第二部 第十三章 夢
そうして、どこか気まずい中で二人夕食を終えると、食器の片付けやら何やらも終え、少しゆっくりテレビなんか見た後、彩花は寝床へと入った。
そこで思う、あの時からの海斗の態度。やはり、どこがギクシャクしているような気がして……。
たった一人といっていい肉親。なので、こんな雰囲気になってしまうのは悲しいことであって……。それに彩花はチクリ胸が痛いような思いをしながら、そしてまた、きっと時間が経てば元に戻るよと自分に言い聞かせながら、やがて彼女は眠りに入ってゆき、そうして……。
一度入った深い眠りから、しばらくして徐々にそれは浅くなり……やがて彩花は、夢の中の住人となっていた。そこは、べったりの塗りこめられたような真っ暗間で、自分が上を向いているのか、下を向いているのか、近くに物はあるのかどうか、それすらもすぐには分からない、異質な空間であった。そこで彩花は、どうやら一人ぼっちらしいことを察すると、次第にその状況に不安を覚え……。だが、感じる感覚から、なんとか足は地面を捉えているらしいことを彩花は確認すると、怯えながらも、前へと彼女は歩いてゆき……。すると、
「うわっ!」
不意に奥の方に見えた光、それがパッとこちらに走ってきて……。あまりの眩しさに思わず目に手を当てる彩花。そして、今度は何だと突然のそれに驚きながら、また、これは一体何の光なのかと訝しく思いながら、彩花はその光のシャワーが収まるのを待つ。するとやがて、だんだんと辺りの光が薄くなり、自然な明るさになったように感じると、恐る恐るその手を退けてゆき……。
あ……れ……。
すると、そこに広がっていたのは、レトロな造りの、木造の洋風の屋敷の中だった。淡いグリーンの壁紙が張られた小奇麗な部屋で、奥にはこれもまたレトロチックな窓があり、その窓辺には、大正ロマンを感じさせる、上質で洒落た着物を着た、一人の若い女性が立っていて……。
恐らく、年齢は二十歳前後位だろう、たたずむ窓辺から外に目をやり、どこか微笑ましげな表情を浮かべているところから、その女性、どうやら外にある何かを見つめているようで……。
それに彩花はなんだろうと思い、どんどん近づいていってみると、
どうやらこの部屋は二階にあるらしい、目を向けた窓の外には、高い位置からの風景が広がっており、隣の屋敷の中までも見渡すことができた。それは、この屋敷と同じように、洋風のたたずまいをしたもので、庭に広い芝をもっており……。
そしてその庭に、洋装の一人の青年が、大型の犬を連れボールで遊んでいた。
そう、投げてボールをとりにいかせてその手に戻し、また投げて取りにいかせてはその手に戻し……。そうする度、もらえるご褒美の食べ物と愛撫に喜んで、犬はもっと、もっととせがむよう尻尾なんかも振っている。
そう、どうやら女性は、この光景を見つめているようだった。その表所は微笑ましげで、また嬉しそうで……。
それはどこかで見た光景。否、見たというより……。そう、読んだ日記のあの文が思い返される。まだ日記の、始めの方の……。
そう、恐らくこの女性は、あの文章を書いた人に違いない。
彩花は確信してゆくが……。
どうやら、女性は彩花のことは見えてないようであった。こんなに近くに寄っているというのに、気がつく様子もなく、ひたすら外を見遣っていたのだから。
退屈だった日々からの解放、政略結婚後の、初めての恋。それを知る彩花は胸がキュッと締め付けられるような思いがして……。
そうして彩花は、彼女に寄り添うよう、その光景を見つめてゆくと、
不意に視界がグニャリと曲がる。せっかく地に足が着いたような場所にやってこれたというのに、またもおかしく……。そうして辺りの景色は、やがてグルグルとマーブル模様を描いてゆき……。
その光景に、どこか乗り物酔いのようになって、思わず目を手で押さえる彩花。そうして、フラフラになりながら、しばしそうしていると……。
もう、大丈夫かな……。
まだ少しふらつきが残ったまま、その手を退けてゆく彩花。
すると、今度は……、
屋敷の、外?
いや、外と言うか……おそらく先程のあの屋敷なのだろう、その一階の大きな窓からテラスのようなものが突き出しており、そこで彩花は……。
あれ?
ふと目に入った衣服。それがいつものものではなく、レトロな大正風の着物になっており、彩花は思わず困惑する。そうして、目の前には紅茶なんかが置いてあったりしたから、戸惑いは余計大きくなり……。一体これはどういうことだと、考えをまとめてゆくと、どうやら自分は屋敷のテラスに備え付けられていたテーブルでお茶をしていたらしく……。
そう、誰かの中に入り……。
チラリチラリ向くその者の視線は、生垣の向うに見えるあの窓から見えた隣の屋敷。それから、庭の剪定をしている、あの男性の姿。
どうやらあの女性の中に彩花は入ってしまったようだった。ドキドキしながら彼の姿を見つめているところから、それがわかる。そして、
使用人にやらせればいいのに……。
別荘を持っているくらいだから、階層は上流の者だろう。ならば……使用人くらいはいるはず。だが、どこか楽しそうにしている彼を見て、また、以前犬と戯れていたのを思い出して、もしかしたら、体を動かすのが好きなのかもしれない……と、中に入ってしまったからか、彼女のそんな思いまでが、彩花の胸に伝わってきて……。
そして、これも相変わらず伝わってくる、彼女の彼の存在へのドキドキ。ゆったりくつろぎ、涼しげな表情で表向きお茶なんぞしているが……。
そうして、再び女性がカップに口をつけた時、
「こんにちは」
不意にかけられた言葉に、女性はドキリとする。
そうして声の方へと見遣れば、そこにはラフな格好に剪定ばさみを持ったあの人が立っていて……。いつの間にかこちらに来ていたらしい。
「お隣、新しい人が入ったんですね。以前来た時は空き家だったものだから。ここへは短期滞在ですか?」
するとそれに女性は、
「いえ……病気療養なので、長期になると……」
もしかして、これを言ったら相手に気を使わせてしまうかもしれない、そんな思いからか、どこかもじもじと、口ごもるようにそう言ってゆく。すると案の定、その言葉に男性は心配げな顔になり、
「病気……なんですか。それは大変ですね」
やっぱりと言っていい気遣いに、身が縮むような思いになる女性。だが、その男性は、
「でも……」
と、そこでその男性は言葉を止め、にっこりと微笑むと、
「不謹慎な言い方かもしれませんが、隣に人が入ってくれて、嬉しいですよ。僕はここが好きで、よく滞在するのですが、どうにも知り合いが少なくて。今回も長期滞在になると思いますが、いい友人になってくれると、いいですね」
それは、彼女にとってはなんとも嬉しい言葉。なので、思わず舞い上がったような気持ちになって、
「あ……はい。是非……」
すると再び、彼女の言葉にその男性はニコリと微笑み、
「僕の名前は二階堂佑です。家は東京にあるのですが……さっきも言いましたが、ここが好きで。また家が地主なので、道楽息子をさせてもらってます」
道楽息子、の所で、思わず笑い声が出る彼女。彼女が見ていた限り、確かに彼の生活は、自由気ままに暮らす道楽息子そのもの、といった感じだったから。だが、これで彼は一体何をやっている人なのだろうという、常々不思議にも思っていたことが解決して……。
「私は久門芙美子です。私も家は東京なのですが……もっと空気のいいところでの治療がいいと、こちらにやってきました。夫は東京で会社の経営があるので、私一人でこちらに来ています」
微笑み返す芙美子。
するとそれに、佑は成程とうなずいて、
「ああ、結婚なさってるんですね。独り身の僕にとってはうらやましい限りだ。きっと素敵な旦那さんなんでしょうね」
人の妻、今は少しそれを忘れていたかった芙美子。なので、少し困惑したような表情を浮かべてゆくと……。
確かに、やさしくていい夫。だが……。
「ええ、そうなんだと……思います」
つい、曖昧に誤魔化していってしまう。
だが、そんな気持ちなど何も知らない佑は、その言葉を聞いて、やっぱり、といったように、邪気のない笑みを返してゆくと……。
「いや、それにしても今日はお話ができてよかったです。そのうちまた、何かの機会がありましたら」
そう言って振り返り、その場から去ってゆく。
そう、一歩二歩と、彼の背中は次第に遠ざかり……。それに芙美子は、どこかさびしい思いを抱いて、
「あの……」
つい、そう呼び止めてしまう。
「あの……ご迷惑でなければ……一緒にお茶でもどうです? 一人ではちょっと、味気なくて」
するとそれに佑は振り返り、困惑した表情をして、
「いえ……僕は大変嬉しいんですが……」
人妻一人の家にお邪魔するのはいかがなものと思ったのだろう、そんな言葉をこぼしてくる。だが、芙美子は構わず、
「フフフ、使用人達もいますし、別に密会という訳ではないのですから……。美味しいクッキーも持ってこさせますよ。隣人同士のご挨拶ということで、いかがです?」
するとそれに佑は、ならばと屈託もなく、遠慮のようなものも見せず、ニコリと笑って。
「じゃあ、ご馳走になってしまおうかな」
芙美子の胸の高まりが、どんどん大きくなっているのが、彩花には分かった。
そうしてその思いのまま、彼に玄関に回ってもらってテラスに案内すると……。
嬉しい、楽しい、嬉しい、楽しい。
心の底から弾んだ気持ちで、彼との会話が始まっていったのだった。
そして思うは……。
楽しい人。好ましい人。
どんどん彼に好印象を抱いてゆくのを感じる芙美子であって……。
そうして、
「こんなにご馳走になっちゃ、僕もお返しをしないといけないですね。そのうち、僕のうちの夕食に招待しますよ」
そんな言葉が佑の口からこぼれたのであった。
そう、それは彼にとってたわいもない言葉なのかもしれない。だが、芙美子にとっては……。
何もない、退屈で縛られた生活。
それが一変しそうな予感がして、芙美子の胸は最大限にときめく。そうして、
いつだろういつだろう、
そんな期待に胸をワクワクさせてゆく芙美子。彩花自身も彼女の気持ちに共感して、思わず一緒に胸をワクワクさせてゆくと、
途端に暗くなる、あたりの景色。そう、最初にいた、あの漆黒の闇のように。光も何も消え失せたその場で、再び彩花は不安な気持ちになると、
「誰か! 誰かいないの! 助けて! ここから出して!」
あらん限りの声で、そう叫んでゆく。すると、
「はっ!」
何かに驚くような感じで、彩花は目覚め、思わず勢いよく起き上がる。そして、
「夢……」
あまりに鮮明だったその夢に、まるで現実にそこにいたような気分になり、彩花は不思議な感覚にとらわれる。そう、まるで今でも、現実とごっちゃになっているような……。
だが夢、ただの夢、なのだ。あれは。
悪夢ではなかったのだが、何故かどこかほっとしたような気持ちになると、夢……夢……と、言い聞かせながら、今一度そのことについて考えてみる。そしてまず思ったのが、
そう、あれはあの日記の出来事だ。
あれを読んでしまったがために、夢となって出てきてしまったのだ。
だが……何故か気になるあの夢、あの二人。
まるで、自分自身にあったことのように感じて……。
だがそれに、ありえない、ありえないと否定すると、今は何時かと、サイドテーブルにある時計に彩花は手を伸ばしてゆく。すると、時間はまだ六時ちょっと過ぎた頃。起きるには少し早い時間だったが、流石にもう眠る気も起きず、彩花はベッドから抜け出し、窓にかかったカーテンを開けてゆく。すると、
うわっ!
眩しい、夏の太陽の光が、彩花の目に突き刺さる。
そう、それは、気になること、落ち込むこと、全てを吹き飛ばしてしまいそうな明るい太陽で……。
それを感じて彩花は、
「よしっ、今日も頑張るぞー!」
とりあえずあの夢は置いておき、気持ちは先へ先へと向け、
今日は柚月君がきてくれますように!
それを願って、そう気合を入れてゆくのであった。