1
6月の蒸し暑い曇りの日だった。今日も沢木は代々木公園でホームレスをしていた。いや、正確に言えば、彼は築57年の木造トイレ共同風呂なしの激安アパートを月に1万2千円払って渋谷区幡ヶ谷に借りていた。
彼の収入源は障害厚生年金とメールカウンセリングが主であった。彼の一番高価な所持品はギャラクシー製のスマートフォンであった。
沢木は自分のブルーテントから出た。平日の午前という事もあり”一般ピープル”は少なかった。沢木は日課であるストレッチを行った。なぜ彼がアパートを借りていて定収入があるのにも関わらず代々木公園にブルーテントを張ってホームレス生活をやっているかは”寂しい”からであった。
西暦2000年、沢木がまだ28才の若き頃、ホームレス生活をしながら江戸川乱歩賞を受賞した作家がいた。その作家が尊敬しているミステリー作家で1995年に江戸川乱歩賞・直木賞をハードボイルドでW受賞した作家を沢木も尊敬していた。
しかし、45歳で「うつ病」という精神疾患を負っている沢木には昭和の純文学の大御所たちのように酒やギャンブルや女におぼれて自己壊滅的な生き方をしながら小説を書く気力も財力もなかった。
沢木が唯一、小説を書ける時間帯は深夜であった。沢木にとって深夜は幻想の世界であった。深夜だけが彼を優しく包み込み現実の苦しみや、本来ならば幸せな人生を歩んでいたであろう別の自分を想像したり、青春時代の郷愁に浸れ悲しみの涙に包まれながらミステリー小説を書ける時間帯であった。
彼のスマホが鳴った。沢木はメールを見た。メールカウンセリングの依頼であった。
"Su:うつ病相談の依頼につきまして"
"当方、36歳の生活保護受給者です。夢も希望もありません。料金は2000文字以内で後払いで300円という事が貴殿のHPに記載されてましたがそれでよろしいでしょうか?”
沢木は丁寧語でそれでよいという旨の返信をした。
電話がかかってきた。村木香からだった。沢木は電話に出た。
「はい。沢木です。」
「沢木さん、又、代々木公園にいるの?」
「そうだ。」
「私ね。今日は残業無しであがれそうだから、沢木さんと一緒に過ごしたいな。」
「構わないけど・・・」
「分かってるって。セックスはいいの。沢木さんが元気な時で・・・」
「分かった。何時に初台に行けばいい?」
「5時には帰れるから、5時半くらいかな。」
「そうか。じゃあ、それくらいに行く。」
「待ってるから。じゃあね。」
村木香は電話を切った。村木はもともとは沢木のメールカウンセリングの客だった。
統合失調症だった。某宗教団体に入っていたが、沢木がやめさせた。香は完治コースを10万円払って受けた。それは、完治するまで沢木と代々木公園でホームレスをする事を意味していた。沢木も大学一年生の時に精神分裂病になった。
途切れなく聞こえてくる声や霊現象に苦しめられた。日本を脱出してアメリカに行った。サンフランシスコの山中で自殺も決意したが死にきれずロサンゼルスに移動してロングビーチの海辺で1年間ホームレスを経験して日本に帰国した。
過酷なホームレスを経験した結果、沢木の精神分裂病は完治した。それ以降、沢木は統合失調症(昔は精神分裂病といった)は厳しいホームレスを経験すれば完治するという信念にたった。
しかし、アメリカに行ったことにより父親の怒りを買い大学を失い青春を失い人生を失った。
沢木は若くしてブルーカラーとして工場勤務者となった。31才で重度のうつ病を発症して会社を辞めた。
そして、障害厚生年金を2か月に一度約25万円の金額をもらいながら障害者として生活していた。
沢木は社会復帰の道を選択しなかった。45才になるまで14年間、障害年金で生きてきた。一番の理由が働いてしまうと就労能力があるとみなされ障害年金が打ち切りになってしまうからであった。
沢木にとって「うつ病」になってからの14年間は”空白の14年”であった。
去年にホームレス仲間の矢沢から紹介してもらったアウトローの徳井から銀行預金の通帳と印鑑とカードを買った。そこに、メールカウンセリングの料金は振り込ませていた。
ホームレス仲間の白石みきが歩いてきた。若かった頃は美貌の女性であった。沢木は写真を見せてもらったことがあるが、アイドルなみの美しい女子高生だった。しかし、50才を過ぎた現在、その美貌は衰え、
ただの中年の女性ホームレスと化していた。
みきが言った。
「沢木君、コーラ買ってよ。コーラ」
「そんな金はない。」
「何よ。年金もらってるんでしょ。お金あるじゃない。」
「ただでやる物はない。」
「だったら、私を買いなさいよ。5千円でいいわよ。ホテル代は別よ。」
「女には不自由してない。」
「何よ。アパートも借りてるくせに!!なんで、こんなとこで遊んでんのよ!!」
沢木は別のテントから赤石が出てくるのを見た。赤石はここのホームレス仲間の指導者的な存在であった。年齢も沢木より10歳年上の55歳だったが、何よりも身長が高かった。195cmはありそうで、体重は120kgはありそうだった。
建築現場の日雇いをやってる事もあり筋肉もすごかった。
赤石が近づいてきて言った。
「みき、沢木君は共同防衛費として毎月3千円を払ってここに住んでるんだ。いったい何回、言わせれば
すむんだ。沢木君が新人だからと言ってたかるんじゃない。帰れ。」
赤石はそういうなり、みきの手を引っ張って連れ去った。
赤石が戻ってきて言った。
「いつもみきがたかってすまないね。沢木君は今日はアパートに戻るのか?」
「いえ、知り合いの所に行きます。」
「そうか。まぁ、君にはここに住む権利がある。君の3千円で助かってる人間もいる。矢沢にも飯を食わせる事が出来てる。君にはぜひ長くいてほしい。」
「私にはほかに行くとこはありませんから。」と沢木は言った。
「そうか、君は去年の今頃にここに住むようになったが、規律も守ってるし問題はない。君のような優等生は珍しいよ。じゃっ。」と言って赤石は去った。
沢木は公衆トイレに行って、頭を洗いひげをそった。午前中は公園敷地内にあるベンチに座り机にスマホを乗せて3通届いてる「うつ病相談メール」の返信を丁寧にした。
正直、このメールカウンセリングは金にはほとんどならなかった。後払いという事もあって、料金を踏み倒す人間も半分以上いた。相手もフリーメールだし、本名や住所は名乗らないので裁判のしようが無かった。それに、300円の料金に裁判を起こすのはばかげていた。では、なぜ沢木がメールカウンセリングをやっているかというと目的は女だった。
しかし性欲目的ではなかった。沢木自身が鬱病で性欲はほとんど無かった。ただ単に話し相手が欲しかっただけだった。だから無口な女は沢木は苦手だった。沢木は明るくよく話す女が好きだった。
村木香は明るくよく話す女だった。