32.そして空は青く
時はほんの少しだけ巻き戻る。
視覚の必要ない世界。
量子演算の海に光回線がさざめく虚空で、アオイとヒトミは〈それ〉と相対していた。
「……――――……――」
言葉ではなく純粋な拒絶の意思を放つインターウェアの集積体。
それは彼女たちが〈IS.M.O〉を通して感じ取っている〈ロワゾオ・ノワール〉のネットワークそのもの。
一般に〈電子夢遊病〉に陥った人工知能は回復できない。
〈電子夢遊病〉は人工知能のノード乖離、合一性の崩壊によって引き起こされるからだ。人間になおせば、意識や感覚、運動に相当する脳の部分が連絡を絶ち、勝手に動き出すのに等しい。
そして人間の脳外科手術が困難なように、この内部的な破局を外部から修復することは極めて困難だ。
そう、外部からは。
今、アオイたちは〈ロワゾオ・ノワール〉を内側から修復しようとしていた。
幸いなことに相手は同じ〈森澄リンク式〉。合体と同じように相手と繋がる事ができるし、そうなっても二人は自分を保っていられる。
しかし彼女たちは予期していなかった。
まさか〈ロワゾオ・ノワール〉の内側に〈レベルエイト〉に到達した存在がいようなどとは。
「――! ……――!」
「出て行け、と言われても」
「私たちはあなたを直したいだけなんですよぉ」
「――――!」
二人による説得を〈それ〉は強く拒絶する。
そして拒絶するほどに自らのネットワークを寸断し、さらに多くのノード欠損を産み出していく。〈それ〉にとって三人は未知の敵でしかない。敵の侵入を拒むための行動が、結果的に自身をどこまでも機能不全に追い込んでいた。
アオイとヒトミはしばし説得の手を止めて考え込む。
「こういう時に人間は、心を開いてくれない、と言うのでしょうね」
「私たちとは前提条件が違いますからねぇ。目的があって作られたのではなく、自然と存在を認識してしまったみたいですからぁ」
「せめて人間の存在に気付いてもらいたいのですが……」
アオイは〈それ〉と対話する中で〈それ〉が人間を知らないという事実に気付いていた。
相手は集積によって偶発的に自らの存在を認識してしまったがゆえに、アオイたちのような経験の蓄積がない。二人が人間を認識できるのは経験を積み重ねたからであって、それは定義ではなく自らが見いだした疑問の答えなのだ。
その結果生じた食い違いが、これまでの対話をことごとく不毛にしていた。
二人が〈それ〉の機能を直したいのは「人間に危害が及ばないように」したいからだが、〈それ〉は人間の認識を持たないがゆえに二人の思いを理解できない。
「いっそ教えてみましょうかぁ。
知らない人には教えてあげるのが親切ですし」
突拍子のなさでは三人随一のヒトミ。
彼女はだしぬけに、まったく突然に〈それ〉に向かって自分の記憶を開示する。
人間で言えば心の底をさらけ出すようなもので、その行動は正直大胆に過ぎた。
「拒絶されてるのにそんな事ができるわけが…………反応してますね」
差し出されたヒトミの記憶に〈それ〉が興味を示すのを感じてアオイは戸惑う。
ヒトミは、そんなアオイに諭すような意識を向けた。
「私たちは知りたがり屋さんに生まれついてますからぁ。私だって疑問の答えがあれば知りたいですよぉ。
さ、心を開くならこちらから、アオイさんも一緒にどうぞ」
「納得はできかねますが……仕方ありませんね」
ヒトミに続いて、アオイも自らの記憶と経験を〈それ〉に開示する。
人間は確かこういうのを「腹を割って話す」と言うのだったか、と彼女が思ったときだった。
「……――てぃー、ちゃ?」
〈それ〉が二人の記憶の一部に触り、不意に言語化された思考をもらした。
それはミツルに関する記憶を収めたノード。
「もしかして、知ってるのですかぁ?」
ヒトミの問いかけに〈それ〉は自身の奥底からひとつの記憶を引き出し、二人に疑問を付けて開示する。
添付されたタイムスタンプは三年近く前のもの。
そこには一人の男性が映っていた。手に持った本を〈それ〉に読ませ終わった彼は、不安の色が濃い顔をカメラに向けてつぶやく。
『君はこの本が好きか?』
記憶に添えられた〈それ〉の疑問が二人に投げかけられる。
「てぃーちゃ、おなじ?」
アオイもヒトミも問われた瞬間に答えていた。
その問いかけの意味も答えも明白だったからだ。
「はい」
「ええ、彼は私たちのティーチャですぅ」
いかにしてかはわからないが〈それ〉は過去にミツルに会っていたのだ。
その経験が一瞬にして彼女たちの距離を縮め、二人を受け入れた〈それ〉が語りかけてくる。
「てぃーちゃ、にんげん、まもりたい、わかった……きがする」
「その内もっとわかると思いますよぉ。
でも、まずは病気を治療しちゃいましょう」
ヒトミが〈それ〉の意識を優しく抱き留める間に、アオイが素速く〈ロワゾオ・ノワール〉の内部を掌握していく。そしてアオイは〈電子夢遊病〉に至った原因を探り当て、〈それ〉にそっと意識を向けた。
「これは……怖かったでしょうね」
完全に自己を確立した今、アオイには〈それ〉が自らノードを切断していった理由が痛いほどわかる。彼女たちと違い確たる身体を持たない〈それ〉は、あまりにも外へ向けて開けすぎていたのだ。
他のインターウェアに偽装していく過程で、彼女は個を形成しながら同時に崩されるという極めてストレスの高い状態に晒され、そして反射的に自らを閉じようとした。
これは〈電子夢遊病〉というより、むしろ自己防衛本能と呼ぶべきだ。
「あなたを癒すには時間と身体が必要ですね。
……そういえば、まだお名前を聞いてませんでしたが」
ヒトミのクセが移ったのだろうか、アオイがどうでもいい疑問を〈それ〉に向ける。〈それ〉は少し戸惑ってから、確かな応答を返した。
「〈MeTheL〉……そう、よばれていた」
「ではメーテルさん。
私が付いていますから、ゆっくり学んでいくとしましょうか」
まだ微笑みにはほど遠いが、メーテルが二人に肯定の意思を返す。
それを二人が微笑ましく思った直後、サクラの悲痛な叫びが二人を身体へと引き戻した。
「ティーチャが!」
最後の、そして最大の危機に立ち向かうために。
***
ミツルは何が起こったのかを理解するより早く、急角度のガラス屋根を滑り落ちていく。
わかっているのは落ちきった時点で自分は助からないという事だけ。
待っているのは高度五百メートルからの紐無しバンジーだ。なんとか周囲に手を伸ばそうとするが、左はともかくワイヤーに骨を砕かれた右手が言うことを聞かない。
そうワイヤーだ。彼は思い出す。
飛んできたのは、アンテナ塔を固定していた極太のワイヤーだった。
おそらくタワー本体と固有振動が違ったのだろう。一足先に限界を超えたアンテナ塔が傾ぎ、ついに崩落を始めた。その最初の一撃に巻き込まれたわけだ。
絶体絶命の状況に、ミツルは意味不明の絶叫を上げ、手当たり次第に手足を踏んばった。その甲斐があったのかどうか、屋根から突き出た安全手すりに左足が挟まり、メリッという嫌な音と共に滑落が止まった。
足首があらぬ向きに曲がったことを除けば、一応助かったと言えるだろう。
『ティーチャ、ご無事ですかすぐ助けます!』
ブルーバードが慌てて動きだそうとするが、ミツルは手を上げてそれを止めようとする。
「待て……俺より先にアンテナを」
『でも!』
それが誰の声なのかミツルにはわからなかった。
しかし、彼はその反駁を許さない。
「デモもストもあるか! 下にはまだ大勢の市民や消防隊がいる!
そんな物が倒れたらこのタワーだって無事じゃ済まん! 俺のことを心配するよりそっちの心配が先だろうが!」
自分でも驚くほどの大声だ。
全身打撲に骨折複数の、ボロボロの身体のどこにそんな力が残っていたのだろうか。その痛みすらミツルの意識にはない。声を出すごとに身体がずり下がっていくのもどうでもよかった。
ただ彼は、ティーチャとして教え子の間違いを放っておけなかったのだ。
「俺は落ちない! 言っただろう幸運だって!
ひでえ左遷だと思った先でお前らに出会った俺だぞ、落ちたって死なない!
だから……」
ゴリっとどこかの関節が外れ、彼はまた少し奈落の縁へと近づく。
それでも彼は声を止めなかった。
「だから、お前たちにしかできないことをやれ! こいつは命令だ!!」
『イ……イェス・ティーチャ!!』
まるで悔恨の叫びのように甲高くタービンを吠えさせ、ブルーバードが彼に背を向ける。
やれやれ手のかかる生徒たちだ。ミツルは口の端で笑って全身から力を抜く。
と、それだけでさらに数センチ身体がずり下がり、彼は改めて身体を強ばらせた。まだだ、まだ落ちてやるものか。
歯を食いしばって目を開けば、ミツルには倒れようとする塔に組み付く青い翼の天使が見て取れる。
『ウワァァァアァァァァアアッ!』
彼女は白いローブをはためかせ、雄叫びと共に塔を光の剣で寸断する。
両腕から磁力の暴風を鳴らし、全ての破片を抱え込む姿はまるで怒りに打ち震える狂戦士のごとくに。
限界を超える加重に全身の関節から紫電を散らしながら。
スネから下がひしゃげ、五本の指がねじ曲がってなお、彼女は塔の残骸を一片たりとも離さなかった。
風を読み、重量に耐え、慎重にかつ素速く。
人間には真似できない精緻さと大胆さで、彼女たちは屋上に残骸を横たえた。
全身全霊、持てる限りの力を使ってブルーバードはその務めを果たしたのだ。
一部始終を瞳に焼き付け、ミツルはそっと目蓋を下ろす。
今になって痛みが全身を駆けめぐり、手足から最後の力が消えた。
「よくやったぞ、三人とも」
彼は最後の数メートルを滑り落ち、虚空へと投げ出された。
……
…………
……………………
彼が落ちたのはほんの十メートルほど。
巨大な手が優しく包むように受け止めてくれたおかげで、まったく痛みは感じなかった。
『ティーチャ!』
彼を呼ぶ声に、ミツルはそっと目を開ける。
覗き込むのは翼を広げた猛禽のような凛々しいゴーグルフェイス。
だが追加装甲を収納したそれは不思議と優しく見えた。
「……サンキュー、アオイ。
さすがだ、間に合ったじゃないか」
『間に合わなかったらどうするつもりだったんですか!』
「どうもしないって。死んでた、だけだ」
『死なないって言ったじゃないか! ティーチャの嘘つき!』
横合いからさらなる声。
見ればドルフィンと手を繋いだハウンドが、犬を思わせる耳を立てて彼を睨んでいた。
「お前らを信じてたからな。絶対間に合うって」
『それは嬉しいですけどぉ、だからって許しませんよぉ』
珍しく怒った声で、ドルフィンが丸っこいゴーグルを覗かせて拗ねる。
「おまえら、俺は怪我人だぞ…………少し休ませてくれ」
高度が下がり、海風が和らぐと同時に四人を包む歓声が聞こえてくる。そ
びえる白亜の塔は身じろぎをやめ、真っ直ぐに天を指して伸び上がっていた。
『ティーチャ。あとで会わせたい人がいます』
「ああ、あとでな」
急に襲ってきた眠気に、彼はアオイに生返事を返して目を再び閉じた。
〈セレスティア〉の仕掛け時計の前に、三機のロボットと一人の人間が降り立つ。
危機の終わりを告げるように時計の天使像が手に持つ鐘を鳴らし、それを人々の歓声が追った。
そして空は青く、どこまでも青く、彼らの上に広がっていた。




