第8・5節 園城寺
第5週5日目、大統領がいつものように茶室にやってきた。
大統領:「今日は特に変わっていないようだけれど。」
私:「竹の蓋置に花押が付きました。」
大統領:「その赤いマークのことかい。わからないって、それだけだと。」
私:「ですよね。まあ、今日は花入の話なので、蓋置でも良いかなと思いまして。」
大統領が席についたので、私は主菓子を勧め、濃茶の平点前を始めた。
私:「今日は千利休作、竹一重切花入『園城寺』の話でしたね。正面に雪割れがあるところから、利休が園城寺にある割れ鐘に例えて銘を付けたもので、裏側に園城寺と墨書きがあります。園城寺には、いくつか逸話があります。」
大統領:「どんな話?」
私:「『茶話指月集』だと、この園城寺、割れ目から水が滴り落ちて畳を濡らすのですが、客が利休に、これはいかがなものか、と言うと、水が漏れるのがこの花入の命です、と答えたとか。同じ『茶話指月集』に、小田原征伐従軍の帰りに韮山の竹を切って、この園城寺を作り、息子・千少庵へのお土産にしたとか。まあ小田原征伐関連ということで、小田原征伐中に書いた『武蔵鐙の文』のが、園城寺の添え状になっていますね。あと、『喫茶指掌編』には、利休の孫・千宗旦の話もあります。」
大統領:「千宗旦の話は、どんな話なの?」
私:「安居院の正安寺住職が、千宗旦宛てに妙蓮寺という椿を送ろうとするのですが、途中で運んでいた若僧が落としてしまいます。途方に暮れた若僧は、怒られるのを覚悟で宗旦の元へ行きます。宗旦は、よく正直に言われた、しばらくお待ちなさい、と言って、茶室・今日庵の壁床に掛かっていた掛物をはずし、園城寺を掛けます。そこへ若僧の持ってきた花のない椿の枝を挿して、若僧に薄茶を点て、もてなしたという話です。」
大統領:「なんとなく、ほっこりする話だね。」
私:「さて、お寺の話をしましょう。長等山園城寺は、現在、天台寺門宗総本山三井寺と呼ばれています。七世紀の創建当初は園城寺と呼び、九世紀に智証大師円珍が『霊泉・御井の寺』を、三部灌頂という法儀に用いて以来、三井寺と呼ぶようになります。なので、利休の時代には、三井寺と呼ばれています。」
大統領:「なら花入は『三井寺』でも良かったわけだ。」
私:「寺には、2つの鐘があります。『三井の晩鐘』と『金堂近くの無名の梵鐘』です。花入は、無名の梵鐘から銘をとっています。現在、園城寺は創建時の面影はなく、金堂付近から発掘される古瓦から推察されるだけです。ただ利休がいた時代は16世紀末。当時、まだ創建時の面影があったのなら、『金堂近くの無名の梵鐘』を『園城寺』とするのもありかもしれませんね。ちなみに、現在の金堂は利休死後に再建されたもので、国宝になっています。」
大統領:「なるほど。」
私は大統領に濃茶を出し、大統領が濃茶を一口飲んだ。
私:「お服加減は?」
大統領:「大変結構でございます。」
私:「『金堂近くの無名の梵鐘』が、なぜ割れているのか、興味ありますか?」
大統領:「特に興味はないから良いといったら。」
私:「昨日、言いそびれた『福寿草』と『黒文字』の話に移ろうと思っています。」
大統領:「その話は明日にして、興味があるので、鐘が割れた理由を言ってほしい。」
私:「わかりました。金堂近くの霊鐘堂にある無名の梵鐘には、武蔵坊弁慶の伝承があります。比叡山と三井寺の争いに際し、比叡山の弁慶が鐘を奪います。その鐘が帰りたいよと鳴ったので、そんなに三井寺に帰りたいか、と言って弁慶が谷底へ投げ捨て、傷やひびが入ったそうです。ただ史実では、1264年、比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたとなっています。」
大統領:「まあ、弁慶は実在の人物ではないからね。」
私:「利休は、この鐘のひびを、花入のひび割れと重ね、『園城寺』と名付けたわけです。」
大統領が茶碗を返してきたので、私はおしまいの挨拶をした。
私:「おしまいにさせていただきます。」
大統領:「鐘の帰りたいよ、という音はどんな音だったんだろうね。」
私:「関西弁の帰るという意味に当たる『イノー』と鳴ったそうです。」
大統領:「イノー?」
私:「帰れという時、去ぬとか去ねとか言うみたいですよ。」
大統領:「ふ~ん。」
二人は扇子を出して、お辞儀をした。
私:「明日は、『福寿草』と『黒文字』について説明しますね。」
大統領:「楽しみにしているよ。じゃあ明日ね。」
私:「はい、大統領。」