第7・5節 客人の心得
第4週5日目、大統領が1枚の紙を持って現れた。
大統領:「先生、とりあえずこの紙にサインしてくれないか。」
私:「その紙は何ですか?」
大統領:「来月も大統領府で茶道の先生を続けるのに必要な提出書類だよ。」
私:「来月も続けて良いのですか?」
大統領:「もちろん、続けてもらうよ。まあ、他の先生には辞めてもらうけどね。」
私:「そうですか。なんか悪いですね。」
大統領:「気にしなくて良いよ、議会の承認も得られそうだし、あとはこの書類に先生がサインすれば、ほぼ決まりだね。」
私:「では、サインさせていただきます。」
私は大統領の指示に従い、書類にサインをした。
大統領:「じゃあ、ちょっと待っていて、すぐ提出してくるから。」
私:「少々お待ちください。大統領自ら、そんな慌てなくても良いではないですか。『山上宗二記』に一期一会の元となった言葉があります。
客人振事、乃至、路地へ入より出るまで一期に一度の会のやうに(ように)亭主を可畏敬
客人の心得は、茶庭に入ってから出ていくまでが一期一会の茶会と考え、亭主に畏敬の念を払って振る舞うべきであるとあります。」
大統領:「つまり、茶室に入ったら出てはいけないわけだ。」
私:「どうしてもということでない限り、客人が茶室を出入りするのはお勧めしません。」
大統領:「確かに、焦りすぎたかもしれないな。」
大統領は席に座り、私がサインした書類を大事そうにカバンにしまった。
私は大統領に干菓子を勧め、薄茶の平点前を始めた。
大統領:「今日は茶碗の模様が変わったようだけれど。なんという模様かな?」
私:「青海波紋と言います。祝い事に舞われる雅楽の演目『青海波』の衣装に使われる模様で、半円形を三重に重ね、波のように反復させたものです。青海波の舞は、二人の踊り手・楽人が、ゆったりと袖を振りながら舞う非常に優美な舞で、『源氏物語』にも取り上げられています。」
大統領:「ゆったりと舞う踊りか。今日の私とは逆だな。」
私:「現在、青海波紋は、模様が末広がりに広がっていくように見える事から、縁起の良い柄として広く愛されているようです。大統領、茶の湯に世間とは違う時間の流れを感じてみてください。千利休が小田原征伐に従軍した時の話をしましょう。」
私は大統領に茶を出し、大統領は薄茶を飲み始めた。
私:「時は天正18年、秀吉が天下統一を目前に控え、小田原へ進軍します。その本陣に千利休は従軍します。戦場で秀吉に茶を供するためです。」
大統領:「秀吉は、戦場でお茶を飲んだのか。」
私:「戦場では、北条氏政と氏照が切腹し、北条氏直が高野山へ追放されます。ちょうどその頃、戦場の利休は、弟子の古田織部と、和歌を添えた手紙のやり取りをし、音曲という竹花入を添えたりしています。」
大統領:「戦場にいるのに、戦争とはかけ離れた世界だな。」
私:「そうですね。ですが、これが茶の湯です。」
大統領が茶碗を返し、私が茶碗を取り込んだ。
大統領:「おしまいにしてください。」
私:「おしまいにさせていただきます。世間とは違う、ゆったりとした時間の流れが茶の湯にはあります。季節感を重視し、寂びた茶道具を使って、わびの心を感じながら茶を飲む。亭主と客が一体となって作るこの空間に、大統領、あなたは何を感じますか?」
大統領:「ホッとする時間かな。」
私:「大統領が感じる、ホッとする時間、常に忘れないでほしいと思います。」
二人は扇子を出してお辞儀をした。
私:「今日が最後と思っていましたが、来月も頑張らないといけないですね。」
大統領:「よろしくお願いしますよ、先生。」
私:「はい。」