美子は柊馬に抱きついてゆくと……、
「はうっ……!」
不意に息苦しそうに、表情を歪め、ゼーゼーと咳き込んで、その場に座り込む芙美子。それは、まるで喘息の発作のようで、始めはそれなのかと、柊馬は思った。だがあの後、心臓について医師から注意すべき症状も聞いており……。それにも似ていて、思わず惑ってしまう柊馬。だが……どちらにしても重篤な事態だ。そう、声も出せず、体を上半身だけ起こして、ひたすら苦しげに咳き込み、空気を求めるかのよう、ゼーゼーいっているのだから。
「芙美子! 芙美子!」
しっかりしろと叫ぶ柊馬。
だが、芙美子は冷や汗を流して苦しむばかりで……。
そうして、この騒ぎになんだと集まっていた二階堂邸の者達に、柊馬はすぐ医者を呼ぶよう伝えると、着の身着のままの芙美子、恐らく薬は持ってないだろうと、久門家から薬をもらってくるようにも頼む。
すると……。
やがて、久門邸からも何人かの人がきて、二階堂邸の居間は騒然となる。
そんな中、柊馬は家の者が持ってきた薬を、とにかく出来ることは何でもしようと、それを彼女に飲ませてゆくと……。苦しみが治まるのを待つようじっと安静にさせてゆく柊馬。だが……中々それは治まらず、やがて彼女は顔色を悪くし、ぐったりとしていって……そうして、そう、医者が来るよりも前、はかなくも芙美子の命は……。
「芙美子! 芙美子!」
だが、彼女が目を開くことはない。そう、明らかなる死を柊馬は確認して……。
ギラリと光る柊馬の目。全てはお前のせいだという、恨みの……目。そして柊馬は近くにあった果物ナイフを取り出すと、
「許せない……」
「お前の何もかもが許せない!」
そう言って、激情に任せるまま、柊馬は手にしたナイフを振りかざして、佑の腹部へと刺していったのだった。それはあまりに唐突で、痛み、よりも先に、ただひたすら唖然とするばかりの佑であって……。だが、そうする間も一瞬、二、三度それが繰り返されると、そのまま佑は床に崩れ落ち……。そして、
「俺はお前を一生、否、未来永劫恨む! 例え、何度生まれ変わっても。この記憶を消さないよう神に祈り、生まれ変わってはお前を探し出し、地獄の苦しみを与え続けてやる! そう、それをここに誓う! 神にかけて誓う!」
そう言ってその手のナイフを、今度は柊馬自身へと刺していったのだった。
それから柊馬の記憶はぼんやりとしか残ってないが、血みどろになって倒れている男が少し離れたところに一人、否……自分を入れて二人か。更に、息を止めて静かに身を横たえている女性も一人いるものだから……。そんな修羅場に、周りはパニックに陥ったように大騒ぎして……。
佑は、もう力尽きたよう、青白い顔を横に、既にその目は閉じられていた。それを見て、柊馬は為すべきことはやったと、満足と達成感が胸の中を占めてゆくと、そのまま静かに目を瞑ってゆき……。
そうして年月は経ち、なんと神は海斗の願いを聞き入れ、前世の記憶を持ったまま、再びこの世に生を与えていったのだった。そう、この世界で、ひたすら佑の転生を待つべく……。そしてそれから八年後、この地球のどこかで佑が誕生したことを海斗は知り、皮肉なことに、芙美子も自分の妹として産まれたことを知ることになるのだった。そう、運よく転生した海斗は霊感が強かったから、そういったことはすぐに察することができ……。また物心ついた時から、この先力になってくれるだろう悪霊もそばについていたから、尚更であって……。そうして彼女を使って、どこかで誕生した彼を探しに探し、祥が八歳になった時、海斗はようやく見つけたのであった。それからは、だたひたすらこの計画の為に自分は動いた。悪霊を忍び込ませ、彼の動向を探り、恐らく操れるようになるだろうと予期した彼が高校生の時を狙って、職業も教師という道を選び。そう、この計画をなす為、そして間近でこのショーを見るために!
彼が陸上に興味を抱いていると知れば、自分もその道を歩み……。彼の志望高校の情報を入手すれば、悪霊たちを使って、その高校に潜り込めるよう手を回し……。すべては……すべては、この計画の為に……。
ふつふつと湧き上がってくる、祥への恨み。絶対果たしてみせると、胸に誓っていると、
「ただいまー」
玄関の扉が開く音がして、彩花のそんな声が聞こえてくる。
それに海斗は、ダイニングに顔を出した彩花の姿を認めると、
「お帰り。どうだった、デートは?」
あの件を探らねばと、一瞬にして怒りの表情を消し去り、まるで何事もなかったかのよう、穏やかな様子でそう問う。
すると、それに彩花は……。
「うーん、まぁまぁ。海浜公園行って、そこでお昼を食べて。でも私、突然気分が悪くなっちゃって。ちょっとで帰らせてもらったんだ。でも、家に帰ってすこし休んだら良くなっちゃって。それでもう一度柚木君に連絡して、彼の家の近くの公園でしばらくお話してたの」
それに、眉をひそめる海斗。そう、微妙に、悪霊からの報告と違っていたからだ。なので、海斗は、
「具合が悪くなった? 大丈夫なのか、もう?」
確かめるようにそう尋ねる。すると、
「うん、もう平気。柚木君には心配かけたくなかったから、つい用事が……って言って帰ってきちゃったんだけど」
「それで……、よくなって彼に電話を?」
「そう。実は具合が悪くなって、って事情も説明したかったし、体調よくなったら、柚月君に会いたくなっちゃったし」
「ふうん。それで、わざわざ」
「うん。柚月君、なんか色々悩んでたみたいで……。お兄ちゃんに嫌われてる気がするとか、なんとか。そんなことないよって、気持ち悪くなる以前にも言ったんだけど、もう一度はっきり言ってあげたかったから……」
恋する乙女の切ないような表情をする彩花。そうして少しの間の後、彩花は顔を上げて海斗を見つめると、
「ね、お兄ちゃん、そうだよね? 嫌ってなんか、いないよね」
すると、それに海斗は苦笑いをし、
「可愛い妹をとられると思うと、面白い気持ちにはならないけどな」
その言葉に、クスクスと笑う彩花。そうして、
「そう、そういうことも言ってあげたかったの」
楽しそうな彩花。それは紛うことなく、祥のことであるからこその、この表情であって……。それに、海斗は思わず面白くない気持ちになると、
「ずっと、そんな話をしてたのか?」
すると、その言葉に彩花はうーん、と表情をゆがめて、
「まあ、他にも色々。でも、そのことが結構大きかったかな」
別に、やましいことは何もない、それを示すかのよう邪気の無いにこやかな笑みを浮かべてゆく。それは……そう、あれから皆で作り上げていった台本に忠実なものであり……。すると、それに海斗はとうとう耐え切れなくなったのか、たまらずといったよう、
「奴……何かおかしな行動しなかったか? えー……霊感が強いっていう、うちの部の変わり者、神谷修子と結構仲がいいみたいだから」
それに、そういえば……というような表情を彩花はして、
「なんか、変なお札貼ったりしてたかな? 結構迷信深いみたいで、私もちょっと意外でびっくりしちゃったけど」
「他には……」
「うん? それだけだよ。お兄ちゃんのこととか、あと、他愛もない雑談を二人でしてただけ」
そう、ずっと霊符は貼っておいたから、修子の存在は知られてないはずと、台本はこういう内容にしたのであった。だが、やはりそれに海斗は納得いってないようであり……。
「そうか……」
どこか不満足げな表情でそう言う。そうして……、
できれば、もっと彼女から話を聞き出したかった。だが、何も知らないことになっている海斗であったから、あまり根掘り葉掘り聞いてゆくのは、どう考えても不自然であり……。特に、過ったあの考えが気にしすぎであれば、尚更。なので、どちらとも判断がつかず、とりあえずはここまでと、海斗は質問を我慢すると……。
そう、彼女のいうことをそのまま受け入れれば、黒幕が誰か知った祥が、この件をもっと探ろうと、彩花から色々話を聞きだそうとしたとも考えられる。そうして用心のために霊符も貼った……と。だが、彩花はただの彩花、芙美子でない彩花からはたいした情報は引き出せず、目論見は外れた……ということになるが……。
そう、そういう可能性もなきにしもあらずと、そんな風に海斗は思いを胸に巡らしてゆくが……だが、やはりもっと違う何かがあったのではないかという疑惑もぬぐえず……。
「色々あったようだが、まあまあだったんなら……それは良かった。映画が駄目になったのは残念だったがな」
当たり障りなくそう言って、まだどこか気になるよう、表情に暗い影を落とす。
そうしていたたまれないよう、海斗は、
「俺は部屋に行くから、夕食が出来たら呼んでくれ」
そう言って、その場から立ち去っていったのだった。