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22.六十七万のための鳥かご


〈ロアゾオ・ノワール事件〉


それは前代未聞かつ超大規模のネットワーク犯罪として、その顛末まで含めて後に伝説となった事件である。


2062年六月二十七日午後一時。

イスルギにあるほとんど全てのエージェント、パイロット、並びにインターウェア機器が動作を受け付けなくなり、共通のメッセージを発信した。

一分後には機能が回復したが、それはまだ事件の始まりに過ぎなかった。


時を同じくして、一人の人物が行方不明となる。


大幸充オオサキ ミツル


彼はイスルギ民警所属の民間警察官であり、当時は無名の存在であった。



 ***



「……ッ」


ミツルが目を覚ました空間は、暗く、寒く、そして完膚無きまでに殺風景であった。天井は高く、鉄骨とコード、そして断熱材に覆われたパイプが規則正しく走る。


スタンガン、テイザーの電圧自体は大したことがなかったのだろう。

多少引きつりがあるが手足は動く。だが後頭部がズキズキと痛いし、まるで二日酔いのような不快感はいったい……


「目が覚めたの? もう少し寝ててもいいのよ」


「ハナッ!?」


ミツルが身を起こしたそこに、彼女がしゃがんでいた。


白いサマーワンピースから伸びる手足が、青白い非常灯の下で病的に白く浮かび上がる。長い髪は黒く艶やか。アメリカンボンネットの落とす影の中、青い眼が炯々と燃え、吊り上がった口が怪しく揺らめく。


彼女、島田華シマダ ハナはミツルの前から姿を消した時と同じ、無邪気な雰囲気をまとって彼に笑いかける。


「もう、ミツルくんってば、転んで頭打ったのよ。

 軽い脳震とうで済んでよかったわ」


「脳震とう……まて、なんでお前が……っ?」


差し出そうとした右手に違和感。

見れば手錠と鎖がミツルの手をトラス材に繋いでいる。スーツの袖は半ばまで裂かれ、内ヒジには脱脂綿が当てられていた。


「睡眠薬を打ったんだけど、問題なかったようで安心したわ」


ハナはコーヒーに塩を入れたと言うぐらいの、ごく微量のイタズラ心を言葉に滲ませる。だがその内容はミツルに怖気とひとつの確信を与えた。


「ハナ、俺を拉致したのか」


「ええそのとおり。

 ここまで運ぶのにちょっと手は借りたけど、拉致したかったのは、そして拉致したのは私だけ」


彼女の、かつては心地よかったはずのふざけた言葉回しが、今のミツルにはどこか恐ろしい。


「なんで俺を」


「偶然よ。単なる偶然。

 気になる娘を追ってたら、ミツルくんが近くにいるって知って。

 どうせなら見届けて欲しかったの」


「見届ける?」


問いかけたミツルに、ハナは立ち上がって背後のパネルを示す。

そこに再生されていたのはあの犯行予告であった。ミツルは初めて見たが、メッセージが一巡するころにはその眉間に深いシワを刻んでいた。


「おいハナ! これはどういう事だ!

 イスルギを海に沈めるって、お前いったい何を考えてる!」


「あれは単なる脅し。本気にするなんてミツルくんは相変わらず真面目ね。

 私の願いはそんな事じゃないわ」


「そんな事? 島を沈めるのがそんな事だって?」


「ええ、私にとってはどうでもいいわ。大切なのはその過程。

 お金も法律も、クライアントからの注文に過ぎないわ」


「クライアント……まさか〈人道会〉か?」


「半分ハズレよミツルくん。でも教えてあげないわ。それもどうでもいい事だし」


頭がはっきりしていくにつれ、ミツルは自分が誰と話しているのか、誰を相手にしているのかを思い出す。


森澄研究室きっての秀才、謎多き帰国子女、彼の恋人……

〈手段のためなら目的を選ばない女〉


それを再確認したとき、ミツルは開き直って彼女と向かい合う。


「忘れてたよ。お前は恋愛がしたくて人を好きになるようなタイプだったな」


「あら、ミツルくんもそんな怒った顔ができるようになったのね。

 でも勘違いしないで。つきあい始めた理由は恋したかったからだけど、あなたの事は愛してる。今でもそうよ」


「よく言う。ケンカした翌日に夜逃げしておいて」


「アメリカから急な誘いがあったの。

 連絡できなかったのは謝るけど、あなたを振ったなんて誤解もいいところだわ。

 お望みなら、ここで証明してみせるわよ?」


彼女は唇をチロリと舐め、その手はワンピースの肩紐に掛かる。

しかしミツルは踵で鉄板床を鳴らしてハナの動きを止めた。


「結構だ。俺を抱くために拉致したんじゃないんだろう?

 ハナ聞かせてくれ、お前は何がしたいんだ?」


問われたハナはギラリと目を輝かせ、パネルの前で両手を広げると熱っぽく語り出す。


「二年前の失敗を取り返したいの。

 あの時果たせなかった事を成し遂げる。〈ロアゾオ・ノワール〉はそのための手段よ」


「広域のウィルス汚染が手段? その〈ロアゾオ・ノワール〉はいったい……」


「あせらないでミツルくん。時間はまだあるわ」


ハナが部屋にひとつしかない扉を、ノブではなくハンドルが付いた頑丈な扉を開ける。自分が出て行くためではなく、外からそれ(・・)を招くために。


入ってきたのは長い金髪の少女。

いや、ミツルは全身に包帯の巻かれた身体を一瞥して正体を覚る。

ガイノイドボディ、それも日本国内では流通していないSP用の隠密戦闘型コンバットギニョル


「〈メーテル〉、ミツルくんを眠らせてあげて」


「!」


ハナがその名を呼んだ瞬間、ミツルの全身から冷や汗が吹く。


「はい、了解しました」


メーテルと呼ばれたガイノイドは無感動に返事をするとミツルに掴みかかり、素速く腕を取ってねじ伏せた。彼女の二の腕から注射針が展開する。


「んおっ! の、な、待てハナ! こいつは!」


「それは単なるお人形よ。心配しないで」


素速く注射を打った機械の少女は、そのままミツルを地面に押しつけて固定する。


「またね、ミツルくん」


ハナが退出し、ドアが重い音を立てて閉まる。


酷くなる不快感と襲い来る眠気。

ミツルは鉄板に這いつくばったまま、徐々に意識を失っていった。

落ち行く目蓋のむこうに、メーテルの仮面のような顔を睨みながら。



 ***



ミツルと合流できないまま、急いで博物館にとって返したレンとトクガワ。


「どう?」


ハンガーに走り込んで状況を訊ねたレンに、アキヒロ班長が肩をすくめる。


「やられたな」


その簡潔なひと言でレンは現状を察し、苦い息を吐いた。

ブリーフィングスペースの特大パネルはいつものように白いが、その右端には例の〈黒い鳥〉が居座り、赤い眼をキョロキョロと周囲に向けている。


「メッセージは受け取ったが文字化けが酷くて読めねえ。

 いったいどうなってるんだ?」


「やっぱり駄目だったか」


「やっぱり? 係長のメールが駄目になる理由が……おい、若造はどうした、一緒じゃなかったのか?」


「その件も含めて私とジョーで説明する。その前にみんな集めてアッキー」


アキヒロ班長が技術班を呼ぶ間に、彼女はオフィスに戻ると自分の使っている機器を一通りチェックする。


外出用のブレスレット型着用端末(ウェアブレット)、感染してる。

彼女のファイル型端末、アウト。

私用のゴーグル着用端末ウェアブレット、鳥が邪魔で見えない。


しかし仕事用の着用端末ウェアブレット机型個人用端末ワークスペースは無事だった。


「予想どおり、となると感染経路は……」


彼女は防水のツールボックスを引っつかむとオフィスを出て、アキヒロの号令に集まった技術班にボックスを投げて告げる。


「全員、今すぐ着用端末ウェアブレットをそれに入れて。アッキー、ここのメインを落として」


「メインを落としたら仕事にならねえぞ?」


「いいから急いで」


全員が着用端末ウェアブレットを入れたのを確認し、レンは箱をロープでグルグルと巻くとビッグサイズのレンチを重しにしてドルフィンの整備用プールに沈めた。

横で見ていたアキヒロ班長が首をひねる。


「やたら厳重だな」


「個人用の着用端末ウェアブレットは電源を完全には落とせないからね」


「切っても勝手に再起動するってか?」


「うん、その可能性が高い」


ハンガーのメインサーバーが停止した事で、あちこちにあったホワイトパネルが単なる板に成り下がる。「ひーくん」を始めとする四台のロボット、そしてドローンたちも沈黙した。


「あとは……」


レンはプレハブオフィスの二階に上がり、整備のためにメンテナンスベッドに寝かされた三人娘と、その整備端末をチェックする。


「……よかった。たぶんこっちは食い込んでないと思ったよ」


パネルを叩いて整備ルーチンを中断。三人を起動する。


「レンちゃんおはよう。あれ、ティーチャは一緒じゃないの?」


「ちょっと事態がややこしくてね。念のために聞くけどサクラ、君は君だね?」


「僕が、僕? ちょっとよくわからないけど、僕はサクラだよ。

 ハウンドバードのパイロットで、レンちゃんの同居人で……それから、えっと」


「それだけ言えれば充分だ」


続けて起きるアオイとヒトミの様子を確認しながら、レンは緊張の端でクスッと笑う。彼女の推測が合っていれば、サクラの受け答えだけで確信するに充分な証拠になる。


大丈夫、三人は感染していない。



 ***



事態が始まって三時間。


関係各所が動きだし、一部を除いて公的機関が閉鎖を始めていたころ、〈ロアゾオ・ノワール事件〉の最初の被害者がイスルギ外環状高架線ラウンドハイで出る。


若手代議士と美人秘書を乗せた車が、突如として交通管制ナビゲートを外れて暴走し、街路灯に激突。事故を取り上げたニュースネットの映像には、黒い鳥が犯行声明をもって割り込む。


『本気にしていただけなくて残念です』


イスルギ市民はそれに恐れ戦いたが、しかしすでに手遅れであった。

時を同じくして空港と港湾の管制システムが完全にマヒしたのだ。もはや通常の手段では誰一人としてイスルギを離れられない。


最寄りの陸地から千キロ離れたこの巨大な人工島は、一瞬にして六十七万の人間を閉じこめる巨大な鳥かごと化したのだ。


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