23.重なった名前
エリカが広報三課を訪れたのは夕方。事件最初の犠牲者が出た直後だった。
白のスポーツセダン、愛車の五十五年製トヨタ・アローリで博物館に乗り付けた彼女は、臨時休館と書かれた手書きの看板に驚きつつ、裏手に回ってドアの認証ポートにタッチする。
反応無し。
「へっ?」
よく見ればポートの電源ランプが消えている。
建物の管理エージェントが機能していない。
そう覚った途端にエリカの目つきが変わる。ついさっき負傷者が出てたばかりだ。
エリカはハンドバッグから大柄のグローブをそっと取り出す。彼女たち〈捜特〉にだけ携行が許されたスタングローブを慎重に装着し、エリカはハンガーと博物館の間にある非常階段へと音もなく走った。
施錠されたゲートをさけ、手すりに飛びつくエリカの脳裏には不吉な予想が浮かんでいた。
あらかじめミツルとレンへコールしたが両者応答なし。
やむなく出向けば博物館に入れないとくれば、よからぬ事態を想像するのは仕方がない。
非常階段を三階まで上ったところで、エリカは複数の話し声を耳に捉えた。
そして上から降りてくる足音がひとつ。
彼女はドア前のくぼみに隠れ、相手が間合いに入った所で飛び出すと拳を突きつけて叫んだ。
「〈捜特〉だ動くな! ……って、レン係長?」
「わっ! ちょエリカ何やってるの!?」
予期せぬ対面に、エリカとレンはしばし間抜けな顔をつきあわせたのであった。
***
「驚かせてごめん」
「いや気にするな。それより大事が無くてよかったよ」
博物館とハンガーの境、オフィス棟の屋上。
いつものウェスタン姿のレンが差し出したお茶を受け取り、エリカがホッと息をつく。
蓋を開けてみれば非常事態でも何でもなく、レンたちの単なるうっかりであった。
博物館から客を閉め出してエージェントを停止させた後、通用口に守衛を立たせるのを忘れただけだ。
「まさか人が来るなんて思わなかったからね。鞠井さん、ごめんなさいね」
「トクガワ課長、エリカで結構です。それにしても何で皆さんこんな所に?」
海水を使った水冷クーラーが当たり前のイスルギでは、空冷機を屋上設置する代わりに、余ったスペースの緑化が推奨されている。
三課のオフィス棟もご多分に漏れず全面芝生張りだ。
そこにピクニックよろしく円座を組んで課員が勢揃いし、夕陽を眺めつつ何やら作業に追われている。
「建物のエージェント止めたら空調も照明も止まっちゃってねえ。
下にいても暑くて暗いだけだし、人も来そうにないからって……あ、エリカさんが来ちゃったけどね」
トクガワが茶目っ気で舌を出すが、ダンディな外見に対して似合わない事おびただしい。エリカは愛想笑いでお茶をにごしつつ、さっきから気になっていた事をレンに質問する。
「ところでミッチがいないけど、あいつどうしたの?」
「あー、それなんだけどさ……」
「ミツル君、行方不明なんだよ」
トクガワのため息のような言葉にエリカが眉をひそめる。
「行方不明って……ちょっとトクガワ課長、詳しく聞かせてくれ」
トクガワはミツルがいなくなった状況と、その後の顛末をエリカに語る。
犯行声明の直後、コールに出ない彼を心配してレンとトクガワはフードコート内を探したが、彼を見つける事はできなかった。
幸い午後の経営公聴会はキャンセルになったので、彼がいなくても困る事はないがだからといって放って置くわけにもいかない。
二人は警備センターに出向いて事情を話し、そこで三十分近く粘った。
それでも彼が〈セレスタイト〉から出た形跡も、施設内にいるという証拠も見つからず、彼らは諦めて課に戻ってきたわけだ。
レンに渡された紙とボールペンに苦戦しながら、エリカは子細を書き留めて首をひねる。
「まるでパッと消えたみたいだな」
「人間が消えるはずない。おそらくだけど、彼は誰かに拉致されたんだ」
「おいおい。係長ならいざ知らずミッチを捕まえて何するってのさ」
「それはわかんないけど…………」
口ごもるレンにエリカが肩をすくめる。
「ミッチの事だから心配ないと思うよ。
ま、これは一応捜索届けの下書きに……って、そうか着用端末じゃなかったか」
紙を何度か撫でたあとで、エリカはそれが愛用の手帳型着用端末でないと思い出した。
彼女の着用端末は屋上の入り口、それもなぜか金属のツールボックスに入れられている。理由はわからないが全てレンの指示だ。
「なあ係長、これ不便なんだけど」
「しばらく使う事になると思うから、慣れといた方がいいよ。
ところでエリカ、すっかり聞き忘れてたけどなんでここに来たの?」
「あ、ミッチのせいでこっちも忘れてた。
係長、あの犯行声明にあった〈ロアゾオ・ノワール〉、あの黒い鳥みたいな違法アプリケーションの事で知恵借りに来たんだ」
「違法アプリケーションだって? 本社はまだそこまでしかわかってないの?」
聞くなり呆れた仕草でため息をつくレン。
エリカはキョトンとして聞き返す。
「違うのか?」
「全然、まったく、あれは別物だよ。
ウィルス、正真正銘のインターウェアウィルスだ。
目下僕らが屋上にいるのもそのせいだし、着用端末が使えないのもそのせいだ。
エリカは埠頭の暴走事件を調査中だよね? あれに使われたのと、ほぼ同じものが今回使われてるんだよ」
「なんでそんな事が分かる?」
「鳥に聞いた。……もういいちょっと待ってて」
レンはうんざりした顔でエリカの着用端末を取りに行く。
「なんでカリカリしてんの?」
「レンちゃん、僕らに説明したばっかりでね。同じ事二回話すの嫌いなんだよ」
「はぁ」
エリカとトクガワが顔を見合わせるそこへ、大股で戻ってきたレンが着用端末を差し出す。
「エリカ、起動して」
十歳年下の係長の思わぬ剣幕に押されながら、エリカは着用端末を起動。
すると見開きのプラスチック面に小さな黒い鳥が現れる。
「その鳥に話しかけるんだ。
名前は〈ロアゾオ・ノワール〉、要領は普通のエージェントと一緒でいい」
「こうか? ……えっと、こんにちはロアゾオ・ノワール」
内心それでどうなるものかと疑っていたエリカは、次の瞬間、手帳から返ってきた黒い鳥の声に慄然とした。
『はい、こんにちは』
声は犯行声明と同じ静かで優しい女性の声。
すぐに横から割り込んだレンが、黒い鳥に話しかける。
「君の機能は?」
『Smarts、および白龍ウェアを基幹とするインターウェアシステムを掌握し、制御下に置く事です』
「君の持つ権限は?」
『最上位です。全ての情報を使用し、全ての機能を制御できます』
「君は私の命令を聞くか?」
『いえ、私はあなたの命令を受け付けません。質問は一度に三回までです』
そう言うと鳥は画面の奥へと飛び去る。だが消えたわけではなく、小さな点となって画面端に降りる機会を窺っているようだ。
「鳥に聞けって言われて、まさか誰もやらなかったの?」
「いやぁ、つついたり消そうとしたりはしてたけど、まさか話しかけるとは思わなくてね」
レンにジト目で見つめられ、恥ずかしさで思わずエリカは目を逸らす。
「だとしても機能は普通に使えて……そうか」
エリカの頭も回転は早い。〈ロアゾオ・ノワール〉の回答から、彼女はすぐにその正体と、もたらす影響に気付く。
レンがエリカから着用端末を取り、箱に戻しながら淡々と告げた。
「そう、今、コレは君のものじゃない。
誰かもわからない人物のものだ。その人物が君を盗聴しても気付かないし、機能を使えるかどうかも気まぐれ次第だ」
「そんなのがイスルギ全域の機器に感染してるなら……」
「皆様すべての命を預かっています。ってのはホラじゃないみたいだねえ」
そう嘯いてトクガワがお茶をすする音が、絶句するエリカの肩を撫でた。
エージェントは多くの機器をコントロールしている。
それも全市ユビキタス環境のイスルギならほぼ100パーセントと言っていい。
着用端末など些細な例に過ぎず、ライフラインやネットワークなど生活に必要なあらゆる部分が、ここではエージェント無しでは成り立たない。
それが特定の個人、それも犯行声明を出すような犯罪者に握られ利用されている現状。考えただけでエリカの背中に冷たい汗が伝う。
「じゃあさっきの事故はおそらく……」
「事故? もう始まったか。
一日三回、時間も場所も指定しないのが嫌らしいな」
「きっと対策打っても無駄だろうねえ。
レンちゃんの言うとおりなら、こっちの対応も筒抜けだろうし。再起動するようじゃ、後は電源を断つぐらいしか無いんじゃない?」
「それ以前の問題だよジョー。
この博物館ぐらいなら問題ないけど、もし市の管理中枢が握られてたら、もちろん握られてると思うけど、そんなの止められっこない。街の機能がマヒするもの。
完全に先手取られたこの感じは去年の事件以来だよ」
「アメリカの中央医療センターの奴かい? あのU18プロセッサの――」
完全に井戸端モードで話し込む二人の横で、エリカは耳鳴りがしそうな圧迫感に喘いだ。兄のようで弟のような、あの真面目でズレた幼馴染みはどこに……
エ
リカの目線が現実逃避めいた動きの末に、ふと手にあるメモに止まる。
彼が消えた時刻、残らない記録、拉致の可能性。
降って湧いた突拍子もないひらめきにエリカは我知らずつぶやいた。
「ミッチは犯人にさらわれたのかも」
「マジで腹立つ犯人で…………ちょっと待ってエリカ、今なんて言ったの?」
「だって、イスルギ中のシステムが乗っ取られてるんなら、人一人の存在を消すぐらい簡単のはず。ログを潰して、カメラの映像に細工すれば」
「それができるのは〈ロアゾオ・ノワール〉を操る犯人だけだ。
でもなんのためにミツル君を?」
「むしろ……」
トクガワが垂れた目に鋭い光を宿す。
「ミツル君の方じゃなくて、彼が見つけた人物を隠すためじゃないかな。
なんてったっけ、古風なええっと……そうハナだったか」
その名を聞いた途端、エリカが強くトクガワの肩を掴みガクガクと揺すぶる。
「トクガワ課長、今ハナって言いました? それミッチが言ったんですね?」
「そ、そうだけど君は知ってるの?」
「もちろん顔見知りです。
島田華。ドイツ人とのハーフで本名はティーラ・ハンナ・シマダ。
ハナって呼ぶのはミツルと僕だけ――」
「ティーラ・ハンナ!?」
今度はレンが叫ぶ番だった。
「そいつだよ、私が後一歩で取り逃がした犯人!」
二人は互いに顔を見合わせ、そして同時に結論を述べた。
「ハナがミッチを誘拐して」
「この街にウィルスをばらまいた」
そこへトクガワが苦い言葉で釘を刺す。
「あるいは、ミツル君がハナとやらの共犯者か、だ」
三者が芝生の上で沈黙するのを、沈む夕陽が赤く照らしていた。




