第二部 第八章 再会
暮れた空。そう、もう大分太陽は西に傾いており、窓の外を見遣れば、夕暮れのオレンジ色の空が、街を覆うよう、大きく天上に広がっている。そして一方の校舎では……。迫るは夕闇。既に辺りは薄暗くなっており、それに急かされるよう、そんな校舎の廊下を、二人は急ぎ足で歩いてゆく。そしてやがて……そう、二階から階段を下りて一階の廊下へとゆき、更に歩いて職員、来賓用出入り口付近にくると、
「あ……」
思わず声を上げる二人。
そう、なんとそこには黛海斗がいたのである。彼も帰りなのだろうか、手に鞄を持ち、職員、来賓用玄関へと向って、反対側から歩いてきており……。
「おい、お前ら、まだいたのか? 練習終わってから大分経つのに」
それに、先程の霊の話を思い出して、二人は思わず身構える。だが、当然それははたから見たら不自然なだけの行為であって……。なので、まずそれに気づいた修子、にっこりと邪気の無い笑みを浮かべ、
「私の、ランニングフォームについて、語り合ってたんですよ。ほら、私、最近伸び悩んでるんで」
そう、適当な話題を口にしてゆく。そして、まだどこか剣呑な眼差しをしている祥を腕で、
こらっ、
とでもいうよう突っついてゆくと、
「そ、そうなんです。なんか、色々悩んでたみたいで……」
それにハッとして、慌てて取り繕ってゆく祥。
そう、海斗が既にあの霊符の貼られた空白の時を知っているかは知らない。だが、知っていても知らなくても、こちらがどこまで内容を知っているか、相手に知られていない限り、知らんぷりをしなくてはいけないのだ。
きっと、今はお互い腹を探り合っているような状態。
ある意味、白々しいとも言える時が過ぎゆくが……。
「そうか。だが、もう流石に帰るんだろ。こんな時間だし」
向うもニコニコと微笑みながら、段々と彼らの方へと近づいてくる。するとそれに、
「はーい、今帰ろうとしていたんです!」
大きく手まで上げて、いい子ぶったようにそう言ってゆく修子。それは中々に大げさな仕草で、海斗もつられるよう笑みを浮かべ、更に進めた足で、職員、来賓用出入り口へと踏み入れてゆくと……、
「お兄ちゃん!」
少し高めの愛らしい女性の声が、どこからか不意に飛んでくる。それになんだと、修子と祥はそちらを見てみると……。
先を削いだセミロングの二人と同い年ぐらいの少女の姿が、玄関口にあったのだった。
だが、服は私服。お兄ちゃんと言って、そちらの方を向き、ニコニコしているところから、彼女はこの学校の生徒ではなく、彼の妹であることが知れ……。そう、それは、
「彩花……」
「よかった、まだいて……」
突然の彩花の登場に、驚いたように体を固まらせて、呆然と彼女の姿を見つめる海斗。だが、そんなことなど知らないよう、彼とは対照的に、相変わらず愛想よく、彩花はニコニコ微笑をもらしており……。そう、それは相反する空気が流れゆく場。共に流れる沈黙の……それに、いけない、と、海斗はハッと我に返ると、
「一体、どうして……」
疑問に思うのも確かだろう。どう考えても彼女にここにくる理由が思い浮ばなかったから。
だが、彩花はニコニコした表情のまま、
「ふふ、今日は外食にしようかな、って思って。この学校の近くに、素敵なイタリアンのお店がオープンしたんだって。帰りにどうかな、って思って」
「そうか……」
そういいながらも、どこか青ざめた表情をしている海斗。そして、チラリ、祥の方を見遣ると……。
修子と二人で、一体なんだと、興味深げに彩花を見ている姿が目に入る。そう、これは絶対あってはならない状況。なので、
早くここから彩花を遠ざけねば……。
真っ先に海斗が思い浮んだのはそれだった。そして海斗は、青ざめた表情のまま、どこかぎこちない笑みを浮かべると、
「分かった、今から行こう。丁度帰るところだったんだ」
そう言って彩花へと近づき、ここから連れてゆこうとする、が……。
「やったー! 今日はイタリアン! すっごい楽し……み……」
思わず上げた喜びの言葉。だが、その言葉の最後の方で、視線を感じたのかどうなのか、ふと、彩花は顔を少し右へ……つまり、修子と祥の方へと向けてゆき……、そして、
「あ……」
体が固まる彩花。そう、目に入ったのは、祥。会いたくて、会いたくて仕方がなかった祥が、思いもかけずそこにいたのだから。そして当然の如く、彩花は信じられないような表情をして、
「柚月……祥……君……」
だが、それに驚いたのは祥の方であった。自分としては見覚えのない少女に、まるで知っているかのように名前を呼ばれたのだから。そして、
「え……と……」
彼女のことをおぼえていなかった彼、一体どこで会ったっけと、記憶の中を探してゆく。すると、
「私、黛彩花です! あの……図書館で。ほら、踏み台を。あと、それから、コピーの申し込み用紙を落として、私が……」
彼女の顔は覚えていなかった祥。だが、出来事ははっきり覚えていたらしく、その言葉で思い出したよう、すぐにハッとした表情になる。
「ああ、崎谷藤次郎の「堕天使たちの夜」の子だ。コピーの申し込み用紙も君だったの?」
嬉しそうに、コクリとうなずく彩花。覚えていてもらえなかったのは残念だったが、全く記憶に無かった訳ではないことを知って、そして、これで今度こそ覚えてもらえたと思って。
しかも、崎谷藤次郎の「堕天使たちの夜」の子と彼は言ったのだ。
やっぱり彼はあれを借りたんだ、自分の言葉を参考にして!
そして更に、崎谷藤次郎の「堕天使たちの夜」の子、という印象で覚えていてくれたことに、彩花は尚嬉しくなりながら、
「ここの学校だったんですね。まさか……お兄ちゃんが教えてる学校だったなんて」
その言葉に祥もコクリうなずき。
「ほんと、偶然。俺もびっくりだよ。だけど……なんか、覚えてなくて、ゴメン」
それに彩花はううんと首を横に振り、何事かを言おうとしたその時、
「彩花、こいつと知り合いなのか?」
どこか険しい表情で、海斗が間に割って入ってくる。
すると、それに彩花は少し困ったような表情をし、
「知り合いって言うか……私が覚えていただけなんだけど……前にちょこっとだけ、お話したことがあるの。図書館で」
「ふ……ん」
それで最近図書館通いが多かったのかと、あまりに嬉しそうな彩花の表情から、邪推した考えが海斗の胸を占める。それは、明らかに面白くないといった思いの顔。そしてその通り、彼の胸の中にはどす黒い憎悪が渦巻いており……。だが、そんな気持ち、彩花は知らず、
「でも、ほんと偶然、お兄ちゃんの学校の生徒だっただなんて。お兄ちゃん、彼のこと知ってるの?」
明るい声で、無邪気にそんなことを海斗に聞いてくる。それに海斗は、皮肉なことだと胸に思いながら、冷たい笑みを浮かべ、
「……彼は陸上部の部員だよ。俺が顧問をやっている」
「わぁ、すごい! ほんとに偶然! じゃあお兄ちゃん、知っているどころじゃなくて、よく知っている、なんだね!」
全く、彩花の表現はあからさまであったから……、
運命なのか、これが運命なのか? 再び同じことが巡ろうとしているのか?
あまりに皮肉すぎる展開に、痛む胸を抑えて海斗は唇をかむ。そして、
「彩花、その店はオープンしたばかりなんだろ、予約はしてるのか?」
それに、ううん、と首を横に振る彩花。
「じゃあ、混んでるかもしれない、すぐに入れないかもしれない。早めに行った方がいいんじゃないか?」
いたたまれないよう、早くこの場から去るべくそう言ってゆく海斗であり……。
するとそれに、あ、そっか……と、今気がついたように口に手を当ててゆく彩花。だが、まだどこか名残惜しげで……、
「それじゃあ、これで」
そういいつつも、彩花はそこを立ち去らず、どこかもじもじしたように顔をうつむける。そしてしばしの時の後、決意したように顔を上げ、
「図書館にはよく行くんですか?」
そう、これでお別れして、またあの時のような思いはしたくない、ここは勇気を出さねばと、その気持ちで彩花は勢い込んでそう言ってゆく。
すると、それに祥は少し戸惑ったような表情をして、
「まぁ……時々。土、日で暇な時は……」
それに彩花は、土、日かぁ……と、呟いてゆくと、
「私、あそこでよく勉強してるんです。また、会うかもしれませんね。他にもおすすめの本とかありますんで、もし見つけたら、声、かけて下さい!」
本当は、メルアドとか電話番号とか、聞きたかった。だが、側には兄、他にも知らない女性なんかもいたりしたから……。とりあえずそれは堪えて、期待は再びの再会へと、仕方なく、本当に仕方なく先送りにしてゆく。
そうして、今度こそはとペコリと頭を下げて、行くことを促す兄に彩花は従おうとすると……、
「そうだ……」
ふと思い出したように、
「郷田弘の「解けないパズル」は面白かったですか?」
振り返ってそう、祥に問いかける。
すると、それに返事をするよう、にっこり笑って、指で小さく丸を作る祥。その仕草が、男性には失礼なのかもしれないが、何故だか可愛らしく感じられる彩花であって……。思わず胸がキュッと締め付けられるような感覚にとらわれる彩花。そして、湧き上がってくる甘酸っぱいものを堪えながら、満面の笑みを返すと、
「良かった」
やはり似ていた趣味に、隠せない嬉しさを彩花は素直に表してゆく。そして、更に嬉しいことに、
「崎谷藤次郎の「堕天使たちの夜」も良かったよ」
そんな言葉を祥がかけてくるものだから……。
やっぱり! と、そう口にしようとした時、
「彩花、早く行くぞ!」
もうこらえきれないといったよう、苛立たしげな言葉が海斗から飛んでくる。それに彩花は慌てて、
「うん、今行く!」
そう言葉を返してゆくと……。
後は、お互いの、それじゃあ、が待っているだけだった。少し名残惜しさが残ったが、これ以上は流石に……と諦め、彩花は海斗と共にその場から早足で去ってゆき……。
二人の姿が見えなくなるまで、ニコニコと手を振って見送る祥。それを、隣の修子はどこか呆れたように見ていて……。そして、
「呑気なものだ」
それに、言われている意味が分からず、は? と、祥は修子に言葉を返す。すると、
「恋する乙女に、曖昧な態度は罪だということだよ」
確信的にそういう修子。だが、それに当の祥は尚更分からないと、首をかしげていて……。
「この鈍感! あれはお前に恋する目、だろうが」
思いがけないその言葉、それに祥は仰天したような表情をして、
「恋! んな訳ないだろ。たった二回、ちょこっと会っただけだぜ」
それに、分かってないな~、と、何か含みを持って修子はそんなことを言ってくる。目線もどこか意味ありげで……。何だかそれに居心地が悪くなり、
「分かってないって……お前に言われたくない」
とても恋愛経験が豊富そうには見えない修子に言われたのが癪に障り、祥は思わずそう返す。すると、
「あれは絶対お前に好意を持ってるって。じゃなきゃ、お前のことなんて覚えてないだろうし、あんなこと聞いてこないだろうし。まぁ……お前も彼女が好きだってんなら、話は早いが、この鈍感色男」
「鈍感色男って……」
なんか変なあだ名をつけられて、納得いかないよう呟きながら、困ったような表情をする祥。だが、そんなこと修子にはどうでもいいらしく、構わず彼を放っておいて、不意に妙な真面目顔になると、
「だが……出会いは図書館とは……。めちゃくちゃベタだな。ってか、お前に図書館、全く似合わないんだが」
すると、それに失礼だなぁ……と祥はぼやきながら、
「俺、趣味読書だぜ。めちゃくちゃまじで」
そう、本当に本当に祥は大真面目だったのだが……。
どこか疑惑を持った修子の眼差しが、祥の全身を覆ってゆく。そして、
「世の中……何か……間違ってるな」
そういい捨て、スタスタと修子は歩き出していったのだった。
それに、待ってくれよ! だの、あれだけで恋なんて、ぜってーありえないって……などという祥の言葉が背後から響いてくるが、それにも構わず、そのまま早足で修子は下駄箱へと向かってゆき……。




