第二部 第十九章 事情
それから彩花は最寄りの駅で電車に乗り、焦る気持を抑えながら、二つ先の北松原で降りると、
急げ、急げ!
改札へと向かう階段を駆け足で上っていった。すると、
あ……。
改札を抜けたその向こうに、どこか手持ち無沙汰の祥の姿を彩花は見つける。そうして、
「柚月君!」
と、そう声をかけると、
それで彩花の存在に気がつき、にこやかな表情で祥は彼女を出迎えてくる。
それに、怒っている訳ではないことを察して、彩花は少しホッとすると、小走りしながら彼の側へと駆け寄ってゆき……。すると、
「ああ、なんか元気そうで、良かった。あれはほんとにびっくりしたから。でも一体、どうして……」
いまだ疑問とでも言うように、早速あの件を蒸し返してくる祥。
それに彩花は苦笑いを浮かべながら、
「うん、それはね……ああ、でもここじゃ駄目だな。どこか人気のないところで」
思いがけぬ彼女の申し出に、しばし悩む祥。そうして、やがて出た言葉は、
「じゃあ、近所の公園にでもいこうか。そこならあんまり人、いないから」
それに、ホッとしたようにコクリとうなずく彩花。そうして、
「うん、わかった。でも私……落ち着いてじっくり話したいの。そこは……」
「大丈夫、一応ベンチもあるし、場所も、静かな住宅街の中だから」
すると、その言葉に納得するよう、彩花は再び祥にコクリとうなずいてゆき……。そして当然の如く、それは了解の返事だろうと、祥も納得して、
「じゃあ」
と言うと、こっちこっちと促しながら、二人並んで、その場からゆっくりと歩き出していった。
そうしてやがて着いた場所は、雑草の生え茂った、だだっ広い原っぱが一面に広がる公園だった。祥の言ったとおり、遊具といえるものがないせいか、子供の姿などはない。
「夕方になると犬の散歩の人達が来るんだけど……。今はまだ早いから」
それに、彩花はコクリうなずくと、
「それで……」
と早速話を切り出し始める。すると、それに祥は、
「ああ、そうだったよな。何か話があったんだよな」
それに再びコクリと彩花はうなずくと、
「あの……」
どう話していいのか分からずに、彩花は口ごもってしまう。
そう、これはどう考えても現実離れした話、聞いたらきっと引いてしまうだろうと思って。
そうして、彩花は、
「えーと、何から話していいんだろう……」
とか、
「どう話そうかな……」
とか、うだうだ悩んでいると、
「俺、黛先生から嫌われてるかもしれないっていったじゃん。その話に何か関連があるんだろ。それ、聞かせてよ」
助け舟が祥から出て、うんうん、そうそうと、どこかホッとした思いになりながら彩花はそう言う。そして、肩の力を抜いて、一つ息を吐くと、
「えー……信じられないかもしれないけど……」
躊躇いがちに、そう彩花が言葉を発した時、
「あ」
不意に、祥のそんな言葉が辺りに響き……。
「ちょっと待って、念のために」
そう言って鞄の中をゴソゴソすると、そこからなにやら怪しげな文字らしきものの入った白い紙を取り出し、呪文を唱えながら、東屋のようになっているベンチ周りの支柱、四本と彼自身にそれを貼り付けてゆく。そして、「よし」、と小さくつぶやくと、
「はい、もういいよ」
彼女にとっては意味不明の行動。それに困惑し、出端を挫かれてしまったような感じになってしまう彩花。そう、それはあまりにも……特に祥の格好などは、どうにも拍子抜けしてしまうもので……。だが、ここでくじけたらいかんと、頑張って……、
「えーと、あの……お兄ちゃん、柚月君のこと、恨んでいるの」
間が抜けそうになるのを何かとこらえ、思い切って彩花はそう言ってゆく。そしてその言葉で、どういう反応を彼が示すかが気になり、息を詰めて彩花は祥を見つめてゆくと、
「ふうん……嫌い、じゃなくて恨み……なんだ」
意外と反応は少なく、それに彩花はちょっとびっくりする。実はある程度の事情は知っていた祥だったから、この反応も当然といえば当然であるのだが……あの資料だけではそれが分からなかった彩花、今までの緊張はなんだったのかと思うほど、またも拍子抜けしてしまって……。そして、
「そう、恨み、柚月君個人に対する恨み」
すると、それに、
「でも、なんでなんだろう。俺、先生から恨みを買うような覚えって、ないんだけど……」
「それは……」
再び言葉に詰まる、彩花。でも、これは言わねばと勇気を振り絞って、
「前世で、私は柚月君のことが好きだったから、でも私は人妻で……。お兄ちゃんの奥さんで……。それで……こう……痴情のもつれっての?」
すると、
「前世? 痴情のもつれ?」
それには流石に……と、あっけにとられたような表情をする祥がそこにいる。だがこれは……彩花にとって、予想の範囲内の反応だった。そう、ここで立ち止まってはいけないのだ。なので、彩花は更に続けて、
「お兄ちゃんは、柚月君……前世では二階堂佑って名前だったけど、その柚月君である佑さんが、私を裏切ったって思っている。えーと、それは私とは別の人との結婚話が彼にきたってことなんだけど……。それで佑さんを好きだった私は、ショックでか何でか、体調を崩してしまって……」
どうやら、この話に頭がこんがらがっている祥だった。きょとんとしたような表情をして、
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って」
話を整理しようと、そう言って、考え込み始める。そして、
「俺の前世は二階堂佑で、彩花ちゃんが俺に惚れてたって訳? えーと、付き合ってたのかな? いわゆる、不倫?」
それに彩花は首を横に振り、
「ううん、違う。私の片思いだった。でも……」
「でも?」
「お兄ちゃんは多分誤解している。私達は付き合っていると思っていたか、私の思いを知りながら、裏切ったと思っているか……」
そう、あの時の言葉を思い出すなら……。
「きさま、芙美子の気持ちを知っていてのあの言葉か!」
「何度も何度も二人で会ってたんだろう! 知ってるんだぞ!」
「芙美子がどれだけ傷ついたと思ってるんだ!」
思い出した記憶、あれから彩花、つまり芙美子は慌てて二階堂邸にゆくと、そんな修羅場が繰り広げられていたのだった。
「やめ……て! 柊馬さ……ん……やめて!」
だが、頭に血が上った柊馬は、やめることなく、更に彼に殴りかかろうとして、
「駄……目!」
慌てて柊馬を抑える芙美子。そう、つらい体を押して、ここまで駆けてきた芙美子、思いっきり息を切らせ……。
だが、それに柊馬は、
「いいのか、芙美子。こいつはお前を裏切った男だぞ。お前の心を知っていながらすっとぼけて、お前の心を弄んで……」
「違う……の、そうじゃ……ないの……。これは……」
必死で止める芙美子。すると、それに怒りを向けられていた佑は、困惑の表情をしながら……。
「すみません。僕にはよく事情が……。さっぱり飲み込めなくて……」
「きさま!」
今度こそはと殴りかかろうとする柊馬。すると、何が何でも止めねばと、芙美子は柊馬に抱きつくと、
「はうっ……!」
襲う激しい呼吸困難。そう、今までとは比較にならない程の、とてつもなく激しい。と、同時に咳と痰が出て……。
苦しい、苦しい、苦しい。
そうして立っていられなくなり、ゼーゼーと喘鳴しながら、足りない空気を求めて、その場に芙美子は座り込む。すると、やがて……。
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。
「芙美子! 芙美子!」と。
ああ、これは柊馬さんの声だ……。
必死で吸っているのに足りない空気。そんな苦しみの中で、また、段々と酷くなってゆく症状の中で、それらに耐えながら、やがてぐったりとした状態で芙美子はそれを聞いていると、次第に意識がなくなってゆき……。
後は暗闇。もう、何も見えない暗闇。これは一体なんなのだろうか、ただ単に記憶が途切れているだけなのだろうか、それとも……死? そう、その後どうなったのかは全く分からず……。
「とにかく、お兄ちゃんは、そのことで祥君を恨んでいる。復讐しようと思っている! 突拍子もない話だけど、ほんとなの。信じて!」
彩花は必死だった。少しでも信じてもらわないと、この先祥が大変なことになる、そう思って。すると、
不意に携帯を取り出す祥。そうして、それを操作しながら、
「そんなに心配そうな顔しなくて、大丈夫だよ。黛先生に狙われてるの、少し前から分かってたから。確かに前世やらなにやらは初耳で驚きだけど……。でも、どうして狙われるのかが分からなかったから、この話はほんと、ありがたいよ」
そうして、少しでも彼女を疑ったことに申し訳ないように思いながら、祥は電話が通じるのを待っていると、
「ああ、神谷か? 俺、柚月。今暇か? ……うん、うん。俺、今彩花ちゃんといるんだけど、ちょっと話したいことがあってさ。こっちまできてもらえると嬉しいんだけど。そう、場所は……」
どうやら、誰かを呼んでいるらしい。色々話は続いているようだが……、どうにも内容が見えなく、そのもどかしさに彩花は不安になってゆく。そうして、ならばと、今一体何が起こっているかを知るべく、彩花は祥の話し声に耳を澄ませてゆくと、
携帯を切って、それをしまってゆく祥。そして、
「今、神谷修子を呼んだから。ほら、陸上部で一緒のみつあみの」
それに、よく彼と一緒に話していた彼女を思い出し、ああ、と彩花は声を上げる。そして、
でも、なんで……と、疑問をわきあがらせていると、
「不思議な現象は彼女のが詳しいからね。俺が黛先生に狙われてるってのを探り当てたのも、彼女の力があってのことなんだ」
それに、成程とうなずく彩花。そう、それは彼女にとって、初めて耳にすることであって……。すると、
「でも、どうしてそのことを知ったの? 何故今話そうと思ったの?」
不意の祥の質問に、彩花は再びうなずき、
「私、今まで前世の記憶がなかったから。でも、お兄ちゃんの部屋から、私が前世で書いた日記や、柚月君に対する資料とかを見つけてから、段々疑惑めいたものをが芽生えていって。で、今日、あの海浜公園で過去の全てを思い出したの。今まで疑問に思っていたことも、その記憶で大分かみ合って。ならば、もう一度柚月君の資料を確かめなきゃって、家に戻って見てみたら、これはすぐに伝えないといけない内容だと思って……」
その言葉に、成程とうなずく祥。そして、
「俺、黛先生が放ったらしき悪霊に憑かれててさ、ほら、さっきお札みたいなの貼っていっただろ。それでその中でしかこういう話できなくて。そうでないと、全部向こうに話がだだ漏れになっちゃうんだ。突然変な行動して、びっくりしただろ」
するとそれに、ううん、と彩花は首を横に振る。そしてにっこり微笑み、
「確かに最初、一体なんだろうって思ったけど、そういう理由なら。でも、そうなると、お兄ちゃんにばれないでこの話を伝えることができたんだね」
ホッとしたような様子を見せてゆく彼女。それに、更に彼女を疑ってしまったことに祥は申し訳なくなりながら、居心地悪げに、うん……と小さく呟くと、
「とりあえず神谷がきたら、知ってること全部話してくれるかな。彼女とは、一緒になってこの件に関与しているから」
祥のその言葉に、どうしてよく二人で一緒にいたのか納得する彩花。そうして、ありえねーと、大笑いしていたあの部員の顔を思い出し、
やっぱり、付き合ってはいないのかな?
それに少しホッとなって、深くうなずいてゆく彩花であった。