第二部 第十六章 再び、夢
そして夜。彩花はベッドに入って就寝すると、
またも見る、鮮明な夢。
そう、あの日記に関係のある……。
今回のそれは、芙美子が食卓の席に座り、あの男性、佑と共に楽しげに夕食をとっているところだった。
そして彩花は、またも芙美子の中に入っていて……やはりこの前と同じように、実に心浮かれた彼女の感情が伝わってくる。
だが……。
そう、じわり、じわりとあの時の訪れが、近づいているのを彩花は感じていた。この……楽しいひと時の終焉を示す、日記に書いてあったあの時が。
いけない、駄目だよ。そう心で思っても、それは彼女には届かない。そうして何もできぬまま、夢は夢らしく、現実とは違って、色々場面が切り替わり……。
ある時は、佑に会えなくて心寂しくしている時、ある時は、二階の窓から彼の姿をドキドキしながらそっと見守っている時、ある時は、二人楽しくおしゃべりをしてお茶など飲んでいたりする時……。彼女にとって、ただただ至福、といっていい時だった。そうして、しばしそんな時が過ぎると、
「今晩、僕のうちに夕食でもいかがですか? 料理人が新しく変わったんですよ。その腕の披露ということで」
その言葉に、彩花はドキリ、とした。それはまさしく、あの日記と同じような展開だったから。そして、もしかして……と思う。もしかして、あの時がとうとうやってきたのかと。
いっちゃ駄目、駄目だよ!
そう思っていても、やはり心届かず、あの日記どおり、芙美子は、
「はい、是非」と返事をする。
そう、これが二人の、最後の晩餐になるのか、どうなのか、日記の続きを読んでない彩花には分からなかったが、この先最悪の事態が待っていることだけは、流石に彼女にも確実に分かった。だが、芙美子の中にいるだけの彩花には、これ以上どうすることも出来ず、目を、耳を塞ぎたい気持ちになりながら、ただ成り行きを見守るばかりで……。
やがて夜になり、少しおしゃれをして出かけてゆく彼女。その姿に彩花は心が痛み……。そうして彼と顔を合わせて、にこやかに挨拶する彼女。その姿にも、彩花は心が痛み……。
どんな姿にもしくしくと、彩花の胸は痛んでゆくと、とうとうといったよう、始まるのは二人の夕食で……。食卓の席につき、楽しく歓談しながら食事を摂ってゆく彼女。近づくあの時に、彩花の胸はどんどん苦しくなってきて……。
だが……二階堂佑、確かに魅力的な男性だった。年の頃は二十代半ば位か、やはり夢の中で見た、芙美子の旦那さんと大体同じ位の年齢のように思えた。そして、彩花自身どちらが好みかと尋ねられれば、趣味が似ているのだろうか、やはり旦那さんより彼に惹かれるものを感じ……いや、彼女の旦那さんに魅力がないという訳では決してないのだ。やさしいし、何より彼女を心から愛しているということが、見ていてひしひしと伝わってくる。だが、それでもやはり……。
そうして、佑の顔をまじまじと見つめてゆくと、どこかで彼を見たことがあるような感覚に、彩花はとらわれていって……。
そう、その屈託のない笑顔、話し方、仕草、話題。芙美子と一緒に、その会話に聞き入ってゆくうちに、やがて彩花は……。
ああ、そうか。
そうして彩花は納得する。また、自分が彼を魅力的に思った理由も。
そう、彼はあの人に似ているのだ。あの人……。
そう、柚月祥に……。
顔が、ではない。何となく雰囲気が、である。
それに不思議に思いながら、何故? と問い掛けていると、やがて夕食が終わり……。
始まるは食後の歓談。そう、
「前の料理人も良かったけど、今回の料理人もまあまあだね」だの。
「また機会があったら、食べにいらしてください」だの。
また、そんな佑の問い掛けに、快く答えてゆく芙美子であったから……。
彩花は気が気でなかった。早く切り上げて、家に戻りなよ! と声に出して叫びたかった。だが、その思い虚しく、時は楽しいおしゃべりと共に過ぎてゆき……。
そうして、この家にきてから何時間経っただろうか、もう、十時を回った辺りでようやく芙美子は退出の意を示してゆき……。そう、席から立ち上がり、帰り支度をはじめ……。それに、彩花は祈りたい気持ちになる。どうか、どうか、夢では日記と同じにならないでください、彼女の幸せを取り上げないでください、と。
それから芙美子は玄関先まで佑に見送ってもらうと、楽しかっただろう食事の余韻にひたりながら、上機嫌で家へと帰っていった。それは恐らくほんの一分とか二分とかの時間。隣同士であるから、道行の心配もなく……。
そう、すぐに自宅の門は近づいてきて……。
足取りも軽やかに芙美子はその門の前に到着すると、それを開け、玄関の扉も開け、家の中へと入る。すると、その物音を聞いてか、慌てて出迎えにきた使用人。だが、その使用人の表情は、どこか強張ったものになっていて……。それに少し訝しげに思った芙美子だったが、そのまま構わず廊下をゆくと……。
居間に入った途端、彼女の体が固まる。そう、チラリ顔を出したそこに、彼女が予想もしていなかった人物がいたからだ。それは当然……、
「柊馬さん……」
そう、彼女の旦那さんであった。
彼は怒りに燃えた目で彼女を見ており、いつものやさしさはどこへか、とげとげしい口調で、
「こんな時間に、一体どこへ行っていた!」
ああ、やはり……と、彩花は絶望的な気持ちになる。すると、その気持ちに呼応するよう、彼女の心も衝撃から絶望へと変わってゆき、
「あ……あの……食事に……ちょっと、外へ……」
「どこへ食事だ!」
それに、正直に言っていいものかどうか、戸惑って口ごもる彼女がいる。すると、それを見て柊馬はため息をつき、
「言えないのか? 言えないようなことをしてきたのか? 隣で!」
使用人か誰かに聞いたのか、どうやら、最初からどこへ行っていたか分かっての言葉だったらしい。ひっかけた、というか……正直に彼女がそれを言うか、確かめたようで……。それに、芙美子は更に衝撃を受けたような表情をすると、
「違います! ただ……夕食をご馳走になってきただけです! 誤解されてはと思って……つい……」
だが、柊馬の怒りは収まらない。
「夕食だけでこんな時間か。随分長い夕食だな。全く、病気療養の身だというのに!」
冷笑しているが、腹の中は熱く煮えたぎっているのだろう、握るこぶしは震えている。それを見て芙美子は、
「違います、違います、誤解です。柊馬さん、信じて……」
怒り心頭に来ている柊馬、とても彼女を許すという雰囲気ではなく……。
だが、こんな状況でなんだが、そんな彼に、またも誰かに似ているような感覚に襲われる彩花。そして、ふと冷静になって、誰だろうと、頭を悩ませていると……。
あ、そうだ。
そう、日記を読んでいた現場を見てしまった、あの兄に、何となく通じるものを感じたのだ。怒りの種類は違えど、怒り方がどこか似通ったものを感じるような……。
「お前が心配で早くきてみれば、亭主がいないのをいいことに、このざまか!」
「すみません。すみません。でも……でも違うんです。柊馬さんが思っているようなことは……」
「うるさい! この時間のこの状態で、何を信じろというんだ!」
目の前では、相変わらず信じて、信じないの、言い争いが続いている。それは修羅場といっていい状態で、そんな最悪の事態がしばしの間過ぎゆくと、もう耐えられないといったように、芙美子はその場からから駆け出してゆき……。
馬鹿だ、私は馬鹿だ!
そして、そのまま自室に戻った芙美子、そこでひたすら涙にくれ……。
その姿を見て、彩花はああ、と思う。
ああ、そうして、あの日記へと続くのだ、と。
そう、ごめんなさいで埋め尽くされた、あの涙の日記へと。
そして、その続きを読んでいない彩花、一体これからどうなるのだろうと、どこか心配な気持ちで成り行きを見守ろうとすると、
またも、グラグラと揺れだす辺りの風景。そうして、グルグルとマーブル模様描きながら、周囲は段々暗くなってゆき、それと共に乗り物酔いになったよう、彩花はフラフラと気持ちが悪くなってゆくと、
「わっ!」
現実での気持ち悪さも伴って、彩花はハッと目が覚める。そう、あれからどこへ移動するのだろうと思っていた彩花だったが……まさか現実に戻ってくるとは。
だが、それにしてもまたもやの鮮明すぎる夢であった。目覚めた今でも、大体の内容を思い浮かべることが出来る。
そうして、
柚月君……お兄ちゃん……。
一体あの感覚はなんだったのだろうと、彩花は不思議に思う。そう、何故か似ていると思ったあの瞬間。まあ、夢であるから、夢の中での不思議で片付けられるといえば片付けられるだろう。だが……。
どうにも気になる彩花なのであった。
そうして、色々ぐだぐだと考えをめぐらそうと彩花はするが……。
「あっ!」
そう、そんなことしている場合ではない、今日は大事な一日なのであった! それを思い出して、彩花は慌ててサイドテーブルにある時計を見つめてゆくと、
いけない!
起きようと思っていた時間はとうに過ぎ、急いで仕度をしても、今からでは待ち合わせに間に合わない時刻になっていた。それに、
目覚ましはどうなっているのよ!
と、時計の裏を見ると、かけ忘れたのか、寝ぼけて切ってしまったのか、目覚ましのスイッチはオフになっており……。
あー、もう!
とりあえず、慌てて携帯を手にする彩花。そうして、
『ごめんなさい! 寝坊してしまいました! 二、三十分程遅れそうです!』
こんな大事な日になんて失態を! 自分を殴ってやりたい気持ちになりながら、彩花は祥にメールを送る。
そうして慌てて出かける仕度に取り掛かると、すぐに着信の音楽が鳴る。
見てみれば、祥からの返信のメールで、
『了解! じゃあ、待ち合わせ時間を三十分ずらそう』
どうやら、まだ彼は家を出ていなかったらしい。それに、ほんの少しだけほっとした気持ちになりながら、
『ありがとう! そうしてください! ほんと、助かります!』
そうメールを打つ。急いでいるので、文の体裁とか気にしている暇はない。だが、どうやらこれで慌てず、ちゃんと準備する時間を確保することが出来たようで……。そして、彩花は自身を落ち着けるよう、大きく一つ呼吸をすると、
よし、頑張るぞ!
よそ行きの可愛らしいワンピースを取り出し、それを鏡に当て、勝負! のスタイルを作り出すべく、化粧やらなにやら、気合を入れて準備していったのだった。