第二部 第十章 行動
そうして、女性霊にも海斗にも、鬱々とした気持ちを抱かせる、漆黒の一夜が過ぎてゆくと……。
更に二人を引き合わせるよう、旦那様は尽力するのです……。
海斗の頭の中に昨夜の言葉がぐるぐる回る。
表面では面白くない顔をしながら、陰で画策し……。
一体どうすればいいのか、海斗にはさっぱり分からなかった。やるのならば、日常の中で、さりげなく、だろうが……。
だが、元々二人に接点はないのだった。図書館は単なる偶然、あえて接点と言うのなら、この自分ぐらいであり……。
やはり……俺が動かないと駄目か……。
それは、朝のひと時、ダイニングで海斗は朝刊を読み、背後の台所では朝食を作る彩花の姿がある。
だが、新聞に目を通しながらも、その思いが渦巻いて、海斗の頭に文字は入ってこず……。そして、
「はぁ」
と一つため息をついて新聞をテーブルの上に置くと、
「彩花……」
海斗のその呼びかけに、彩花はレタスをちぎる手を休めると、
「ん?」
海斗の方へと振り返る。すると、
「陸上部の練習……見に来てみるか?」
海斗の口からもれたその言葉、それに彩花は一瞬信じられないよう唖然とし……そしてすぐに、一転して心の底から嬉しいように満面の笑みを浮かべると、
「ほんと? 本当に!」
「ああ。奴についてあーだこーだ質問攻めにあうんなら、自分で聞きにいってくれた方が、俺は楽だ」
あくまで面白くない様子で、不機嫌に海斗はそう言ってくる。
そう、どう頭を悩ませても……最初の切っ掛けが他に思い当たらない。少しあからさまだし、過去の再現にもほど遠いし、あまり良い方法とは思えないのだが……他に思い当たらないのなら、最初はいたし方ないだろうと、海斗は諦める。
すると、彩花は、
「お兄ちゃん、ありがとう!」
思いがけず、祥に会えるだろうことに、どこか舞い上がったようになりながら、ひたすら感謝の気持ちを言葉に表す。そして、
「ああ、柚月君の練習姿見られるんだ……」
嬉しいなぁ……などと呟きながら、気持ちは既に彼らの練習場へと向かっているようだった。そして、その気持ちは更に大きく膨らみ。
「じゃあ私、差し入れ作っちゃおうかな。みんな頑張って練習してるんだもんね」
その言葉に、苦笑いするしかない海斗。だが、それにも彩花は構わず、
「ねえ、部員って何人ぐらいいるのかな」
「う……ん、男女合わせて三十人ぐらいだが……、夏休みだからな、実際来るのはそれよりも少ないと思うぞ」
海斗の言葉に、そうか……と、考えた風になる彩花。そして、
「一体何を差し入れしようかな……。今から作るから、すぐに出来て、ちょこっとつまめるもの……かな?」
どうすべきかと、色々頭を悩ませてゆく。
それに海斗は自分の行いに唇を噛み締めたい思いになりながら、努めて平静を装っていると……。
「今日は練習、午後からだよね」
「ああ、一時から五時ぐらいまでだ」
すると、彩花は、よし、と決意したようにこぶしを握ると、今からならまだ間に合うぞ、とつぶやき、
「一人じゃ心細いから、お兄ちゃん、一緒に行こうね!」
無邪気な妹、前世の記憶のない……かつての妻。
その邪気の無い彩花の言葉に、海斗は素直に笑って返事をすることは出来ず、
「ああ……」
抑揚無く、事務的にそう呟くと、再び新聞へと目を落としてゆくのであった。
そして、一方では……。
あああ……今日も暑い……。
夏休みももう終盤だというのに、相も変らぬこの暑さ。思わず体が溶けそうになる思いをしながら、修子は……。
そう、まだ冷房は故障中の、蒸し風呂状態の我が家から抜け出して、修子は外へとやってきたのだった、が……。
今日も、部活……。
そう、その先に待っているのは部活動。更なる暑さ、炎天下の中での練習であり……。
もう、嫌になるー!
だが、心で叫んでも、どうにもならない。
このままどこか涼しい場所に避難したい気持ちもあったのだが、流石にそうもいかず、仕方なしに修子は学校にやってくると……。
指定の教室でトレーニングウェアに着替え、給水用の水筒やらタオルやら靴やらを手に、教室を出る。そしてしばらく廊下をゆくと、下駄箱で靴に履き替えている祥に出会い……。
「ああ、丁度良かった。お前に用事があったから」
すると、それに、ん? といった疑問顔で修子を見上げる祥。だが、修子はそのまま構わず彼の隣に座り、呪文と共にぺたり霊符を彼に貼り付けると、
「祖父に、話したから、昨日のこと全部。で、お前についている悪霊について見て欲しいって言ったら、明々後日ならいいって。お前、来るか?」
ランニングシューズを履きながらそう言ってくる。すると、
「ありがたい! 是非、是非見て欲しいよ。もしかしたら、その場で何とかしてくれるかも……しれないんだろ」
「うーん……除霊できそうなら……だがな。祖父の方が霊能力、特に退魔の力は強いから、もしかしたら……。だが、あまり期待するなよ」
だが、期待するなといわれても、期待してしまうのが人間の性というもの。類にもれず祥もそのようで……分かった分かった、と言いつつも嬉しさは隠せない表情をして、
「明々後日か、部活は休まなきゃだなー。ああ、でも、もしかしたらこれで……」
そんなことをブツブツ言ってくる。それに修子ははぁ、とため息をつくと、ぺりっと霊符を剥がし、
「この脳天気、私は先にゆくぞ」
さっさと靴を履き終えて、立ち上がる修子。それに祥も慌てて立ち上がり、
「待てよ、俺も履き終わったから」
そうして、二人はそのまま一緒に校庭の方まで出てゆくと、
「あ……」
「あれ……」
二人して、ほぼ同時に疑問の声を上げる。そう、校庭には既に何人かの部員と、顧問がきていて……。まあ、それはいい。それ以外に、私服の、見慣れない人間の姿がその近くにいたものだから……いや、見慣れなくはない、既に昨日、会ってはいたのが……。だがそれでも、ここにいる違和感はぬぐえないモノで……。そう、それは、
「彩花ちゃん……」
驚いたように、祥はそう呟いてゆく。すると、
「ほほう、中々積極的な娘らしいな。お前を追いかけ、早速ここに顔を出してくるとは」
好奇心ありあり……というか、からかい半分でそう修子が言ってくる。それに祥は困ったような表情をしながら、
「んな訳ないよ。なんか、黛先生に頼まれたんだろ。でなかったら、何か別の興味があって、とか」
修子の言葉を否定してくる。だが……。
チラリ、こちらを見遣ってくる彩花。すると、恐らく祥達の姿が目に入ったのだろう、探し物をようやく見つけたというような表情をして、彼女はこちらに駆け寄ってくる。そして、
「良かった、今日は練習に参加なんですね。くるかな、どうかなって思ってたんですけど」
先程の修子の言葉が頭を過り、流石にもしやの気持ちになる祥。そして、
「えー、どうしてここに? 先生のお手伝いか何かで……」
すると、それに彩花はううんと首を横に振り、
「お兄ちゃんが、練習見にくるか? って、言ったから。だから、せっかくだし、祥君にも会えるかもしれないから……」
そこで照れたように彩花はフフフと笑い、
「見にきちゃった」
そして、肩に下げていた鞄を指差し、
「差し入れも、持ってきたんですよ。良かったらあとで、是非!」
「う……うん。ありがとう……」
やはりこれは……と、修子の言葉を否定できなくなる祥。勿論、人から好意を寄せられるのは嫌な事ではないが、それでも戸惑ってしまう積極的な態度を前にして、祥は困惑の表情で傍らの修子を見ると……。
フフン、
とでも言いたげに、その光景を見つめている修子。勝った、ともとれるし、ホラ言った通りだろ、とも取れるし、そんな表情に祥は少しカチンときていると、
「あ……」
修子を見つめる、祥の視線に気がつき、そして、その視線の先の人物が昨日も一緒にいた人とも気がついたのだろう、申し訳ないような表情を、彩花はして、
「あ……あの、もしかして、彼女、ですか? ごめんなさい、私ったら差し出がましいことばかりして……」
すると、それに修子はいやいやと首を横に振り、彩花を見つめてにっこりすると、
「お嬢さん、心配することは、ない。私はただの友人だから。存分に彼にアプローチしてくれたまえ」
アプローチという言葉に、思わず顔を真っ赤にする彩花。男性なら、思わずくらっときてしまいそうな愛らしい表情だが……。
だが、女性である修子はそれにも冷静で、
うーん、私とは正反対な少女だな……。奴には、お似合いな感じはするが……。
そう心で思いながら、後は二人でどうぞとでも言わんばかりに、その場から修子は立ち去っていったのであった。
それから次の日も、また次の日も、彩花は差し入れを手に練習の見学に来たのであった。
そう、せっかくのチャンス、一回だけで終わらせるなんて、という気持ちから、そしてまた、あの時のように、図書館で待ちぼうけを食らうだけになってしまうなら、という気持ちから、夏休みが終わるまでいい? と、海斗に彩花が頼んだのである。もう夏休みも終盤、練習もあと何日かしかなかったが、海斗もそういったのだが、それでもいいと、彩花はこうして毎日通ってきて……。
「健気だなぁ」
自分らの練習を見学している彩花を遠目で見つめ、修子はつくづくそう言う。すると、隣にいた祥は、
「でも、こっちはちょっと複雑……というか、困惑、というか……。あの先生の妹だし……」
「なにを、贅沢なことを。毎回毎回差し入れまでしてくれて」
「そうだけど……しかもそれ、すっげー旨いんだけど……」
そう、明らかに祥目的なのが見え見えの彼女、うらやましいなぁーとか、彼女なのか? とか、色々他の部員達からからかわれていたりしたものだから……。
だが、恋心とか、そういったものはまだよく分からなかった祥、どうにも心中複雑になってしまって、ひたすら困惑してゆくばかりで……。
「まぁ、あの差し入れには、部員一同喜んでいる。結果的にめでたしめでたしになるか、残念に終わるか、そこは分からないが、彼女がそうしたくてやってるんなら、これでいいんじゃないか?」
なんとも無責任は修子の言葉である。
それに祥は、思わず、
「そっちは気楽でいいよなぁ……」
そう言って、ああ、と困ったように頭を抱えてゆくのだった。