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第二部 第十七章 デート

 そうして、それから約一時間半後、彩花は、何とか服やら髪型やらメイクやらをバシッと決めて、そう、自分ができる限り、一番の姿を見せることができる状態で、待ち合わせ場所に到着することができた。

 まぁ、そのせいで、あの時間から更に少し遅れてしまった彩花でもあったのだが……。

「ゴメンね、遅れちゃって」

 既に到着していたらしい祥に、彩花は謝罪の意を思いっきり込めて、手を合わせる。

 すると、それに祥は全く意に介した風もなく、ニコリと微笑むと、

「いいよ。俺もついさっき来たところだし。寝坊なんて、誰にでもありえるさ」

 その言葉に、彩花は少し救われたような思いになりながら、

「えー、どうしよう、これから」

 するとその問いに、祥は時計を見ながら、

「観る予定だった映画は、今からだともう間に合わないから……次の回にしよう。その間……どうする?ちょっと早いけど、どこかで御飯でも食べる? それとも、近くに公園があるみたいだから、そこでのんびりするとか?」

 それに、うーんと悩む彩花。そして、

「公園でランチしながら、そこでのんびり!」

 寝坊の為、朝食を抜いていた彩花、少し何か小腹に入れておきたい気持ちがあり、また、この近くの公園と言ったら、おそらく新しく出来たという海浜公園だろう……と。そう、そこにも行ってみたい気持ちもあって、思わずそう答える。

「そっか……じゃあ、どっかファストフードでテイクアウトにして、公園は……海浜公園、かな。そこで食事でいいかな?」

 うんうん、とうなずく彩花。

 そうして、二人は最近日本に進出したきたという話題の新しいファストフード店でメニューを頼むと、それを持って電車に乗り……。

 そう、海浜公園はここから駅一つ離れていたが、時間も十分あるからと、そこまで移動することになったのだった。

 そしてその電車の中、彩花は一人ホクホク顔をしており……。そう、隣には祥、待っているのは公園での楽しいだろう二人のランチ、であったのだから。

 だが一方、それに祥の方は少し困惑していて……。

 そう、あれから実は、修子に徹底的にデートマニュアルと叩き込まれていたのであった。本来なら映画を観て、その後に修子がピックアップしたおしゃれなイタリアンの店なんかで食事の予定だったのだが……。

 うーん、彼女の遅刻で予定が大幅変更だな……。

 でも、まあそれでもいいかと、楽天的な気持ちになる祥。

 そう、このデートの目的は、彼女から海斗の話を聞きだすこと。それさえ出来ればいいのだから。

 そうして、どこか呑気とも取れる気持ちで、これからのことを考えてゆくと、

「湘北ヶ浜、湘北ヶ浜」

 不意に車内アナウンスが、海浜公園への到着を知らせる。

 それを聞いて二人は電車を降りると、

「うわっ!ここまで磯の香りが漂ってくる!」

 駅を出て、早速感じた海風に彩花は感嘆の声を上げる。

 そして今は九月、日差しは真夏のギラギラしたものから、少し秋めいたさわやかなものに変わりつつあり、程よいそよ風もあいまって、野外で食事をするには絶好の日和となっていた。

 それは、本当に最高といっていい日和で、彩花の気分も更にいいものになってゆくと、早く海が見たいと、祥と共に急くようにして公園の中にはいってゆき……、

「うわっ芝が気持ち良さそう!」

 そこでまず待っていたのは、青々と広がっている芝。その芝で、家族連れやらカップルやらが、そこかしこにビニールシートを敷いて、思い思いにくつろいでいる。

 そうして、ここからだとまだ遠くはあるが、はっきりと海が目に入ってきて……。そう、光に照らされ、キラキラとした海面が、二人の目を刺すように入ってきて……。

「土曜だから、結構人いるね」

「このまま芝にねっころがりたい!」

「ねぇ、もっと海沿いにいこうよ!」

 いかにも心から楽しいといったように、邪気の無い表情でそう次次に言葉を繰り出してくる彩花。

 それに祥は微笑ましい気持ちになりながらも、やはり、どこかだましているような気分もぬぐえず……。

 否、

 実は俺の方が騙されてたりするのかなぁ……。

 彼女の立っている位置が分からず、思わずそんなことを考えてしまったりもする。

 そうして祥は彩花にせがまれるまま、海辺の方へと歩いてゆくと、人工渚が眺められて、でもまだ芝が残っている位置に陣取り、そこに二人腰を降ろす。

 そうして、持ってきたファストフードの袋を開けると、

「ほんとに、風が気持ちいいねー!」

 ハンバーガーを手に、眩しげに海に目をやり、そう呟く彩花。

 それに、

「確かにそうだね」

 と祥は返すと……。

 都会近くとは思えないのどかな風景に目をやりながら、今こそがチャンス、今こそがチャンス、と、祥は何度も胸につぶやき、自分自身、じわじわと緊張を高めていって……。そう、祥にはこれから、彼女から海斗の事を聞きださねばならないという使命があるのだった。そうして、彼女はどのようにこの件に関わっているのか、ということも。

 なので、その使命に緊張をひしひしと感じながら、祥は、

「お兄さんとは、仲いいの?」

 不意にそう話を切り出してゆく。

 すると、それに彩花はコクリうなずき、

「うん。五年前に事故で両親を亡くしているから、お互い助け合って、ここまで来たって、感じかな」

 最近のギクシャクも少し頭を過ったが、それはとりあえず置いておいて、今までの二人のことを話す。すると、それに祥は……。

「両親が事故……そうだったんだ」

 初耳のその話に、少し驚く祥。そして、

「大変だったんだね……」

 だが、気丈にも、彩花はつらいような表情はせず……。否、もう言われなれた言葉なのかもしれない、つらい気持ちも、大分治まったものになったのかもしれない、うん、と小さくうなずきながらも、彩花は淡い微笑を浮かべてゆくと、

「でも、その時大学生だったけど、お兄ちゃんもう大人だったから。若くても結構しっかりしてたし。だから、なんとか……」

「そうか……」

 ポツリそう呟く祥。そう、思いがけない話に気の毒に思って。だが……こんな雰囲気の時になんだが、本当に、本当になんなのだが、いつまでもこの話をしている訳にはいかないのだった。そう、これからが本題と、祥はキュッと気を引き締めてゆくと、

「でもさぁ、俺、なーんか、黛先生に嫌われてるような気がすんだよねー」

 ちょっと切ない、というように、肘をつき、小さなため息なんかついて祥はそう言う。すると、

「え……」

 どこか驚いた顔をする彩花。確かに、祥の名前を出すと、海斗は面白くないような表情をしていたが……。それは、娘を持つ父親のようなもので、祥だけでなく、海斗以外の男性の存在、出てくれば全てそんな感じになるのだと思っており……。

「なんか心当たり、ない?」

 ちょっとつらいような雰囲気も醸し出しながら、そう言ってくる祥。それに、あれが祥個人に対する嫌悪感だとすると、と考えてゆくと……。

 昨日見た意味不明の資料……。

 ぞくり、彩花の背に怖気が走る。

 そう、何か意図を持って、もしかして兄は祥を嫌っているのではないか、とも思って。だが……。

「し、知らない。わかんないや。確かに、祥君の名前を出すとちょっと不機嫌になるけど、それはきっと、柚月君に限らず……だと思うし。男の人と会ったりするの、面白くない、って……。親代わりの気持ちとしてそうなのかな、って……」

「うーん……そういうもんかなぁ。でもなんか、それだけじゃないような気がして……」

 絶対それではない、それに自信を持って、祥はそういう。そして、また彩花の様子が、どこか何かを隠そうとでもするような、慌てた感じにも見えて……。

 そう、細心の注意を払って、祥は、彼女の表情や言葉の変化を観察していたのだ。そこで見せた彩花のこの態度。それを祥は見逃さず、不審を感じて、思わず……。

「なんか、知らない?」

 その言葉に、慌ててぶんぶんと、首を横に振る彩花。そうして、逆に彩花は、

「柚月君の方こそ、何か心当たりないの?」

 それに、深く悩む祥。それを見て彩花は、

「お兄ちゃん、私と柚月君が知り合いって知ったのつい最近だし、私と柚月君が知り合ったのも最近だし、もしなんかがあったとしても、そんな短い期間じゃ、心までなんて私分からないよ。それに……それに多分だけど、私も気づかなかったくらいだから、柚月君の気にしすぎなんじゃないかと思うけどな。それより……」

 とりあえず自分の気持ちを言って、さりげなく違う話題に持ってゆこうとする彩花。だが、そうはさせじと、それに祥は相変わらず不満足げな表情をしており……。

 困ったな……。

 これをどう誤魔化そうかと、彩花は惑っていると、その時、

 コロコロコロ。

 不意に祥の足元に黄色いボールが転がってきて……。そして、それがコツンと祥の足先に当たると、

「?」

 なんだろう、と思って、それを拾い上げる祥。すると、

「ワン!!」

 その声に驚いて、祥は顔を上げると、そこにはかなりの大型の、レトリーバー系の犬がたたずんでおり……。そうして、

「ワン、ワン、ワン!」

 犬は祥に向かって何度も吠えてくる。だが、それは威嚇的、なものではなく、どこかじゃれつくような感じを持ったもので、尻尾を振りながら、祥たちに向って何かを訴えかけてきて……。

 そう、それは……。その様子から、どうやら犬は祥が手にしたボールに対して吠えているようで……。

「えー……」

 この犬のボールを、俺は横取りしちゃったのかな?

 などと祥は思っていると、

「すみませーん。邪魔してしまって! 犬に渡してもらえますか?」

 遠くの方から、一人の若い女性が、大きく手を振りながら、声を張り上げてそんなことを言ってくる。

 そう、どうやらやはり、ボールはこの犬のものだったらしい。

 それに祥はニコリと犬に向って微笑むと、

「ゴメンよ、横取りしちゃって。ボール遊びしてたんだな」

 そう言って、祥は持っていたハンバーガーを彩花に持っていてもらうと、その場から立ち上がり、

「投げ返しますよー!」

 と、その女性に声をかける。

 そして、「よし」と言うと、

「おい、じゃあ行くぞ、今度は上手く拾えよ」

 少し助走をつけ、思いっきり遠くへと飛ばすよう、祥はボールを投げていった。

 すると、高く高く天上へと向かって上がってゆくボール。それは奇麗な流線型を描き、あの女性の方へと飛んでゆき……。

 それを見て、我先にとでもいうよう、素早く反応してその場から駆け出してゆく犬。それに、祥は眩しげに手を目に当て、微笑ましいようにその光景を見つめていると……。

 ドキドキドキドキ。

 その姿を見て、彩花の心臓は高鳴っていた。

 そう、これは……。

 何度も夢に出てきた、あの女性が窓から見つめていた光景。

 思わず重なる、祥と佑。

 そう、彩花にとって、祥は佑に見えたのだ。まるで同一人物のように。

 そして、それに今朝見た夢が再び思い出される。

 そう、そこでは逆に佑が祥に見え……。

 ドキドキドキドキ。

 考えようとすればするほど頭が混乱する。

 何故、何故と思いながら、ふと浮かんだとある考えを彩花は振り払おうとすると、

「いっ!」

 激しい痛みが、こめかみの辺りに走る。そうして、

「ふふふ、可愛い犬ですね、名前はなんて言うんですか?」

「奥様、今日もお隣へお出かけになるのですか?」

「せっかくいい場所にきているのに、あまり無理に動けないのは、お気の毒ですね」

「新しいティーカップを買ったんです。またお茶にきませんか?」

「この近くに素敵な場所があるんですよ、今度案内しますよ」

「奥様、お体のこともありますし、あまりご無理をされては……」

 全く夢で見た覚えのない、日記で読んだ覚えもない、あの時代の映像が、怒涛の如く流れ込んでくる。

 それは、新たな映像、新たな、記憶……。

 なんで……なんで知っているの? これは……夢で見てはいないのに。

 どんどん流れ込んでくる記憶に、ただ唖然とするばかりの彩花。

 そして更に、それは加速し……。

 浮かれる芙美子、切なくなる芙美子、罪悪感を感じている芙美子、楽しさいっぱいの芙美子、そして……。

 あの、涙の日記の後の、芙美子……。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!

 続く心の中の贖罪。

 そうして、それから……。

 あの件が影響したのかなんなのか、芙美子は体調を崩し、持病の喘息や心臓も思わしくない状態が続いていって……。

 自分の立場、それから旦那の手前もあって、その心を抑えこんでいった芙美子。たまに佑に会っても、話したり、食事等の誘いを受けたりも避けるようになって……。

 そうしてやってきたお盆の長期休暇、まだどこかギクシャクした空気のまま、東京からやってきた柊馬との生活が始まる。そこで心に刻み付けるは、

 誤解されてはいけない、誤解されてはいけない。

 その気持ちで、余計、不自然なくらい佑を避けてゆく芙美子。だが、そんな芙美子の態度に気づいてか気づかないでか、柊馬の方が、佑から食事に招待されて……。

 芙美子の体調は、食事に行くぐらいなら何とか。あの修羅場はこの家の中だけのものだったから、ならば無下に断ることも出来ないと、柊馬はその招待を受けてゆき……。

 そうしてその晩、三人は顔を合わせ、二階堂邸で食卓を囲む。それは、表面上は和やかである食事で、歓談しながら三人その時を楽しんでゆくと……。

「実は僕に結婚話がきてるんですよ。なので、明後日にはここを出て東京へ戻らないといけないんです。ことの進み具合によっては、あちらでごたごたあるだろうから、もうしばらくはこちらにこられないかもしれません」

 その食事も終わりに近づいた頃、不意に表情を深刻にして佑はそう語ってゆく。そして、少し間をあけ、

「それで、今までお世話になったお礼をこめて、こうしてお二人をお誘いしたという訳なんです」

 突然持ち出されたその意外な報告に、思わず驚く二人。特に芙美子はショックで震えまで来ていて……。

 佑さんが……結婚するかもしれない……。

 どちらにしても自分は人妻、いつかはきていただろうその日だが、まさかの本当にやってきた現実に、芙美子はなかなか受け入れられず……。そして、もう二度と戻らないだろう日々に思いをはせ、ショックに震える体を芙美子は何とか落ち着けようとする。だが……、

「明後日ですか……」

 とか、

「しばらくお会いできなくなるのは寂しいですわ」

 とか、取り留めなく上辺だけの言葉をかけていってはいたが、どこか自分が遠い場所にいるような感覚に、芙美子は陥ってゆき……。

 それに寂しそうに言葉を返していた佑。そうしてそんな表情のまま、佑は、

「望んだ縁談という訳じゃありませんが……いつまでも気ままな一人暮らしって、訳にもいきませんしね。親がそう言うなら、仕方が……」

 ガチャン!

 それは、佑の言葉の途中であった。不意に甲高い、何かが落ちるような音が辺りに響く。そう、それは……。

「あ……」

 芙美子が手に持っていたナイフとフォークを落とした音だった。そして、芙美子は……。

「芙美子?」

 胸を押さえて、苦悶に顔をゆがめる芙美子に、心配げに声をかける柊馬。

 するとその彼女、少し身を折り曲げたような形になり、そのままの体勢で、何かに耐えるような表情をしてゆき……。それを見て柊馬は、

「胸痛か? 胸痛がするのか?」

 そう、流石に柊馬はすぐにそれを察したらしく、それも結構強い痛みであることも察したらしく、彼女の側により、

「薬は?」

 と彼女に問う。するとそれに彼女は、「バッグに……」と、つらそうな声で言う。

 彼女のバッグから薬を探す柊馬。そしてそれを舌下に入れてゆくと……。

 芙美子の様子に、佑も慌ててその近くにやってきて、心配げな表情でその顔を覗き込んでゆく。そして、

「大丈夫ですか?」

「ええ、多分……最近、心臓の調子が思わしくなかったもので……。いつもの胸痛なら、すぐに落ち着くとは思いますが……」

 そうしてしばし、佑と柊馬は、芙美子の様子が良くなるのを待ってゆくと……こういう状態でいつまでもお邪魔するのはなんだということで、少し痛みが治まったところで、二人は彼の家を退出する。

 そう、まだ少し痛んでいるらしい心臓を抑える芙美子に、柊馬は肩を貸し……。

 そうして二人は自分の別荘に帰り、ベッドへと寝かせられる芙美子。既に痛みは治まっていたが、意識もしっかりしていたが、いつもの発作より強かったのもあり、時間が長かったのもあり、心配して念のために医者が呼ばれる。そうしてそれを待つ間、まだあまり良くない顔色で、かすかに芙美子は、

「あの……私……別に……そういう訳じゃ……」

 発作の原因が、先程の話ではないことを、しどろもどろに言い訳しようとする。だが、柊馬に対する彼女の気遣いが、逆に彼にとって、心を逆撫でする言葉であったらしく、

「言い訳はいい!」

 思わずといったよう、そう声を荒げてくる。

 それに肩をすくめ、あれしきの出来事で何故? と続く息切れに疑問を持ちながら、芙美子は医師を待ってゆくと……。やがてやってきた医師。早速芙美子は、診察、問診を受けてゆき、

「相変わらずの心雑音ですね……。不整脈もでています。恐らく胸痛は、弁膜症からきた狭心痛と思われますが……更に……。症状からみて……弁膜症が進行して、慢性の心不全を起こしているようで……」

 その言葉に、最近動悸や呼吸困難、だるさ等が出ていたことを思う芙美子。

 確かに、調子は悪くて……。

 それから医師は芙美子から更に問診をしてゆくと、難しい顔をして、

「うーん、しばらくは安静を心がけて、心臓に負担をかけないようにした方がいいですね。そう、ストレスを避け、日常生活も見直して。まあ、出来れば入院した方がいいのですが……。よろしかったら紹介状を書きますが」

 それにコクリとうなずく柊馬。そうしてその後のことは別室でと、柊馬は医師に退出を促し、二人は部屋から出てゆくと……。部屋に一人残され、それに少しほっとする芙美子。そして、上半身を起こし、もらった薬を飲んで、ぼんやりと目を暗い外の景色へと向けてゆくと……いつもと代わり映えのしない風景。だが、しばらくして、その窓の外にいつもとは違う、異質なるモノが現れて……。そう、我が家から、隣の家の方に向って歩いてゆく人影が見えたのだ。それは、どこか怒りを込めたような足取りであり、その足取りのままその人物は隣の家の門をくぐり、家の扉をドンドンと叩いてゆき……。

「あ……」

 あのシルエット、そう、あれは柊馬だった。

 いけない……いけない……。

 何か不吉なことが起こるような気がして、芙美子は背筋に冷や汗が流れる。そうして、まだ完全に良くなっていない体に鞭を打つよう、よろよろとベッドから起き上がると……、

 彼を引き戻すべく、その場から駆け出す芙美子。

 いけない、いけない、いけない!!

 そう、そしてそれから……。それから……。

「あ……」

 全てを思い出して、彩花は言葉を無くす。そして、

「いけない……いけない……」

 現実にも、思わず声が出てしまう彩花。

 それに祥は、

「どうした……の?」

 ボールと犬の行方に夢中になっていた祥であったから、彩花のその異変に最初は気がついておらず……。だが、不意にもれたその呟き、流石にそれで祥も彩花の様子に気付き、一体どうしたんだと、訳が分からずそう問うてくる。すると、

「ああああ!!」

 絶望したようなうめき声を上げる彩花。そうして、

 あれは……私だ。私本人だったんだ。そうして、そうしてあれから……。

 不意に顔を上げ、祥の顔を見つめる彩花。

 彼は……佑さん。全く、覚えてないみたいだけど。

 それから柊馬さん。彼は……。

「あああ……」

 思わず声をださずにはいられない。そうして、堪えきれぬ声と共に、彩花は涙を流すと、

 お兄ちゃん!

 そう、あれは……柊馬は……兄、海斗だった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!

 今までの自分を思い出し、思わずこぼれてしまうその思い。そして、

 恐らく、兄は全てを思い出している。

 不思議に思っていた今までの言動も、これで全て辻褄が会う。それにあの日記だって!

 そう、彼は、兄でありながら、兄ではなかったのだ。

 何も知らずにいた自分に、無知だった自分に、申し訳ない気持ちになりながら、彩花はひたすら贖罪の言葉を呟き続ける。

 そうして思い出す、祥に関する詳しい資料。なにやら訳のわからないことが色々書いてあったが……。

 記憶に残る断片から、もしや……という気持ちが彩花の胸の内に頭をもたげてくる。

 もしや、兄が何かをやろうとしているのなら……。

 そうして、恐る恐るといったよう、彩花は顔を上げ、困惑の祥の顔を覗き見る。それは懐かしい、もう二度と会うことはないだろうと思っていた人の顔。それに彩花は胸の切なさが更に倍加したように感じながら、あの頃の恋心を思い出し、思いっきり胸の内の思いを告げてしまいたい気持ちになる。だが、それは出来ないのだ。そう、たとえそうしても、何も覚えていない彼、きっとただ戸惑うだけだろうから……。

 そうして、彩花は思わずといったよう、ハンバーガーを手にしたまま、祥の手の上に自分の手を重ねると、

「ゴメンね、大事な、ものすごく大事な用事が出来てしまったの。また今度……もしまた会ってくれるなら、映画は今度観よう」

「え……あ、う……ん」

 突然な、あまりに突然な、また勢いのある彩花の言葉に、うなずかざるをえないといった感じの祥。だが、それでも一体何が何だかと、起こったことが分からずにいると……。

 食べかけのハンバーガーを袋にしまい、脇に置いてあったバッグに手をかける彩花。そして、

「じゃあ、本当にゴメン。また今度ね!」

 そのバッグを手に、慌ててそこから去っていったのだった。

 それは、本当に慌しいもので……。  

 な……何なんだ?

 ポツリそこに残された祥、訳が分からずそう思う。

 そして、いまだ何が何だか分からず、その場にたたずんだまま、彩花の後ろ姿をただ呆然と見つめるばかりの祥なのであった。

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