第6・2節 本来無一物
第3週2日目、いつものように大統領が和室にやってきた。
私は最高級な薄茶を棗に入れて用意した。
私:「今日は、最高級な薄茶をご用意しました。逸話を聞いたあと、明日以降に飲む薄茶を決めていただきたいと思います。」
大統領:「いいだろう。では始めてもらおう。」
大統領が席に着くと、私は一呼吸おいて、薄茶の平点前をはじめた。
私:「今日は『六祖檀経』という本の逸話になります。中国禅宗の第五祖大満弘忍は、ある日、弟子達に、我こそはと思うものは、自らの悟りを一偈にして提出しなさい。もしもその偈が、私の意にかなうものなら、我が法と、始祖達磨大師の袈裟と鉄鉢を授けようと言います。つまり、自分の後継を育てようとしたわけです。」
大統領:「本のタイトルが『六祖檀経』ということは、第六祖がその偈というもので決まったわけだね。」
私:「さすがですね。その通りです。そして、第六祖候補の神秀が偈を書きます。
身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、
時々(じじ)に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむること莫れ
そのまま訳すと、私たちの肉体は、悟りである菩提の実を結ぶ樹木だ。私たちの心は、元々、清浄で明鏡のようなものだった。それが煩悩によって肉体を汚し、塵や埃で心を曇らせたのだ。だから油断なく禅に励み、煩悩や塵埃を払拭しなくてはいけない、という意味になります。」
大統領:「簡単に言うとどういうことなのかな?」
私:「人は、そもそも悟りを開ける肉体なのだから、煩悩で穢れた心身を、禅の修行で元の姿に戻せば良いといった意味になるでしょうね。」
大統領:「正しいようにも聞こえるけど。」
私:「実際、弘忍禅師も、そのように修行すれば問題ないと言います。ただ、その時は、何かが足りないと感じたため、神秀に禅の法は伝えませんでした。」
大統領:「何が足りないのかな。」
私は一呼吸おいて、大統領にお菓子を勧め、話をつづけた。
私:「その後、神秀の偈は、世間にも広がります。そこに一人の行者・慧能が一石を投じます。」
大統領:「行者というのは?」
私:「出家せずに寺で雑務をする労働者のことです。慧能はこういう偈を書きます。
菩提本と樹無し、明鏡また台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かんや
そのまま訳すと、私たちの肉体は菩提樹と言うが、求めるべき菩提もなければ、捨てるべき煩悩が何なのかも言っていない。私たちの心は本当に清浄で明鏡のようだったのだろうか。私たちは、本来何も持っていないのではないか。どこに煩悩や塵埃が溜まるというのだろう。禅の修行というのは、煩悩や塵埃を払拭ものではなく、何もないところから悟りを開くことではないのか、という意味になります。」
大統領:「つまり禅の修行は、元々悟っていた人間が綺麗になって悟るのではなく、何もない人間が修行によって悟るものだということかな。」
私:「もう大統領に教えることは何もないですね。」
大統領:「いやいや、それは胡麻の擦りすぎだろう。まあいい、続きを聞かせてくれるかい。」
私は一呼吸おいて、点てた薄茶を大統領に出した。
私:「弘忍禅師は、慧能に禅の法と達磨大師の袈裟と鉄鉢を授けます。禅宗はこの時、2派に分かれます。”本来無一物”を土台とする慧能の南宗禅と、”時々に勤めて払拭”を土台とする神秀の北宗禅です。そして、北宗禅は唐時代初期に滅びます。」
大統領:「つまり本来無一物という考え方が、正しかったわけだ。」
私:「本来無一物という禅語を、今回は、薄茶に例えたいと思っています。悟りの境地である最高級な薄茶に行きつくには、いつもの薄茶を飲んで、徐々に舌に覚えさせる方が最終的には良いとね。」
大統領:「それだけでは、納得したくない。」
大統領は、名残惜しそうに飲み干した茶碗を眺め、私をジト目で見つめてきた。私はため息をつき、話を続けた。
私:「以前、大統領にわびとは何かを聞かれて、武野紹鴎の言葉を出したことは覚えていますか?」
大統領:「確か短歌ともう一つ何か言っていたな。」
私:「村雨の 露もまた干ぬ 槇の葉に 霧立のほる 秋の夕暮という短歌と、正直に慎み深くおごらぬ心、です。では大統領、その薄茶を飲んで、ほっとする味だと言ってください。」
大統領:「確かに、これはわび茶ではない。そういえば、最初の頃、私は抹茶を飲んでほっとしていたな。」
私は大統領から茶碗を返してもらい、点前を終了させた。
私:「大統領、正直に慎み深くおごらぬ心という言葉、今ならわかるのではないですか?」
大統領:「そうだね、明日からはいつもの薄茶をもらおう。デモンストレーションの日まで最高級な薄茶はおあずけだな。」
私:「ありがとうございます。」
二人は扇子を出してお辞儀をした。
大統領:「礼を言うよ。最高級な薄茶を飲み続けていたら、北宗禅のように滅びの道をたどる所だった。大統領として、本来無一物を目指せるよう頑張ってみるよ。先生に出会えて本当に良かった。」
私:「もったいないお言葉、ありがとうございます。」




