第7・2節 茶の湯を志す者
第4週2日目、大統領は少し肩落とし気味に入ってきた。
私:「どうされました、大統領。元気がないようですが。」
大統領:「聞いてくれ、先生。実は昨晩、妻に薄茶を点てて飲ませようとしたら、作法がわからないからいらないと断られた。教えてやると何度も言ったんだけどな。」
私:「薄茶を飲む作法というと、2回回して、正面を外すというものですね。」
大統領:「正面を外すのが目的だったのか。知らなかった。」
私:「言っていませんでしたね。すみません。」
大統領:「いや、良いのだけれどね。ただ、妻に薄茶を飲んでもらえなかったのが残念で。」
大統領が席に座ったので、私は薄茶の平点前を開始した。
私:「夏目漱石の『草枕』に、こんな文章があります。
茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体振った(ぶった)風流人はいない。(中略)器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、是で大方風流なんだろう、と却って(かえって)真の風流人を馬鹿にするための芸である。」
大統領:「真の風流人からすると、茶の湯はダメだということかい。」
私:「もう一つ、『長闇堂記』に、こんな文章があります。
萬事手かるく、さひたる(さびたる)を本とせらるゝ(せらるる)也。世間のわひ(わび)に心をつけ、又、道具もたても、遍く(あまねく)茶湯のなるへき事をしめして、道におもむかせんためとも云也。
利休は、茶の湯を世間の人が手軽にできるよう寂びた茶道具を使うようにします。さらに、茶道具がなくても問題ないことを示します。これは、茶の湯が誰にでもできると言っているのです。」
大統領:「利休は手軽にできるよう改定したのに、夏目漱石の時代には堅苦しいものになっているということかな。つまり茶の湯がダメなのではなくて、茶人がダメということか。」
私:「名物を持たない茶人のことを、わび数寄と言います。利休が教えた茶の湯は、わび数寄に対してと、真の風流人に対してです。茶人振った風流人は入っていません。」
大統領:「茶人振った風流人というのは、わび茶の心を知らない人と言うことかな?」
私:「さすがは大統領。もう茶の湯は免許皆伝でもOKですね。」
大統領:「いやいや、それは胡麻の擦りすぎだって。ところで、私の妻の話につながらないのだけど。」
私はお菓子を勧めて、点前を続けた。
私:「『利休百首』の冒頭にこういう言葉があります。
その道に 入らんと思ふ(う) 心こそ 我身ながらの 師匠なりけれ
茶道に限らず、やってみようという志を立てたなら、その人自身の心には、もう立派な師匠ができているという意味です。ここまでいくつも例を挙げましたが、まとめると、茶人振った風流人は、志を立てていないから、茶の湯がダメだとなります。大統領、奥様に茶の湯を勧めるとき、形から入ろうとしませんでしたか?」
大統領:「茶碗は2回回してから飲んで、茶碗の口は指で拭いて、懐紙で指を綺麗にすると言った気もするな。」
私は大統領に茶碗を出した。
私:「大統領、最初に薄茶を飲まれ、ホッとしたと言われた時、茶碗を2回回しましたか。」
大統領:「いいや、片手で好きなように飲んだな。しかも胡坐をかいて。」
私:「利休の息子に千道安という人がいます。この人は正座せず、片足を立てて点前をすることがあったそうです。まあ秀吉といった身分の高い人の前では、正座だったようですが。」
大統領:「茶道は一期一会の客に、心を伝えるものだったな。少し形にこだわりすぎたかもしれないね。もう一度、今度は気楽に飲んでもらえるようにしてみるよ。」
大統領は薄茶を飲み、茶碗を返してきた。
大統領:「おしまいにしてください。」
私:「おしまいにさせていただきます。大統領は今回の日本伝統芸能改革を推進するにあたり、既に” 国民の90%以上がなんらかの伝統芸能を身に付けている日本を作る”という志を立てられています。あとは人にその心を伝えることで、真の風流人となってください。」
大統領:「その道に 入らんと思ふ 心こそ 我身ながらの 師匠なりけれ、か。」
二人は扇子を出してお辞儀をした。
大統領:「今夜、もう一度、妻に薄茶を出してみるよ。心を込めてね。」
私:「明日、笑顔でお会いできるのを楽しみにしております。」